十一月



 

帰さない。

そう決めてしまうと、嘘のように心が軽くなった。何を迷っていたのか、今となっては不思議なほどだ。他に選択肢なんか無いのに。これが唯一の、そして最良の道だ・・・皆が幸せになるための。じいさんは渋い顔をするかもしれないが、彼女さえうんと言えば、反対はしないだろう。そうだ、なんとしてでも彼女を納得させてみせる。ここで、俺の傍で暮らすのが、彼女にとって一番の幸せなんだと。

自信はあった。彼が抱いている激しい恋心とは違うかもしれないが、彼女の方も何がしかの好意は持ってくれているはずだ。この間、思わず抱き寄せてしまった時だって、彼女は嫌がらなかったし・・・もしかしたら、キスさえ許してくれそうだった。実際、じいさんに声をかけられさえしなければ、そうなっていただろう。・・・あの時は突然夢から醒まされて呆然とし、腹を立てもしたが、今ではそれで良かったのだと思う。なぜならあの瞬間、彼の理性はすっかり吹っ飛んでいて―あのままではたぶん間違いなく、有無を言わせず彼女をその場に押し倒してしまっていただろうから。そんなことは彼女にふさわしくない。彼女に触れる時は、真剣な気持ちを告げ、一生愛し続けることを誓い、彼女に認められてからでなければ。

必ず幸せにする。だから俺のものになってくれ。俺だけのものに。

何度も何度も心の中で繰り返した。全てを圧倒する、灼けつくような想い。毎朝、目覚めてまず彼女のことを思い、一日中、どうすれば彼女を幸せにできるかを考えている。彼女のためならなんだってできる。今までの生き方を変えることも。自分はこれまで人生を楽しんでいると思っていたが、それが上っ面だけに過ぎなかったことを、今でははっきりと悟っていた。自分が何を求めていたのか、自分にとって何が大切なのか、生まれて初めて確信していた―まるで深い霧が晴れたように鮮明に、間違いなく。彼女は、少なくとも気持ちの上では、すでに彼の一部だった。これまでもずっと一緒にいたような気すらする。彼女無しでどうやって息をすればいいのか、もう分からない。

彼女にしたって、今さらシディニアに戻ったところでどうなる?そもそも彼女は忌まわしい過去から逃れたがってるんだ。そうだ、どうやったって辛い思いをするような記憶なら、全部捨てちまった方がいい。あいつに過去を忘れさせ、俺もあいつの過去は忘れる。それであいつは俺のものだ。大切なのは、今と、未来だけだ。あいつのいない未来なんてありえない。今日こそあいつに結婚を申し込もう。そして一緒に帰るんだ。俺の・・・俺達の家に。

毎午後、老人の小屋を訪ねたあと、独りで家に戻るのにはもう耐えられなかった。眠ると全てが夢になって―欲しいものに手が届く直前に消えてしまいそうでなかなか眠れず、そのくせ、うとうととするたびに彼女の夢を見る・・・たいていは口に出せないような生々しい夢を。もう限界だ、これ以上待てない。彼女がノルドの人間らしく振舞えるようになるまでは、他の人間に会わせないようにすればいい。彼女は物覚えが良いし、たぶんそんなに時間はかからないだろう。誰にも彼女の過去のことなど―あのことを含め―知られないはずだ。俺達さえ忘れてしまえば、彼女の過去は消える。それで俺達は幸せに暮らせる。

そうだ、俺はお前を放さない。お前はどこにも行きはしないし、俺は、お前がかけた魔法に捕まったまま、この奇跡のように甘美で幸福な夢を見ていられる・・・この身が朽ち果てるまで、ずっと。

自分が楽観的過ぎるなどとは、これっぽっちも思わなかった。 彼は若く、そして恋に溺れていた。彼の運命そのものの恋に。
 
 
 

何のためらいも無く小屋の扉を開け、彼は棒立ちになった。床にうずくまり、身を震わせて嘔吐していた彼女が顔を上げ、瞬間見つめあう。彼女の顔からすうっと血の気が引いた。彼は我に返り、顔色を変えて駆け寄った。

「・・・どうした!?具合が悪いのか?」

華奢な肩に手をかけようとすると、彼女がびくっと震えて大きく身を引いた。彼は虚しく腕を突き出したまま、おびえた眼で見上げる彼女を見つめた。なぜおびえる?いったいどうしたんだ?わけが分からない。

背後で大きな音がして彼は振り向いた。戸口に突っ立った老人の足元で桶の水が大きく揺れ、周囲に水のしみが飛び散っている。いつも傍観的で冷めている老人にはらしからぬ態度だったが、まっすぐこちらを見る目に驚きは無く、ただ落胆と、痛ましげな、同情に似たいたわりの色が浮かんでいた。ぐるぐると部屋が回り出す。この異様な状況、老人の眼差しが示したもの、彼女の青白い顔にひろがる絶望的な表情・・・全てが何か恐ろしい事実を彼に告げようとしている・・・認めたくない事実を。急に体から力が抜け、足が二、三歩後ずさった。

「・・・ザッ・・・」
「嘘だ!」

彼女をはねつけようとしたわけではない。少なくとも彼にはそのつもりは無かった。しかし結果的には、大きく横薙ぎにした腕は、縋るように伸ばされた細い手を払いのけ、か弱い体を床に突き飛ばしていた。澄んだ蒼の瞳からみるみるうちに銀の輝きが消えて、悲しげな鈍色に凍りつき、胸に突き刺さった。彼は身を翻して逃げ出した。
 
 
 
 
 

気がついた時にはそこにいた。行くな。止まれ。そう思うのに、足は勝手にガレ場の突端へと進んでいく。頭の中では無意味で理不尽な思考が断片的に浮かんでは消える。

・・・いっそのことあの時・・・最初にあいつを見つけた時、その場で奪っていれば・・・そうすれば・・・

もうこの先には地面が無いというところで、彼の足は一旦止まった。

そう、あいつはここに立っていた。風に煽られ、まるで散りかけた青い花のように。

ふらりと揺らいだ彼女の姿が、頭の中で再現される。彼女の幻想と共に彼の体は落ちていった。


 

 続き Fortsetzung

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