十月



 

三週間以上が過ぎた。その間彼は毎日、猟師小屋に通った。これまでもちょくちょく訪ねていたとはいえ、これほどの頻度で顔を出したことはもちろんない。彼の遊び仲間達は、急に彼のつきあいが悪くなったのでいぶかしく思っているようだったが、彼が話そうとしないことをあえて問い質すような度胸のある者はいなかったし、彼の方も、遊び仲間がどう思うかなど気にも留めていなかった。―彼の悩みは別のところにあった。

一日と空けず通った理由は、無論、彼女が心配だったからだ。だが、こんなにしょっちゅうでは、まるで見張られているようで鬱陶しく思われるんじゃないだろうか?あんなことを言わなければ良かった・・・四六時中見張っててやるなんて。もちろんあの時彼が何を言ったか、彼女は分かってなかったはずだが・・・やっぱりもう少し控えた方がいいのか?けど、彼女のことが気になって仕方ない。それにもし、もしも、あれがじいさんの思い過ごしじゃなかったら・・・
 
 

彼が自分の家から通うようになって十日ほどした頃のことだった。すっかり彼女の部屋になってしまった奥側の部屋の窓辺で、彼は窓板を新しく付け替えながら、ひんやりした秋風に吹かれて湖畔に座る彼女の後ろ姿をちらちらと眺めていた。

「あいつ、あの場所が好きなんだな」

誰にともなくぽつりと呟く。開け放した部屋の扉の向こうで、老人がおかしそうに口許をゆがめた気がした。

「なんだよ」

咎める口調で言うと、老人は肩をすくめた。

「気がついとらんのか?あそこからは町への道が見える」
「だから?」
「お前を待っとるんだよ」

どきりと跳ねた心臓を無視して、彼はぶっきらぼうに返した。

「まさか」
「なぜそう言い切れる?」
「ありえねぇよ・・・俺は・・・だって・・・」

理由もなくときめく胸に戸惑いつつ言葉を探していた彼は、ふとある事実に気づいて憮然と口を尖らせた。

「だいたい、俺が来たってあそこに座ったまんまで、俺の方なんか見向きもしねぇじゃねぇか」
「そうだな」

あっさり肯定されて彼は複雑な気分になったが、老人はそんな彼の心情を思いやる気配も見せなかった。

「つべこべ言っとらんで、窓が直ったなら、言葉でも習って来い。せっかく教えてくれるようになったのに、お前はさっぱりあっちの言葉を覚えとらんだろう。あの娘にばかり覚えさせるのは不公平だ」

反論しても無駄だと分かっていたので、彼はおとなしく従い―現在に至る。その後二度と老人は思わせぶりなことは言わなかったが、彼の方は、その時生じた、もしかしたらという淡い気持ちを捨てきれなかった。
 
 
 

それはともかく、たしかに、彼のシディニア語がいっこうに上達しないのに比べ、彼女の方は片言ながらも一応、自分の意思を表示できるようになっていた。それは、才能の差もあるのだろうが、何よりも教える側の協力意識の差だと彼は思っていた。なにしろ彼女は、訊かれた単語をぽつりと答えるだけで、それ以上何も説明しようとしてはくれないのだ。だがとりあえず、こちらの言う事を理解してもらえさえすればそれでいい。あまり多くは望むまいと彼は諦めていた。
 
 
 

最初のうち彼女は、言葉を話すどころか、食事さえ拒否していた。あの朝、再び逃げ出した彼女―じいさんは二人で散歩していたと言ったが、彼女は逃げ出したに決まってる。でなきゃ窓が開きっぱなしになってるわけねぇじゃねぇか―と老人を湖畔で見つけた後、彼が怒りをしまって―『ぐっすり』眠っていたので起こさなかったと言われては、返す言葉もない―しぶしぶ用意した朝食にも、彼女は見向きもしなかった。たぶん、少なくともニ、三日は何も食べていないはずなのに。彼は彼女を無視して食事を済ませ、老人も無理に勧めることはなかった。それから彼は、ぴりぴりとした沈黙を破って、精一杯礼儀正しく尋ねた。

「俺はザックス。ザックスだ。お前は?」

彼の言葉が理解できたのかどうか分からなかった。それどころか、彼女の視線はまるで彼を通り越して後ろの壁を見ているような気がする。彼は苛立って声を荒げそうになるのをこらえて、質問を繰り返した。3回・・・いや、4回。結果は同じ。で、切れた。

だが拳でテーブルを叩いて立ち上がった彼が怒鳴り出そうとした瞬間、老人が割って入った。

「焦るな。辛抱強くすることだ。つまるところ、それが一番早い」

彼は何か言い返そうと口を開けたまましばらく考えたが、結局、何も言わずに腰を下ろした。分かった。気にしなけりゃいいんだ。こいつと理解しあおうなんて、金輪際考えるもんか。期待しなければ裏切られることもない。だけど・・・名前が無かったらこいつだって落ち着かねぇんじゃねぇか?

ふと彼の脳裏に、子供の頃よくうろついていた教会の裏庭が思い浮かんだ。いつもひと気が無く、不思議な静けさと安らぎに満ちていて、常に不安を感じていた幼い彼が落ち着くことのできた、数少ない場所。

「・・・マクダレーネ」

彼はぶっきらぼうに呟き、無作法な態度で彼女に指を突きつけた。

「お前はレーネだ」

彼女はやはり何も言わなかった。老人も。だが否定もされなかったので、彼はちょっとだけ溜飲を下げた。再び、今度はゆっくりと立ち上がり、ちらと老人を見た。

「寝る。しばらくこいつを見ててくれ」

言い捨てると、大股に部屋の隅に歩いて行ってごろりと床に横になり、目を瞑った。少し間を置いて椅子の軋む音がし、老人が寝室の方へ歩いて行く足音が聞こえた。扉が小さくキイ、といった。

「お前さんももう少し休みなさい。どうせろくに寝ておらんのだろう?」

返事はもちろん足音も聞こえなかったが、ゆっくりと扉が閉まる音で、彼女が老人の意図を理解してそれに従ったらしいことは分かった。だがその後すぐに老人が戻ってくる気配がして、彼は居ても立ってもいられなくなった。

くそっ、見ててくれと頼んだのに!

しかし彼は我慢してぎゅっと目を瞑ったままでいた。

あいつがどうしようと俺の知ったことか。それにさっきあっけなく阻止されたばっかりで、またすぐ湖に飛び込むなんてことはしないはずだ。・・・そうだろう?

心の中で自分に言い聞かせつつ、彼は神経を研ぎ澄ませ、聞き耳を立てていた。だがそのまま何事も無く平穏な静寂が続くうち、眠気が次第に忍び寄り、いつの間にか寝入ってしまった。
 
 

昼過ぎくらいに彼が目覚めた時、彼女はまだ眠っていた。ほっそりした手足を体に引き寄せ、小さく丸まって。痛々しく腫れあがった顔には、まだ泥がついている。彼は彼女を起こさないよう細心の注意を払って―もちろん起きたら暴れて余計な手間がかかるからだ―濡らした布でそっと汚れを拭き取った。彼女はちゃんと睡眠を摂って落ち着いたのかもしれない、その日の夕方には初めて、薄い汁だけのスープを口にした。相変わらず一言も口をきこうとはしなかったが。
 
 
 

彼女が初めて言葉を―彼に理解できる言葉を―発した時のことは忘れられない。それは例の、待っているのいないのという会話が交わされた日よりもかなり前―彼女を連れてきてからちょうど一週間目のことだった。それまで彼女は唖のように黙り込んだままで、彼は既に最初に聞いたはずの彼女の声も忘れかけていた。ただし彼女は、口こそきいていなかったけれど、ちゃんと食事も睡眠も摂るようになり、彼女のために用意した物も素直に受け入れてくれるようになっていた。彼女が衝動的な行動に奔る危険はもう無いだろうと判断した彼は、その三日ほど前に彼女を老人に任せて自分の家に戻っていた。厄介事を持ち込んだ上に自分までいつまでも世話になっているわけにはいかなかったし、家でやりたい事もあったので。

任せたと言っても、当初考えていたように、それで荷を下ろしたという気分にはなれなかった。家に帰っても落ち着けず、まるで自分の家ではないような気さえした。初めて彼女を置いて帰った日は、帰り際に彼女が見せたうろたえたような眼差しがずっと瞼の奥にちらつき、気になって眠れなかった。翌日、我慢できずに様子を見に行った時には、その不安げな色はもう消えていたが、彼の方の懸念は消えなかった。で、次の日も行った。その次の日も。

彼はそのつど、彼女のための生活用品を少しずつたずさえて猟師小屋を訪ねた。そして、その日の彼は少し緊張していた。実はこの日彼は、自分の手で作った彼女の靴を持ってきていたのだ。
 
 

彼女は老人の家に来てから―彼が彼女の靴を脱がせてからこのかた、ずっと足に合わない古い靴を履いていた。彼は家に戻ってすぐ彼女の靴を作り始めたが、これまで真面目に仕事をしていなかったことが祟って、なかなか思うように作れなかった。彼は請け負っていたわずかな仕事もほったらかして―すでに何週間もほったらかしていたのだから、今さら数日遅れたところでたいした違いはない―家にいるほとんどの時間をそのために費やし、昨夜やっと、なんとか使ってもらえそうなものができあがった。柔らかな子山羊の皮でくるぶしまで包み込むような、ヒモ付きの短靴。あの時手に取った、彼女の小さな足を頭に描きながら作った・・・
 
 

その日持って来た他の品々と一緒にそれを無造作にテーブルの上に置き、すぐに離れて上着を脱ぎながら、彼はこっそりと彼女の様子を横目で観察した。彼女はいつものように無表情にテーブルの脇に突っ立ち、食料や日用品などの雑多な物の山を見るともなく眺めている。彼女の目が靴の上を素通りし、彼は密かに落胆の溜息を噛み殺した。その時老人がついと近寄り、テーブルからその靴を取り上げた。彼が止める間も無く、老人はその靴を彼女の前の床に置いた。

「これは、お前さんの、靴だ」

老人が一語一語を強調しつつ、指で指し示しながら、彼女を見上げて語りかけた。

「履いてごらん」

彼女は老人の顔を、足元の靴を、それから彼の顔を見て、もう一度靴に目を落とした。そのまま動かない。

「別に無理に・・・」

沈黙に耐えかねた彼が言いかけるのを片手を振って遮り、老人が繰り返した。

「履いてごらん」

老人は靴の上部を履きやすいように広げ、立ち上がって一歩下がった。彼女はまだしばらくためらっていたが、やがて意を決したように片足を持ち上げた。大きすぎる古い靴は、彼女のしなやかな足からするりと脱げた。

彼は心臓を激しく動悸させながら、息を詰めて彼女が新しい靴に―彼の靴に足を入れるのを見守った。最初に右足・・・そして左足。良かった。大きさはちょうどいいみたいだ。履き心地はどうだろう?気に入ってもらえたらいいんだが・・・いや、そこまで望むのは・・・

「紐を結んでやれ」
「あ?」

唐突な老人の言葉に彼は面食らった。

「なんで俺が?」

しかし老人は平然と答えた。

「お前は靴屋だろう。自分の作ったもんがちゃんと客の足に合ってるか、確認しなくてどうする」
「こいつは客じゃねぇし、それにそんなこと別にどうでも・・・」

彼は言いかけたが、老人に睨まれて口をつぐんだ。彼がしぶしぶ彼女の前にひざまずくと、彼女が警戒して身をすくめるのを感じた。しかし彼はそれを無視して、背もたれ付きの椅子を彼女の手元近くまで引き寄せ、その背を示すように軽く叩いた。

「つかまってろ」

彼が彼女の片足を両手で包んで持ち上げるようにすると、彼女が慌てて椅子の背に掴まった。彼はさりげなくそれを確認しながら、いかにも無造作に彼女の足を靴ごと自分の膝の上に載せた。そのまま靴を足に合わせて簡単に整え、手早く紐を結ぶ。

「まあ、悪くはなさそうだな」

爪先や踵のはまり具合を形ばかり確認して独り言のように呟き、もう一方の足も同じようにした。

「いいんじゃねぇか?少なくとも前のよりかはましだろう」

一度も彼女の顔を見ずに立ち上がり、背を向けると、老人の目がかすかな笑みを浮かべているのが目に入った。いやな予感がした。

「この靴はな、この子が、作ったんだよ」

老人が手振りを交えて彼女に言った。彼はショックで口もきけなかった。ひどい。なにもバラすことはないだろう。誰が作ったんだろうと彼女には関係ないことだし、気にもしなかったはずだ。けど、彼が作ったと分かったら彼女は嫌がるかもしれない。気に入ってもらえるかどうかも怪しかったのに、もし足を入れてるのも嫌だと思われたら・・・しかし老人は容赦なかった。

「この子が、お前さんのために」

彼を指差してから、彼女を指差す。とても彼女の方を見る勇気はなかった。それ以上耐えられなくなり、きびすを返して戸口に突進しかけた時、背後でかすかに鈴を振るようなきれいな音がした。

「・・・ダンケ・・・シェーン(ありがとう)・・・」

空耳だと思った。だが振り向かずにいられなかった。信じられない思いで目を見開き、それでも期待を込めて彼女を見つめる。彼女はあの透き通った深い蒼の瞳でまっすぐ彼を見ていた。

「ダンケ・シェーン」

間違いない。彼女は俺に話しかけている。

「・・・ビッテ・シェーン(どういたしまして)・・・」

彼は自分の掠れた濁声が答えるのを聞いた。


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis