それが半月ちょっと前のことだ。今では彼女は、彼が挨拶すれば一応挨拶の言葉を返してくれるし、尋ねたことは、理解できれば、答えてくれる。じいさんとはわずかながら日常的な会話も交わしているらしい。家の仕事も手伝うようになった。けれど相変わらず、声にも表情にも全く感情を表さない。彼女が何を思っているのか―故郷に帰りたいのか、そうではないのか、あるいはまだ死にたいという気持ちが残っているのか―彼にはまったく推し測れなかった。そしてもちろん、彼のことをどう思っているのかも。
 
 

彼女の心と同様に―もしかしたらそれ以上に―彼を悩ませていたのは、彼女の体だった。怪我のことではない。彼女の怪我は順調に治っていた。痛々しく目をひいていた無数の傷は十日もしないうちにほとんど目立たなくなった。白い肌に無惨に染みついていた暗紫色の痣もいつのまにか黄色っぽい色に変わり、それもやがて薄れていくと、彼女本来の美貌が姿を現してきた。

彼女は確かに美人だった。優雅な弧を描く眉の下のくっきりしたアーモンド形の双眸、真っ直ぐ通った鼻筋と花びらのように繊細でふっくらした唇。すんなり伸びたうなじに、均整の取れた体つき。白亜の大理石から絶妙な技で彫り出されたような静謐な美しさ。そのくせ肌はきめの細かなクリームのようにいかにも柔らかそうで、触れた時の温かく滑らかな感触が容易に想像できる。ゆったりと編まれた豊かな黒髪は、両手で掴めば指が届きそうに締まったウエストの下まで垂れ、彼女が歩くたびに毛先が、魅惑的な曲線を描くお尻の上で揺れて、心をくすぐる。あれを解いて手の中に広げたらどんなだろう?ほっそりした背中を滝のように流れ落ちるさまは―白いシーツの上でつややかに渦を巻くさまは?彼女はあの雪のような頬を、生き生きとした薔薇色に染めるだろうか?あのきれいな声で甘く囁く?それとも、声も無く溜息を漏らす?そして、ああ、何よりも、けぶる睫の下の蒼い星のような瞳―良く見れば銀色に輝く細かな斑点がちりばめられている―もしあの瞳をきらめかせて微笑みかけてくれたなら・・・息が交じるほど近くでその澄んだ輝きに溺れられたなら・・・その素晴らしい幸福を得るためなら、男はどんなことでもするに違いない。彼自身も含めて。
 
 

顔をしかめて、彼は苦々しげに舌打ちした。この頃彼は、自分の気持ちの変化を無視できなくなっていた。いや、変化というのは正しくないかもしれない。それは彼女を一目見た時からずっと心の底にあったのだ。ただ、彼女の状態があまりに悲惨だったので、彼女への同情に隠れて、影を潜めていただけだ。それが、彼女の体が快復し、事件のことを意識しなくなっていくと共に、前面に現れてきた。つまり、彼女との関係をもっと深めたいという欲求が―もっとはっきり言ってしまえば彼女を抱きたいという欲求が、体の中で勝手に膨れ上がり、手に負えなくなりつつあった。

いつもの彼ならこんなことで悩んだりしない。これまでに近隣の町や村を含め、数え切れないほどの女と寝た。商売女にしろ素人女にしろ、あるいは既婚にしろ未婚にしろ、気に入れば何の迷いも無く関係を持ち、都合が悪くなればあっさり別れた。それなのに、彼が初めて心から欲しいと思った女には、手を出すことができない。いつものように女の方から誘いかけてくることが期待できない以上、彼の方から意思表示するしかないのだが、二人が出逢ったきっかけを思うと、それもできなかった。そんなつもりで助けたわけじゃないし、彼女にはそんな男だとは絶対に思われたくない。そもそも彼女が受けた傷を思えば、とてもそんなことは言い出せなかった。それに彼女はそのうち―それもそう遠くないうちに、ここを去る。いつもなら歓迎すべき状況だが、今度ばかりは、一度そういう関係になってしまった後で再び彼女を手放せるものか、自信がなかった。今でさえ、彼女がいなくなることを考えただけで、胸に穴が開くような気がするのだ。これ以上深入りするのは絶対にまずい。

もちろん彼は、こういったこと全てを一度に順序立てて考えたわけではなかった。時には情熱に押され、彼女に打ち明けてみようかという気になりかけては、その時々で様々な障害に思い至る。ぐるぐると果てしなく堂々巡りの思考を続け、どうにも解決しようのない問題をあれやこれや悩みあぐねて、最終的には、やっぱり諦めるしかないという結論に達する。だが頭ではそうと分かっていても、心と体の方は素直に納得してはくれなかった。彼女の代わりに他で欲求を発散させようとしても、それまで比較的好みだと思っていた女達でさえ、彼女との違いばかりが目について、さっぱりそそられない。八方塞がりだった。そうしてまるで14、5のガキのように、密かな欲求を募らせながらも実際には何一つできず、くすぶる想いに胸を焦がし、ひたすら体の疼きに耐えていた。
 
 
 

いつもの道すがら、考えに沈んで上の空で歩いていた彼は、ふと目の端に青い色を捉えて立ち止まった。薄暗い樹林の下生えの中に、ひとむらの野草がつつましい花をつけていた。彼は何の気なしに近づき、その数本を摘み集めた。女は花を貰うと喜ぶと、誰かが言っていた気がする。もしかしたらあいつの気も紛れるかもしれない。これを見て、喜ぶとまではいかなくても、一瞬でも苦しみを忘れてくれたなら・・・贈り物というにはささやか過ぎるが、それほど多くを期待していたわけでもなかった。
 
 
 

質素な小屋の脇で彼は立ち止まった。彼女はいつものように湖岸近くの小さな円い石の上に座り込んでいる。だが、いつもは鏡のような湖面に向けられている蒼い瞳は、今日はその脇の、日当たりの良い岸辺を見ていた。こうして少しずつ視線が上がっていき、そのうち、山の向こうを・・・見るようになるのかもしれない・・・

刺すような胸の痛み。彼は大きく息を吸って自分に言い聞かせた。いいことじゃねぇか?彼女は目に見えて落ち着いてきた。もう大丈夫だろう、二度と自ら命を絶とうとしたりはするまい。まだ少し表情が暗い気もするが、家族に会えばきっと元気になる。家に戻るのは最初は気まずいかもしれないが、すぐに何もかも元通りになるさ。そう、もうそろそろ潮時なんだ。彼女を帰らせる・・・ああ、くそ、吐きそうだ。

胸の奥で疼いているのが単なる肉体的欲望だけではないことに、彼はうすうす感づいてはいた。が、それを認めてしまうほど愚かではなかった。そんなことをしたら本当に立ち直れなくなる。彼女とは住む世界が違うのだ。出逢ってから何度も、そのことを考えた。一番最初に彼女から感じられた強い敵意と怯えこそ薄れてきたものの、彼女はまだ彼を警戒しているし、たぶん軽蔑してもいる―それも、これまでの彼の無作法な振る舞いを考えれば無理もないこととは思うが。彼女は『かたぎ』で、物腰からして『良い家』の育ちらしい。それにもちろん、敵国人だ。だから彼女は、彼と話はしても、心を開こうとはしない。彼は彼女の世界に入ることはできないし、彼女が彼の世界に属することも決してない。そうして彼女はもうじき本来いるべき場所に帰って行き・・・自分は元の暮らしに戻る。このことについてあれこれ考えても無駄だ。これ以上関わっていては取り返しがつかなくなる。その前に帰すべきなのだ。たぶん。
 
 

彼は大股で一直線に彼女に近づき、彼に気づいて身構えるように立ち上がった彼女の前に、質素な花束を突き出した。

「これ、おまえに」

彼女はその場に固まったまま視線だけ落とし、胸の前で揺れる小さな青い花を凝視している。そのままじっと動かない。彼は急にきまり悪さを感じて身じろぎし、言い訳がましく付け足した。

「森の中に生えてたんだ。なんとなく目に留まったもんだから、ついでにと思ってな」

何のついでだ?

「だからどうってわけじゃねぇし、何かに使えるわけでもねぇから、もらったって困るだけかもしれねぇけどよ・・・」

気のきいた事が言えない自分の無骨さが呪わしい。彼女は何も言わず、水から掬い上げたガラス玉のような瞳で、彼と花束とを交互に見ている。彼の声はだんだん所在なげに小さくなっていった。

「別に、嫌なら捨てちまっても構わねぇし・・・」

いたたまれずに逸らした彼の目に、ふと、さっきまで彼女が見つめていたものが映り、途端にかっと顔が熱くなった。

なんてバカなことをしちまったんだろう!こんな、どこにでも咲いてるような花を、まるで大層なもののように差し出すなんて!

あまりの恥ずかしさに逃げ出すこともできず、彼は立ち尽くした。適当な言い訳も思いつかない。ひたすら心の中で己を罵った。まったく、頭がどうかしていたとしか思えない。こんなものを差し出されては、彼女だって反応に困るだろう。どれほど間抜けな男と思われたか、想像に難くない。いくらなんでも格好悪すぎる。もう何も言いたくないし、言われたくもない。ただこのまま消えてしまいたかった。

彼の手が力無くだらりと下がりかけた瞬間、彼女がさっと手を出し、彼の手から花束を掴み取った。彼が驚く間も無く、彼女はその小さなみすぼらしい花束にそっと口づけるようにして香りを嗅いだ。まるで世界に二つと無い、貴重な、大切なもののように。

「・・・ダンケ・シェーン(ありがとう)・・・」

鈴を振るような囁き声がして、彼ははっと息を呑んだが、返事はできなかった。

「ダンケ・シェーン・・・?」

再び繰り返して彼女が首をかしげる。彼女が最初に覚えたノルドの言葉。きれいに発音できているのに、彼の反応が芳しくなかったので、どこか間違っていると誤解したかもしれない。彼は慌ててうなずいた。

「ああ、うん、いや・・・」

混乱する頭を懸命に落ち着かせようとするが、動悸がおさまらなかった。必死で言葉を捜す。

「ええと・・・きれい・・・きれいな花だよな。お前はこれが好きか?そりゃそうだ、だから見てたんだよな。ああ、くそ、何を言ってるんだ俺は・・・」

彼女が彼を覗き込むようにして、ぽつり、と呟いた。

「シェーネ・・・」

彼ははっとした。彼女は彼の言葉から聞き覚えのある一つの単語を聴き取り、それを理解しようとしている。

「そう、シェーン(きれい)だ。シェーネ・ブルーメ(きれいな花)」

とにかく何か話さなくてはと焦っていた彼はその話題に飛びついた。

「シェーナア・ゼー(きれいな湖)、シェーナア・ヴァルト(きれいな森)、シェーナア・ヒンメル(きれいな空)・・・」

思いつくままに一つ一つ指差していった。そしてつい、深く考えずに、指先を彼女に向けてしまった。

「シェーネス・メトヒェン(きれいな娘)・・・」

自分でもぎょっとしたが、彼女はきれいな首筋を少し捻って、あの澄んだ瞳で彼を見ている。彼はすっかり舞い上がってしまい、それを隠すため、同じように指差しながら事務的な口調で早口に続けた。

「シェーネス・クライト(きれいな服)、シェーネ・ハント(きれいな手)・・・」

その時彼は突然、妙な義務感に駆られた。なぜだか自分でも分からないが、それが、見た目だけのことをいうのではないと伝えなくてはならない―この言葉を教える上で、どうしてもそうしなければならない、という気になったのだ。

「シェーネス・ヘルツ(きれいな心)」

彼女がびくりと全身を強張らせ、彼はしまったと思ったがもう遅かった。彼の武骨な手が彼女の柔らかな左胸の上に乗っている。自分を世界の果てまで殴り飛ばしたかった。彼女の辛い経験を思えば、彼女の承諾なしに体に触れるなど、決してしてはならないことだった。これでまた彼女は心を閉ざしてしまうだろう。彼はがっくりと気落ちしながら、急いで手を引こうとした。その時、奇跡が起こった。

「シェーネス・・・ヘルツ・・・」

震える声で彼女が呟き、花束を持った手で彼の手に触れて、おずおずと微笑んだ。それはとても控えめな、ぎこちない動きだったが、その表情の変化は劇的だった。彼は彼女を見つめたまま、文字通り息が止まった。彼女を美人だと思ったのは間違いだった。彼女は天使のように輝かしい。彼女の笑顔は射し込む朝陽のようにまばゆく、すべての闇を消し去ってしまう。そこらの女達とはまったく違う、彼女の美しさは、比べるもののない美しさだ。

彼は金縛りに遭ったように動けなくなり、自分の日焼けしたごつい手に重なっている彼女のほっそりした白い手と青い花とを呆然と見た。

「シェーネス・ヘルツ?」

彼女が首を傾げて繰り返し、彼はやっと自分を取り戻してこくこくとぎこちなく頷いた。

「そう、ヘルツ(心、心臓)だ。おまえの心は美しい。俺が言ってること、わかるか?」
「Oui、はい、あなたの言っていることがわかります。でも・・・きれい、は・・・」

彼女が口ごもり、次の瞬間、彼の心臓は止まり、それから怒涛の勢いで全身に轟き渡った。

まさか・・・信じられない。彼女の小さな右手が、俺の左胸の上に置かれている。

「あなたの。あなたの心。あなたの心がきれいです」

体の底から言いようのない感情が込み上げ、咽喉からせり出しそうになる。もう止められない。いや、最初から止めることなど不可能だったのだ。彼の心臓は完全に彼女の手に掴まれていた。


 

 続き Fortsetzung

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