『いやっ、やめてぇぇぇっ!!』

夢の中の悲鳴で、彼女はびくりと身を震わせて目覚めた。硬直した咽喉に詰まった息を、時間をかけてなんとか吐き出す。わずかにみじろぎ、自分の体に着せ掛けられたゆったりした長衣に気づいた。眉をひそめ、のろのろと顔を上げた彼女は、それほど離れていない場所に大柄な男の姿を見て、再び全身に緊張を走らせた。男は椅子に深く腰掛けたまま、うつむき加減に首を傾げて眠っている。その太い首とがっしりした顔の輪郭、頬まで覆う金色の無精髭と広い額に落ちかかる金褐色の巻き毛を彼女はしばらく見つめていたが、やがてそろそろと身を起こし、静かにベッドの反対側ににじり寄って、音を立てないように窓の閂をはずした。窓板をゆっくりと押し開ける。途端に冷たい湿った空気が流れ込んできて、ぶるっと身震いした。彼女は閂の棒で窓板を支えてからもう一度男の方を見遣り、片手で長衣を身に引きつけるようにぎゅっと握って、窓枠に片膝を乗せた。
 
 
 

夜明け前の湖は立ち籠める霧の底で鈍くくすんでいた。周囲を覆う黒い森は霧に満たされ、暗く、深く、どこまでも続いているように思える。ひんやりとまとわりつく空気の中に、破れた下着の上に羽織った長衣の襟を掴んで立ちすくみ、彼女は、流れる霧の合間から時折垣間見える灰色の湖水を―その底で揺らめく白い倒木をぼんやりと眺めていた。
 
 

今なら行ける。こんなふうに静かに水底に沈み、全てのわずらわしさから解き放たれて、永遠の平安を得ることができる・・・あの男が眠っている今なら。

だが彼女の裸足の爪先は、その下半分だけを冷たい水に浸したまま、根が生えたように動かなかった。
 
 

どうして?なぜ自分は、目の前で待っている安らぎではなく、背後に置き去ってきたもののことを考えているのだろう?なぜあの男のことが気になるのだろう?・・・当然だ。彼は彼女を捕らえ、しかも彼女をどうするつもりなのか全く分からないのだから。でも、じゃあ、なぜ、何を、自分はためらっているのだろう?せっかく逃げ出せたというのに、何を?このまま進めば何かを、とても大切な何かを、ひどく傷つけてしまう気がするのはなぜ?・・・分からない。考えるのがとてもおっくうで・・・

霧のとばりがわずかずつ薄くなり始め、物の輪郭が次第にはっきりしてきた。森の奥の方で、小鳥達が喉慣らしのように短いさえずりを上げ始めるのが感じられる。もうじき、夜が明ける。
 
 

あの男が突然彼女の前に現れるまで、世界は完全に闇に閉ざされ、真っ黒に塗り籠められていた。ただ一刻も早くこの忌まわしい体をこの世から消し去りたい、頭の芯が麻痺したような吐き気と不快感から解放され、楽になりたい、それしか頭になかった。けれどあの時、まるで稲妻のように彼が飛び込んできて・・・何かを変えてしまった。―それが良いことなのかどうかは分からなかったけれど。

彼は彼女に強烈な感覚を呼び覚ました。それは、最初は、恐怖と嫌悪そのものだった。彼は例の男達以上に体も大きかったし、いかにも荒くれ者といった風貌で、実際、彼女が死に物狂いで抵抗しても、まるで大きな岩の塊を相手にしているようにびくともしなかった。さらに彼女は、脅しやいたぶりの言葉が浴びせられないのは、彼が彼女に分からない言葉を話しているせいだと気づいて、パニックに陥っていた。敵の人間に捕まってしまった―残酷で非道な、情け容赦も望めない相手に。殺されるのはかまわない、でも、まだ苦しみ足りないと?・・・だが彼は、彼女が抵抗する気力を失った後も、彼女を痛めつけることもなければ、その場で自分のものにしようとすることもなかった。

彼女から手を離した彼は、目が合うと何かに驚いたようにしばらく呆然と彼女の顔を見つめていたが、急に体を起こし、まるで彼女を背負おうとするように背を向けてしゃがみこんだ。もちろん彼女は全身を硬直させたまま、ぴくりとも動かなかった。彼は少しの間そのままでいたが、やがて小さく溜息をついて振り向き、そっと手を伸ばしてきた。金色の毛に覆われた丸太のような腕―さっき彼女が噛み付いた跡に血が滲んでいたが、彼は全く気に留めていないようだった―に抱き上げられる間も、彼女は抵抗せず、ただじっと身をすくめていた。

彼の意図は、彼女にはまったく理解できなかった。どうやらすぐに殺すつもりはないらしい、ということだけは分かる。けれど優しく抱えられてこじんまりとした家に運ばれても、まるで客をもてなすように丁重に扱われても、彼が自分をどうしようとしているのか、何を求めているのかはさっぱり分からなかった。逃げ出せば彼が怒るのは予想できた。でも彼の怒りは、彼女が予想していたものとはどこか違っていた・・・どことははっきり言えないけれど。彼女は彼が恐ろしかったが、彼から目を逸らすことはできなかった。

彼はそのがっしりした強靱な腕で、この世からすり抜けようとする彼女の魂までも押さえ込んでしまったのかもしれない。彼から逃れ、生きることから逃れたいと思っているはずなのに―あるいは、もう、何もかもどうでもいいと思っているはずなのに―彼女の思考はいつのまにか彼のところに戻っていく。その求心力の強さは、それまで彼女をからめ捕っていたおぞましい記憶―と言っても、髪の毛を掴んで引き倒され、数人がかりで押さえつけられて気が遠くなるほど殴られた後のことは、ほとんど覚えていない―さえ、凌駕していた。いつしか彼女は、彼の前で膝を抱えたまま、眠りに落ちていた。自分が再びそんなふうに眠れるなんて、思ってもみなかった。そんな強力な魔術のような力を持つあの男は、いったい何者なのだろう?何かとても・・・危険な・・・
 
 
 

「おはよう」

突然、背後で声がして、彼女はぎくりと振り返った。小屋の傍にあの男の身内らしい老人が、後ろ手に手を組んで立っていた。老人はそのままゆっくりと歩いてくると、少し離れた場所で立ち止まった。

「具合はどうだね?少しは落ち着いたかな?」

きゅっと口を結んだまま、彼女はまじまじと老人を凝視した。老人はかすかに微笑んだように見えた。

「まず最初に、なぜ私がお前さんの国の言葉を話せるのか、それを訊きたいだろうが・・・それには答えられない。ただ、あの山を越えて過去から逃れてきたのはお前さんが最初ではない、とだけ言っておこう」

その言葉に驚いたにせよ、そうでないにせよ、彼女は全く表情を変えなかった。老人は気にする様子もなく、再びぶらぶらと歩を進めると、彼女からやや距離を置いて水際に立ち、次第に晴れていく湖面を眺めた。

「ここは静かだ」

老人がぽつりと呟いた。

「穏やかで、平和で・・・何にもおびやかされることはない。誰かに傷つけられることも、傷つけることも・・・」

しばしの沈黙の後、老人は再びのんびりした調子で口を開いた。

「信じられるかどうかはわからんが、わしらを恐れる必要はない。ここでは誰もお前さんを痛めつけたりはせん。あの子もだ」

老人は、最後の言葉に彼女がわずかに反応して眉をひそめたのを見て、くっくっとおかしそうに咽喉を鳴らした。

「お前さんがそう思うのもわかるが、あの子はああ見えて、人一倍繊細でな。昨日あんなに怒ったのも、お前さんに置き去りにされたように感じたからだろう」

あの金色の熊のような大男が『あの子』と呼ばれるのも不似合いな気がしたが、何より言葉の内容に当惑した。

「あの子はな、大切に思ったものに置いていかれるのをひどく恐がるんだ。子供の頃・・・」

言いかけて老人は首を横に振った。

「・・・あの子は本当は誠実な、心の温かい子だ。ただ、優しくする仕方を知らんのだよ。本当の意味で愛されたことがないのでな」

彼女がわずかに首を傾げてじっと見つめていると、老人はうなずいて続けた。

「何かを大切に思うということがどういうことかもよく分かってはおらん。だがあの子は賢い子だ。お前さんもここにしばらくいればそのうち分かるだろうが、あの子は・・・」
 
 

その時小屋の方から凄まじい罵声が響き渡り、彼女は思わずそちらを振り向いた。ほぼ同時に、怒り狂った彼が小屋から飛び出し、すぐに湖畔に立つ彼女と老人を見つけて、猛烈な勢いで一直線に彼らに向かって突き進んできた。威圧感のある大柄な体があっという間に彼女に詰め寄り、ごつい手が彼女を捕らえようと伸びてくる。反射的に身をすくめた彼女の前に、さりげなく老人が立ちはだかった。彼が、老人の肩越しに彼女を睨みつけながら、つっかかる調子で老人に何か言った。何を言ったかは分からなかったが、彼が激怒し、彼女を責めていることだけははっきりと分かった。

だが奇妙なことに、彼女はもう、彼の怒りを恐いとは思わなかった。むしろ彼のその感情の熱さが彼女に不思議な反応を惹き起こす。それは、凍てついた暗い湖の底でかすかに謎めいた炎が揺らめくような・・・硬く閉ざされた殻の中心で何かがそっと息づくような・・・つまり、『生きている』ことを否応無く認識させるものだった。そして彼女はその理不尽な感覚を、意識の下では、かなり前から感じていたことに気づいた。たぶん、がっしりとした体に組み敷かれ、彼女にすっぽり覆い被さる温もりの下で運命を受け入れた時から・・・彼がふと洩らした呟きの、純粋で力強い響きが心に落ちた時から・・・
 
 

老人はまったく慌てる様子も無く、落ち着いた声で二言三言彼に言い、それに対して彼が、疑わしげな語調で老人の言葉の一部をおうむ返しにした。彼女に聞き取れたのはそのシュパツィールなんとかという単語だけだったが、彼が低い唸り声を上げて、明るくなりかけてはいるもののまだ陽も射していない周囲を見回し、それから彼女の裸足の足に目を留めたので、それが『散歩をしていた』とか何か、そういう意味だろうということは察しがついた。彼は明らかに納得していない様子だったが、老人が畳み掛けるように何か言うと、急にきまり悪げに顔をしかめてふんと鼻を鳴らし、くるりときびすを返して大股に小屋の方へ戻っていった。彼女は呆気にとられてその後ろ姿を見送った。

「眠ってしまったのが気まずかったようだな。どうやら朝食の支度はあの子がしてくれるらしい」

笑いを含んだ声に、彼女はぼんやりしたまま目を向けた。老人は相変わらず飄々とした掴みどころの無い表情だったが、口角が少し上がっていた。

「私達が話したことはあの子には言わんでくれ。あの子の努力の芽を摘みたくないのでね」

彼女は誰にも何も言うつもりはなかった。もともと彼には言葉が通じないし、通じさせようとも思っていない。彼女はまだ気づいていなかった。死の霧に覆われていた自分の心臓が、少しずつ、ほんの少しずつ、温かな脈動を取り戻しつつあることに。


 

 続き Fortsetzung

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