「俺じゃねえ」

彼らしくもなく、開口一番、弁解の言葉が出た。彼女を抱いて入ってきた彼を厳しい目つきで睨んでいた老人が苦々しげに口を開いた。

「わかっとる。もしお前がやったと思ったなら、お前を家の中へ入れやせん」

老人は重々しく立ち上がると、ゆっくりと部屋の奥に向かい、続きの寝室の扉を開けた。彼はほっと息をつき、奥に進みかけて、立ち止まった。これだけは先に言っておいた方がいいだろう。

「こいつ、その・・・シディニアから来たらしい」

釣り上がった白い眉の奥の眼光が、これまで見たことも無いほど鋭くなった。彼は息を呑み、束の間、追い出されるのではないかと身構えたが、老人はただ黙って寝室の方へ顎をしゃくった。彼はそれ以上四の五の言わず、うなずいて従った。
 
 

彼女をここに連れてきたのは、他に当てが無かったからだ。彼女の状態と国籍を別にしても、とてもではないが町の隅に在るあの薄汚れた自分の家に連れて行く気にはなれなかったし―これまで女を連れ込むのを躊躇したことなどなかったのに妙なものだ―こういう時信頼できる知人は、他にいなかった。彼は彼女を奥の部屋に運び込むと、老人が手早く整えてくれたベッドにそっと降ろした。小さな足に奇跡のように残っているぼろぼろの靴を丁寧に脱がせる。彼の手が離れても彼女は緊張を解こうとはせず、ここまでの道中と同様に体を小さく縮こまらせ、ベッドの上で自分を守るように膝を抱えていた。彼は、彼女がもう一度視線を向けてくれないかと一瞬待ったが、彼女は顔を上げようともしなかった。彼は我知らず小さく溜息を洩らして彼女の傍を離れた。

女が身づくろいするのに何が必要かなど彼には分からなかったし、そもそも女のためのものなど何も無かったが、彼は老人の指示で、とりあえず、たらいや水、体を拭く布、櫛、それに男物だが清潔な服などを用意した。どうせ言葉は通じないので、いちいち彼女に説明したりはしなかった。国が違ってもこれらの使い方にそう違いがあるとは思えないし、こちらの意図も、見れば分かるだろう。彼は黙々とそれらを整えると、彼女が落ち着けるよう、さっさと部屋を出た。入れ替わるように、それまで扉の前に立ち、手を後ろに組んで様子を眺めていた老人が、ゆっくりと彼女に歩み寄った。彼は台所のテーブルの傍で立ち止まって振り返り、寝室の狭い入り口越しに、老人が彼女の方に身をかがめ、何事か話しかけるのを見た。声は聞こえなかったが、彼女がぱっと顔を上げて老人に目を向けるのが見えた。老人は穏やかな表情で彼女にうなずくと、急ぐ様子も無くその場を離れ、じっと壁を見ている彼女を一人残して、扉を閉めた。
 
 

「いったい何て・・・」

彼は尋ねかけたが、老人の表情を見て口をつぐんだ。老人は緩慢な動きで椅子に腰掛けると、もう一脚の椅子に向かっておっくうそうに手を振った。

「さて。で?」

彼はおとなしくその椅子をひいて座り、一部始終を語った。溜息と共に老人が呟いた。

「・・・そうか。では、しばらくここで面倒を看ることになるな」

思わず声が明るくなる。

「いいのか?」
「他にどうしようもあるまい。あの状態では家にも戻れまいし、まずは怪我を治さねばな。どうせお前の家ではろくな世話は期待できんだろう」

彼はきまり悪そうに机の上で組んだ手に目を落とし、親指をこすり合わせた。

「それにここの方が人目につかねぇし・・・」

老人は鼻を鳴らした。

「もともとそのつもりだったのだろう?よかろう、助けた者に対しては責任がある。元気になるのを待ち、様子を見て、適当な時機になんとか無事に向こうに送り帰す手はずを考えよう」

それもまた面倒だが、という口調で老人は言ったが、彼はすっかりほっとして、そそくさと立ち上がった。

「助かった」

これでこの問題は片付いたも同然だ。少なくともしばらくは。

「じゃあ、俺はこれで。近いうちにまた来る。そうだな、必要そうな物を調達して、たぶん明日か明後日・・・」

言いかけた彼を、老人がふと表情を鋭くして遮った。

「・・・水の音?」
「え?」

彼は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。彼女がたらいの水を使っている音だろうか?だが、それでなぜ、そんなに険しい顔をする必要があるんだ?

「しまった!湖だ!」

老人が慌てて腰を浮かせ、次の瞬間、彼は事態を悟った。椅子を蹴り倒して立ち上がると、遠慮もなしに寝室の扉を叩き開ける。ベッドはもぬけの殻。その向こうで、湖に向かって開いた小さな窓板が頼りなく揺れている。

「くそったれ!」

窓は、彼には小さすぎるが、ほっそりした女なら難なく通り抜けられるだろう。

「なんてぇ女だ!」

口汚くののしりながら彼は小屋の入り口から飛び出した。小さな建物を周り込み、裏の湖に駆けつける。案の定、彼女は胸まで水に浸かり、なおその先に進もうとしていた。

「させるか!」

彼は猛烈な水しぶきを上げて湖に走り込み、気づいた彼女が逃げようとするのを、後ろから羽交い絞めにして捕らえた。彼女は再び激しく抵抗したが、かなわないと分かっていたからだろう、今度は比較的すぐにおとなしくなった。彼は彼女を軽々と肩に担ぎ上げると、あっという間に水から上がった。そのまま足を止めることなく、厳しい表情の老人の脇をすり抜けて、ずかずかと小屋に戻る。唇を真一文字に結び、一言も口をきかなかった。扉が開きっぱなしの寝室に入ると、先程彼が用意した品々が、手もつけられぬまま残っているのが目に入った。かっと頭に血が上り、まるで荷物のようにぞんざいに彼女を床に投げ降ろし、いきなりびしょ濡れの服を剥ぎ取り始めた。もともとぼろぼろの服が更に裂け、彼女が声にならない悲鳴を上げる。背後から厳しい声が彼をたしなめた。

「乱暴にするでない。癇癪を起こしても何にもならん」
「黙っててくれ!」

彼は怒鳴り返したが、ブラウス―だったもの―を脱がせたところで手を止めた。裂けた布切れが貼り付いているだけの下着姿の彼女をベッドの方へ突き飛ばすと、脇に置いてあった毛織のブランケットを投げつける。

「お前がその気ならこっちにも考えがある!四六時中、目を離さずに見張っててやるから、そう思え!」

彼は台所から倒れた椅子を引っつかんでくると、わざと大きな音を立ててベッド脇に置き、どさりと座り込んだ。片脚を上げて半分あぐらを組み、胸の前で腕組みして、ベッドの上で震えている彼女を睨み据える。再びじっと彼に向けられた吸い込まれそうな蒼い瞳を直視しないよう、彼は視線を落とし、厚い布地に包まれた小さな膝を見つめた。老人の溜息が聞こえたが、彼は身じろぎもしなかった。


 

 続き Fortsetzung

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