久しぶりに見る青空はひどく眩しかった。左手で杖をついて兵舎を出た彼は、この二週間近くずっと彼の世話をしてくれていた若い兵士に付き添われて門へと向かいながら、奥に見える重厚な石造りの館にぼんやりと目を向けた。小さな窓のある細い塔が、雲ひとつ無く晴れ渡った空に映えている。

「今度から山ん中歩く時は気をつけろよ」

彼と同じ年頃の兵士が気軽な口調で言い、にやりと笑って彼の肩を叩いた。治りきっていない背中に鈍い痛みが走り、ちょっと顔をしかめる。

生まれた時からここで暮らしてるんだ。山ん中のことだって誰よりも―じいさんの次くらいには―よく知っている。

けれど彼はただ、ぺこりと形ばかり頭を下げ、『酔っぱらって夜中に山に入った』という彼の説明を信じ込んでいるらしいその兵士に別れを告げ、振り返ることもなく国王の山荘を後にした。
 
 
 

落ちた理由については、目を覚ました直後から何度も訊かれた。最初は口をきくのも苦痛だったし、その後も言葉を濁して答えなかったが、なぜかしつこく訊かれるので、適当に理由をでっち上げた。みっともないので知られたくなかったと、言い渋った理由までそれらしく添えて。本当のことを話す気なぞさらさら無かった。己がひどく傷心し、動揺していたことなど、自分でも認めるつもりはなかったし、何より絶対に彼女の存在を知られるわけにはいかない。・・・つまり敵国の人間を匿ったことで俺やじいさんが危うくなるのはごめんだ。そうとも、これはあいつのためじゃねぇ、自分のためだ。

もう、途方もない夢を見て無駄な労力を使うのはやめた。過去と戦っても無意味だ。彼が消そうとした過去に、彼は見事にしっぺ返しを喰わされた。厳然たる事実の前には彼は無力で・・・かと言って、それを受け入れ、一生背負い続けることも、到底できなかった。
 
 
 

ふと、足が勝手に猟師小屋の方に向かいかけたのに気づき、彼はいまいましげに悪態を吐いて町へと向きを変えた。

町まで送ってくれるという兵士の申し出は鄭重に辞退したが、もし、何かの事情で誰かが後を追ってきてたりしたらどうするつもりだ?第一、あそこに行く気なんかこれっぽっちもないのに。もっともあの日飛び出したっきり、何日も顔を出してないから、じいさんが気にしてるかもしれないが・・・もしかしたらあいつも・・・

思わず強く頭を振り、痛みに顔をしかめた。一応、歩けるようになったとはいえ、あの崖から落ちたのだ。生きてるのが不思議なくらいだ。たぶん、急斜面に沿って滑るように落ちたせいだろう、左足と、ついでにあばらも何本か折れていたらしいが、幸か不幸か、首と背骨は無事だった。医者は彼の頑強さと強運とに驚き、言った。

『おそらく落ちる時に、何かが間に在って衝撃を和らげてくれたのでしょうな』

ばかばかしい。あそこは崩れ易い剥き出しの花崗岩の崖だ。それとも、落ちる俺を天使が引き止めてくれたとでも言うのか?だとしたら、余計なことをしてくれたものだ。

ふっと、あの時一緒に落ちた彼女の幻を思い出し、胸の内側が鈍く疼いた。夢見た幸福が幻想に過ぎなかったと―過去から彼女を奪い取ることはできないと分かった以上、すっぱり忘れるべきだと分かっていても、心に取り憑いた夢想はそう簡単に消えてはくれず、不意に未練がましく姿を現しては、相変わらず逆らいがたい力で彼を惑わせた。朦朧とした意識の中、何度も彼女の夢を見た。一度などは、かなりはっきりと。
 
 
 

彼女は真っ青な顔で彼を見ていた。小さな美しい顔はやけに遠く、二人の間に、どうしても越えられない溝があるような感じだ。それでいて彼女のこわばった表情ははっきり分かる。彼の不実を見通す、見開かれた、深い湖の瞳。潰れた胸がひどく痛む。それなのに、何かを言うことも、手を伸ばすこともできない。そうして彼女は、彼が謝罪の言葉を口にするのさえ拒むように顔を背け、あっという間に掻き消えてしまう。後にはどこまでも続く虚空が残るだけ。どんなにわめいても声にならない。まるで彼女が消えた後の深い闇に、音が吸い込まれてしまったように。

だが、声が出たとして、何を言うつもりだった?今さら、何を、どうしてほしいと?・・・分からない。心がすっぽりと黒い雲に覆われてしまったみたいだ。あの日の朝は、全てがあんなにはっきりしていたのに。
 
 
 

考えに沈みながら町外れの小さな靴屋の戸を開け、驚いて突っ立った。

「なんで・・・」
「お前一人か?」

おっ被せるように鋭く発せられた問いに面喰い、立ち上がって近づいてくる老人を、彼は眉をひそめて見返した。

「どういう意味だ?」

老人は伸び上がるように彼の後ろを覗き込み、落胆を隠せない様子で肩を落とした。

「やはり、そうか・・・」

彼は少しいらつきながら重ねて尋ねた。

「どういう意味だ?俺がどこにいたと思ってる?なんでじいさんがここに・・・」
「お前がどこにいたかは知っとる。なぜそうなったかもな」

厳しい視線にわずかにひるんだが、顎にぐっと力を入れて睨み返した。

「そうかい。じゃあ説明する手間が省けた。俺はちゃんと帰ってきた。もう用はねぇだろ、さっさと帰ってくれ。あぁそうだ、しばらくそっちに行くつもりはねぇから、必要なもんがあったら・・・」
「お前、まさか本当に知らんのか?」

老人の口調が変わり、彼は戸惑った。

「何を?」

彼に向けられた灰色の目に浮かんだ得体の知れない表情に、不安が掻き立てられる。

「何をだ?!何があった?!」

老人は苦虫を噛み潰したような顔で、どう言ったものかと思案するように、束の間ためらった。

「あの娘が・・・レーネが、お前を探しに行くと言って出ていったきり、帰ってこない」

かあっと頭に血が上った。

あいつ!まさか一人で山を越えて行ってしまったのか?俺に黙って? ・・・いや、それならまだいい。もし、身籠らされたことを苦にして、また命を絶とうなんて考えたとしたら・・・

「い・・・いつ、から・・・?」

口が麻痺したようにうまく喋れなかったが、返事は即座に返ってきた。

「お前がバカげた振る舞いをして飛び出した、次の日だ」

咎めるような言い方も気にならないほど彼は動揺していた。

そんなに前?じゃあ、もう間に合わない・・・?もう二度とあいつに逢えない?そんな・・・!

「くそっ、なんで行かせたんだよ!あいつが俺を探すはずなんかないだろ!」

違う、じいさんのせいじゃない。俺のせいだ。俺があいつを突き放したから。あいつは、ここにいることを拒絶されたと思っちまったんだ。ちくしょう、なんであんなことを!

足を引きずって飛び出そうとする彼の腕を老人が意外な素早さで掴んだ。かっとして力任せに腕を引き抜き、憎い相手でもあるかのように睨みつける。彼に睨まれるとたいていの相手は震え上がって引き下がるが、老人は彼の前に立ちふさがり、静かに首を横に振った。

「あの娘がお前を探そうとしておったのは間違いない。夕方になっても帰らんので、儂も町まで来て、お前の所在を尋ねてみた。そうしたらあちこちで、その日の朝も見かけない女が探していたという。だが、その女がその後どこへ行ったかは誰も知らん。そしてお前も、帰ってこなかった」

気まずさに一瞬黙ってから、いらだたしげに早口で言い返した。

「ああ。でも今はそんなこと悠長に話してる場合じゃ・・・」

言い終わる前に、厳しい表情で彼を見据えたままの老人に遮られた。

「儂はお前達がどこかで逢えていればいいがと願いながら待った。ふと思い出して、お前が話していた崖にも行ってみたが、もちろん、その時には誰もおらなんだ。ニ、三日してシュテファンが来て、噂話を二つしていった。一つは山で男が崖から落ちて怪我をし、山荘の兵隊に助けられたという話。そしてもう一つは・・・」

ずしりと重くなった口調に最悪の結果を予想して彼は身構えた。

「シディニアの女が捕まったという話だ」

・・・それが最悪よりもマシだとはとても言い切れなかった。彼はうちのめされ、言葉も無く立ち尽くした。
 
 
 
 
 

今日で何日目になるのか、いちいち数えてはいない。だが、目の前の山荘の門を、同じようにクソ真面目そうな6人の門衛が交代で守っていて、今日立っているのはその中で一番年かさらしいということが分かるくらいには、日が経っていた。体の痛みもほとんど感じないし、もう杖をついてもいない。

彼女が、助けてくれた。

門衛は、一定の距離を置いたままずっと周囲をうろついている彼にとっくに気がついているはずだが、門の前に直立して律儀に正面を向いたまま、彼の方へは目もくれなかった。話しかけたって無駄なことは分かっている。そもそも、そうしたいのかどうかも分からなかった。

俺は何をやってるんだ?

彼女のことは忘れると決めたんじゃなかったのか?こうなってしまったからといって―それが彼のとったバカげた行動のせいだからといって―彼に何ができるわけでもない。釈放してくれるように頼んだところで、聞き入れてもらえる可能性は、真夏に雪が降るほどもないだろう。それにもし奇跡が起きて願いが叶ったとして、そのあと彼女をどうすればいいのか、見当もつかない。どうせなら無駄な思考も行動も今すぐやめて、さっさと自分の生活に戻った方がいい。だが仕事にせよ、遊びにせよ、何も手につかなかった。それがただ良心の―良心なんてものがまだ残ってたとすればだが―呵責のせいなのか、それとも他にも何かあるのか、彼には判別しかねた。

あいつ、どうしてるだろう?

山荘に出入りする町の人間にさりげなく探りを入れてみたりもしたが、これといった情報は得られなかった。ただ、シディニアの女が捕らえられ、塔に入れられている、それだけだ。

たぶんあの塔だ。俺がここを出る時に見た・・・

自分の間抜けさ加減に嫌気が差す。彼女はすぐ傍に捕らえられていたのに、全く知らなかった。他の事で頭がいっぱいで、なぜ自分が引き上げられたのか、考えもしなかった。ちょっと考えれば、あんな場所に兵隊が偶然通りかかるはずなんかないってことぐらい、すぐ気づいたろうに。

夢じゃ、なかった。

彼女が―シディニアの女が人を助けたことが外部に秘密にされている理由は、なんとなく理解できた。けど、どうして助けられた自分にすら教えてくれなかったのかは分からない。分かるのは・・・俺やじいさんが捕まらずにいられるのは、彼女が俺達のことを黙っててくれたからだ、ってことだ。

酷い目に遭わされてないだろうか?密偵だと思われたら命も危ういかもしれないが、まさかそんなことはないよな?女を拷問にかけたりはしないという噂だが、ちゃんとした世話を受けてるだろうか?あいつ・・・妊娠してるのに。

途端に気分が悪くなった。事実を認めるのは耐え難い苦痛だったが、それが彼女に対する嫌悪でないことはもう分かっていた。苦いのは、自分の甘さを思い知らされたから。彼女が負った運命の重さを、あまりにも軽視していたことを。本当は、彼女を自分のものと呼ぶためには、残酷で執拗な運命と正面から向かい合い、全力で、それこそ生涯、命懸けで戦って、彼女を奪い取るだけの覚悟が必要だったのに。彼女を助けるだって?笑止千万だ。身の程知らずもはなはだしい。自分がしたことを見てみろ。己が傷つくことを怖れて、苦しんでる彼女を無碍に突き放し、おまけに考え無しな行動で彼女を窮地に追いやった。俺のために彼女は・・・

けどそれは、俺が頼んだわけじゃない。あいつにそんなことして欲しいなんて、死んでも思わなかった。あいつは自分の意志でそうしたんだ。だが、なぜ?なぜ自分の身を危険に晒してまで、俺を助けようとした?恩義を感じてたのか?・・・そうかもしれない。けど、あんなひどい仕打ちをした俺を探してくれたのはなぜだ?・・・それはもしかして俺を・・・あいつも俺を・・・
 
 
 

にわかに門のあたりで人の動きが慌しくなり、彼の注意はそちらに惹きつけられた。待つほどの間も無かった。堂々たる白馬にまたがっておもむろに現れた人の姿を、彼は雷に打たれたように呆然と見つめた。神々しい、という以外の言葉を思いつかない。威厳に満ちた容貌、それを縁取る白銀の髪と髭、銀色の鎧に包まれた年齢を感じさせない精悍な体躯、何もかも見通すような強い力を秘めた大きく透明な琥珀の瞳、それら全てが陽の光の中に輝いている。そこにいるだけで全てを圧し、辺りを払うような気魄。そう、まさしくその強烈な気魄が、彼の迷いの雲を吹き飛ばした。彼の足は一歩、二歩と踏み出し、そして走り出した。


 

 続き Fortsetzung

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