九月



 

「ザックス」

彼は不機嫌に溜息をつき、片手に持った袋をひょいと肩に引っ掛け、体半分だけ振り向いた。

「なんだ」

さっき曲がった角の反対側の突き当たりに、彼のろくでもない遊び仲間達―友達とは言えないだろう―がたむろし、彼の方へにやけた視線を寄越している。明るい金髪で童顔の男が、懐っこい笑みを浮かべてひらひらと手を振ってみせた。その隣の赤茶けた髪の男が、耳障りながらがら声で言った。

「昨日はどの女の所にしけこんでたんだ?いつもの店で待ってたのに来なかったじゃねぇか」

彼が答える前に別の男が口を挟んだ。

「聞かねぇ方がいいぜ。こいつの手がついてねぇ女を探すのがよけい難しくなっちまう。もっともまだこの辺に残ってれば、ってことだがよ」

どっと笑う仲間達に向かって仏頂面を保つのが、彼としては精一杯の愛想だった。

「用はそれだけか?じゃあ俺は行くぜ」
「待てよ」

先程の赤茶の髪の男が再び呼び止めた。

「これから賭場をひやかしに行こうって言ってたんだ。女達も連れてよ。お前もどうだ?」

彼はうろんな顔つきで、爽やかな風の吹きぬける高い空と、その半分までも行っていない太陽を見上げた。

「・・・いや、やめておく」
「まさか親父が死んだからって、今さらまじめに靴屋に身を入れようってわけでもねぇだろ」
「ザックスって靴屋だったのか?」

誰かが素っ頓狂な声で応じ、また笑い声が起こったが、彼は唇の端すら動かさなかった。たった一人の身内だった父親がちょっとした風邪をこじらせてあっけなく死んだのは半年以上前だ。気にするはずもない。

「お前ぐらい賭け事に強けりゃ、仕事なんかしなくたって食うには困らねぇだろ。腕っ節だってこの辺じゃ一番強ぇしよ」
「それにいざとなりゃ面倒みてくれる女達が列を成して待ってるしな」

からかい半分、ねたみ半分の言葉を、彼は鼻先で素っ気無くいなした。

「悪ぃが今ぁかったるくてそんな気分じゃねぇ」

男達が意味ありげな含み笑いを交わすのを無視して背を向けた。その背を声が追ってくる。

「夜には来いよ。お前が来ると女達の機嫌がいいからな」
「幸運の女神もな」

薄っぺらな笑い声を背後に聞きながら、振り向きもせず軽く片手を上げ、さっさと立ち去った。あいつらの言った事はたぶんどれも間違いではない。十代の頃からずっと放埓な生活を続けてきたし、おそらくこれからもずっとそうだろう。ただこのところちょっと遊びにも気分が乗らないだけだ。

孤独が身に染み付いているせいか、時々、群れていることに無性に嫌気が差す・・・だが、執拗に心にこびりつくその奇妙な違和感を忘れる術はすでに体得している。一時の刺激と快楽―必要なのはそれだけだ。彼の人生には不安も恐れも無く、目的も、希望も、心から大切だと思えるものも無かった。

彼はふと心にきざした疑問を振り払うように首を横に振ると、足を速めて自分の家の前を通り過ぎ、町を出て、目的地に向かった。
 
 
 

生まれ育った町外れの小さな靴屋は、幼い頃から居心地の良い場所ではなかった。そのかわり彼はしばしば、少し離れた山中に住む老猟師のところに入り浸っていた。この老人は彼が子供の頃、山で怪我をして動けなくなっていたところを助けてくれた恩人で、その後彼は、何ということもなくぶらっとその家を訪ねるようになっていた。老人は特に優しくしてくれるわけではなかったが、彼を非難するようなことも言わなかったので、彼にとってその猟師小屋は、気が置けない避難場所のようなものだった。老人は寡黙な偏屈者で、髪は真っ白だったが灰色の目は鋭く、年齢も、町にどんな係累があるのかも定かではなかったが、彼は別に気にしなかった。十年以上が経ち、彼は少なくとも見かけは立派な大人になったが、老人の態度も姿も出会った時とまったく変わらなかった。
 
 

そう、その頃彼はまだ、自分の運命にどんな物語が定められているのか知らなかった。その日も彼は老人の所に寄って持ってきた荷を置いた後、勝手に猟師道具を拝借して―それが習慣になっていて、老人も黙認していた―山中で手頃な獲物を追っていた。深緑の梢越しに覗く空は爽やかに晴れ渡り、九月も終わりだというのにまだ風もそれほど冷たくない。黒い森の中はいつもと変わらぬ静けさと樹々の香りに満ち、彼の人生を変える出来事が待っていると予感させるものなど何一つなかった。なぜあの時、藪を掻き分けてあの場所に出たのかもよく覚えていない。たぶん、ウサギか何かを追っていたのだろう。とにかく彼は、崖の上のわずかにひらけた空間に出て、その途端、今まで自分が何をしていたかを忘れた。
 
 

今にも崩れ落ちそうなガレ場の突端に彼女は立っていた。吹き上げる風に豊かな長い黒髪をなびかせ、青い服の裾をひらめかせて。彼は一瞬、山に棲むあやかしだ、と思った。迷い込んだ男に魅入り、魂も、命までも奪ってしまう、美しい魔性の生き物だ、と。その証拠に、鼓動がひどく乱れ、風に舞う青い布の合間からのぞく白いふくらはぎ―いや、どうかするとそのずっと上まで見えそうだ―から目が離せない。ふと、強風に煽られ、まるで散りかけた花から最後の花びらが落ちようとするかのように、なよやかな体が揺らめく。次の瞬間、彼は何も考えずに走り出し、片手で彼女の肩を思い切り掴んで引き寄せていた。彼女はまるで人形のようにたやすくバランスを崩して後ろ向きに倒れ、彼は彼女を庇うような格好で腕に抱き、石だらけの地面に一緒に転がった。

空を裂くような悲鳴が上がった。

「な・・・なんだ?」

彼は思わず力をこめて彼女を抱き寄せたが、彼女は彼の腕の中でいっそう激しくもがき、何事かわめき散らしながら、両の拳で彼の胸を殴り、脚で彼を蹴り上げようとした。

「おい・・・やめろ!」

彼は怒鳴り、彼女の動きを封じるように強く抱き締めた。が、しかし彼女は、意味不明の叫び声を上げ続けるばかりで、一向に暴れるのをやめようとしなかった。彼はやむを得ず彼女の上に圧し掛かり、両手を掴んで頭の脇でしっかりと押さえつけた。彼女は必死で抵抗し、彼の手首に思い切り噛み付いた。

「っ・・・」

彼は腕に力を入れ、筋肉を強張らせた。真珠色の小さな歯が日焼けした硬い皮膚に食い込み、薄く血を滲ませる。だが、彼の頑強な腕に、可愛らしい刃物はそれ以上傷をつけることはできなかった。彼は野生の生物を馴らす時のように―実際にそういうことをした経験があるわけではなかったが―ただじっと彼女を押さえ続けた。やがて彼女が諦めたように彼の腕から顎をはずし、形の良い唇を引き結んでぐったりと顔を逸らした。その時、彼の目ははっきりと捉えた。まるでひどく殴られたように、切れて血のこびりついた唇、そして腫れ上がり、変色した、頬と目の周りを。

彼は一瞬にして全てを理解した。彼女に何があったのか・・・そして、なぜ死のうとしていたのか。彼自身は―女に不自由してはいなかったので―女性に無理強いしたことなどなかったが、それがどういうものかは知っていた。ぐしゃぐしゃの髪、全身にこびりついた泥、引き裂かれた服からこぼれ出た白い肌に浮かぶ無数の青紫色のアザ・・・一瞬吐き気を催すほどのむごい有り様の彼女を見て彼の口からこぼれたのは、しかし、思いもよらない言葉だった。

「ヴィー・シェーン(なんてきれいなんだ)・・・」

彼は顔をしかめて唇を噛んだ。こういう場合なんと声をかけるべきなのかは分からないが、今のが不適切な発言だったのは間違いない―たとえ彼女には聞き取れなかったにせよ。だが彼は、完膚なきまでに痛めつけられた彼女の外見の内に、それでも全く損なわれていない美しさを見た。そしてどういうわけか、彼がその言葉を呟いた途端、彼女の全身から発散されていた凄まじい敵意と恐怖が、ふっとゆるんだ。彼は心臓が奇妙に高鳴るのを抑え、怯えた動物に話しかけるように―そんなこともしたことが無かったが―できる限り優しく、ゆっくりと語りかけた。

「心配するな。俺はお前を傷つけたりしねぇ。お前を助けたいだけだ」

彼女はまだ彼から逃れようと身じろぎしていたが、その力は既に弱々しくなっていた。彼は慎重に彼女の体を拘束したまま、それでもなるべく体を離すようにして、そっと囁いた。

「死ぬな。俺はお前を死なせたくねぇ」

ついに彼女の抵抗がやんだ。彼女が目を伏せたまま何事か呟いたが、彼には聞き取れなかったし、聞こえたとしても意味は分からなかっただろう。彼にはもう分かっていた。彼女はこの山岳地帯の南、彼の国にとっては敵国である地からさまよって来たのだということが。彼はゆっくりと彼女から手を離したが、彼女はもう逃げなかった。

「歩けるか?無理ならおぶっていってやる」

のろのろと顔を上げた彼女と目が合った瞬間、他の全てが消えた。彼は、突然霧の中から出現した湖のように蒼く輝く神秘的な色に呑み込まれ、その底知れない深みに落ちていった。


 

 続き Fortsetzung

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