石段を登ってくる数人の長靴の音が聞こえ、彼女は藁布団の上で身を起こした。ここに来た当初に比べればつわりも少し軽くなったが、それでもまだだるくて横になっていることが多い。もっとも他にすることといえば、手すさびに藁くずを編むことと、ごつごつした石敷の狭い床の上を、足許を見つめながら端から端まで歩き回ることくらいしかないけれど。
冷たい足を柔らかく、けれどしっかりと―そして不思議なほどぴったりと―包んでくれる、飾り気の無い靴。彼はいつも、純粋な心をくれた・・・
あの朝、いつもどおり食事の支度をしていた彼女は、チーズの匂いに急に吐き気を催し、外に出るのが間に合わず、床に戻してしまった。顔を伏せたままその場に座り込み、片手を口許にあてて嗚咽をこらえる。本当ならニ週間前に始まっているはずのものがずっと遅れていて、不安には思っていた。でも、きっと精神的なショックで体調を崩したのだと自分に言い聞かせてきた。だけどもう、ごまかせない。自分にも、周囲にも。告白しなければ・・・今、水を汲みに出ているおじいさんが戻ってきたら・・・そして、彼にも・・・
彼のことを思うと胸が引き裂かれた。もしかしたら・・・そういう希望を抱き始めていたところだったのに。あの事件から一ヶ月が過ぎ、やっと新しく人生をやり直せるという思いになり始めていたのに。絶望で目の前が真っ暗になる。
神様!どうしてこんな仕打ちをなさるのですか?一度は打ちひしがれた惨めな魂を憐れんで救いを遣わして下さったのに、なぜ今になって無慈悲にも希望を取り上げてしまわれるのです?それとも、その救い手に恋を―身の程知らずな想いを抱いた私がいけなかったのでしょうか?
そうかもしれない。でも抗えなかった。
彼に感謝の念を覚えたのと彼を好きだと気づいたのと、どちらが先か分からない。汚れた顔をそっと拭いてくれる彼の手は、最初に受けた猛々しい印象からは想像もつかないほどこまやかで、彼女は夢うつつにそれを心地良いと感じていた。彼は自分の家に帰った後も―最初、彼女は彼がどこかへ行ってしまうのかと思って動揺し、老人が後で説明してくれて初めて自分の動揺に気づいた―一日も欠かさず訪ねて来てくれた。外に出るのがためらわれるような激しい嵐の日さえも。絶え間なく岩を穿つ雫のように、彼はいつのまにか彼女の心に深く入り込んでいた。
いつものように湖畔で彼を待ちながら、秋風の中に開いた花を見つめ、世界は―彼のいる世界は、なんてきれいなんだろうと思った。その花を目の前に差し出された時は、まるで世界を差し出されたような気がした。力強い腕の中で希望の光に包まれ、この人と結ばれたいと―必ず幸福な結末を迎えられると、信じられたのに。
やめなさい。
彼女は自己憐憫に浸りそうになる自分を厳しく叱責した。誰を恨んでも、どうにもならない。それよりも、今、自分にできることをしなくては。とりあえず汚したところを片付けて、それからどうしたらいいか―どうするべきか考えよう。おじいさんとも相談して・・・お昼過ぎに彼が来るまでには、まだ時間がある・・・
しかし考える時間は無かった。やっとの思いで顔を上げた彼女は呆然とした。彼が、いた。
小さく咳払いして衣服の皺を伸ばし、彼女は、円形に湾曲した石積みの壁面の上方に目を遣った。背丈よりかなり高い位置に設けられたささやかな明かり取りの窓から、白い光がこぼれ落ちている。まだお昼前くらいだ。誰が来たのだろう?一日二回、朝と夕方に、下働きの人が兵士に付き添われて来て、食事などを世話してくれるけれど、それ以外はこの部屋を訪れる人はいない。あとは・・・あの老騎士がたまに様子を見にきて、少し話をしてくれるだけ。
老騎士に出会った日のことは一生忘れないだろう。
今にも崩れそうな崖っぷちから、何かに引き寄せられるように身を乗り出して覗き込み、彼女は衝撃に凍りついた。数瞬後、身を翻して駆け出し、藪に引っ掻かれ、枯枝や石につまづきながらも、夢中で走った。
崖下に横たわった彼はまるで死人のように見えた。かすかに瞼を持ち上げたような気もするけれど、頭を動かすこともできないみたいだった。きっとずっと長い間、あそこでああしていたに違いない。ああ、どうしてもっと早く探さなかったんだろう!昨日のうちに彼の行方を探していれば・・・ううん、彼が出て行った後すぐ追いかけて、そして、もう迷惑はかけないと告げていれば、彼をこんな目に遭わせずに済んだのに!・・・もし彼が死んだりしたら・・・ダメ、そんなことは絶対にダメ!・・・そもそも私に逢いさえしなければ彼は・・・ああ、やめなさい、今考えなければならないことは一つだけ。自分の行くべき場所は知っている。
「助けて!」
板柵で囲まれた敷地の入口に立つ門衛にためらうこともなく駆け寄り、その腕に取り縋って懇願した。
「彼・・・落ちた・・・向こうの・・・あの・・・」
崖、という単語が分からない。泣きそうになりながら言葉を捜した。
「高い、ところ・・・地面・・・まっすぐ・・・」
生真面目そうな中年の門衛は、支離滅裂な言葉を発しながら噛みつかんばかりにしがみつく彼女を困惑した表情で見下ろし、なんとか彼女を落ち着かせようと、ゆっくりした口調でなだめている。早く、一刻も早く助け上げなければならないのに。思わず彼女は叫んでいた。
「 Va à son secours, je vous en supplie ! (彼を助けに行って。どうかお願いします!)」
途端にあたりにざわめきが走り、空気が変わった。彼女はあっという間に、よく訓練されているらしい兵士達に囲まれ、取り押さえられていた。後ろ手のままひざまずかされ、地面に這いつくばるように肩を押さえられながらも、彼女は必死で顔を上げて声を振り絞った。
「彼、怪我をしている・・・!助けて、お願い・・・!」
その時、その人がやってきた。
「何事ですか」
兵士達がさっと道をあけ、落ち着いた物腰の、静かな威厳を湛えた老騎士が現れた。中の一人が老騎士に向かって早口で何か説明している。老騎士は軽く頷くと彼女の前に片膝をついて覗き込んだ。
「 Qu'est-ce que vous avez, Mademoiselle ? (何かありましたか、お嬢さん?)」
これで彼を救える。頭に浮かんだ思いはそれだけだった。
老騎士は翌日、彼が命を取り留めたことを知らせてくれたし、それからしばらくして、彼が快復して無事に家に帰ったことも教えてくれた。以前、外国を転々としていたという老騎士は彼女の母国語も流暢に話し、彼女の気分が少しでも楽になるよう、気を遣ってくれた。でもそういう時は老騎士はたいてい一人で来ていた。こんなふうに複数の兵士が来るということは・・・もしかして、この間言われたこと?
彼女は藁布団の端に腰掛けて背筋を伸ばし、深呼吸した。
思っていたより早かった。・・・辛いけれど・・・仕方ない。こうなるしかなかったのだ、最初から。結局・・・お別れは言えなかった。
彼に突き放された時は、心臓が破れ、世界が終わったような気がした。しかし彼女は、まもなく激しい動揺から立ち直った。心の痛みはずっと尾を引いていたけれど、何も考えられないほどの絶望からは抜け出した。何があっても彼の優しさと誠実さを信じていたから。そして彼女と同じくらい、彼も傷ついていたことに気がついたから。
このままじゃいけない。彼と話し合わなければ。
彼はもう彼女の顔なんか見たくないだろうし、さっさと国に帰って欲しいと思っているだろう。でも彼女は帰りたくなかった。もちろん子供をお腹に抱えて帰ったりしたらどんなことになるか、それも恐い。堕胎という方法があるのは知っていたけれど、敬虔な信者である彼女にとって、それは全く選択肢の外だった。そして何よりも彼女はここに、彼の傍にいたかった。今さら彼に女として愛されようとは思わない。ただ信頼できる人の傍で静かに、穏やかに、子供と暮らしたい。おじいさんはいつまでも居ても構わないと言ってくれた。けれど、彼の意向を無視するわけにはいかないし、現実には彼の協力無しにここで暮らすのは難しい・・・だからどれほど可能性が低くても、一度だけでも、頼んでみよう。そうしなければきっと後悔する。
・・・それにもし、どうしても出て行かなければならないとしても、せめてお礼とお別れだけは言わなければ。これまでの彼の親切に・・・初めて出逢った瞬間からずっと注いでくれた思いやりと、優しさに。絶対に、黙って出て行ったりしてはいけない。彼に誤解させたくない。私が自分から彼のもとを離れようとしたと―彼を置いて行こうとしたのだとは。
翌朝、彼女は一人、町に向かった。けれど彼はどこにもいなかった。半日、町の中をあてもなくさまよい歩いて得られたのは、彼の居場所なんか分からないというつれない返事と、好奇心を含んだ奇妙な視線だけ。
彼女は泣きたい気持ちになるのを、必死でこらえた。泣いたって何も解決はしない。気は楽になるかもしれないけれど。泣くのは全てが済んだ時。そう決めていた。
変な目で見られるのは仕方ないかもしれない。見かけない女が男のことをしつこく尋ねまわっているのだから。それとも彼女がシディニアの人間であることを気づかれたのだろうか?そうだとしても、自分のことはどうなろうと心配していなかった。心配なのは・・・彼のことだけ。
スカートの脇をぎゅっと掴み、唇を噛んで考える。やっぱりおじいさんに一緒に来てもらった方がよかった?老人は一緒に行くと言ってくれたのだが、彼女は断った。これまで受けた印象では、老人には、何か、町に近寄りたくない事情があるようだったし、これは彼女の問題で、自分でぶつからなければいけないと思ったから。それが彼女を死の淵から全身で引き戻してくれた彼に対する、誠意だと思ったから。
その時、神の啓示のように、ある場所に思い当たった。ぐっと腕を引いてスカートの裾を持ち上げ、踵を返して走り出した。
扉が開いた。やはり老騎士だった。その後ろから二人の若い兵士がついて入ってきた。
「お迎えの方が、来られましたよ」
いつもの穏やかな口調で言われ、彼女は怪訝な表情で老騎士を見上げた。
「あなたを連れて帰りたいそうです」
・・・ということは、もしかして、おじいさんが?どうしてそんなことを!許可されるはずもないし、自分の身を危うくするだけなのに。私は知らないふりをするしか・・・
「やはり彼とは関係があったんですね。あなたは、ただ、山の中で偶然彼を見つけたと言っていましたが・・・」
息が止まった。
彼が?迎えに来た?私を?
老騎士が静かに口許をほころばせた。
「・・・まあ、それはいいでしょう。陛下は、どうするかは、あなたの意思次第だとおっしゃっています。どうしますか?」
彼女はさらに驚いて老騎士の顔をまじまじと見つめた。
「・・・陛下、が・・・?どうして・・・」
少しつっかえてしまったが、老騎士はすぐに質問の意味を察して答えてくれた。
「彼が直訴したのですよ。あんなふうにいきなり陛下の前に飛び出すなんて、命知らずですね。もっともあんまり唐突だったので、陛下以外の全員が度肝を抜かれてしまっていましたが」
白い眉の下の濃い緑の瞳がおかしそうにきらめいた。
「実はここしばらく、彼の姿をよく山荘の周りで見かけていたんですよ。彼がいつ、どんなふうに行動を起こすか、ここの兵士達は賭けていたようですが、勝った者はいなかったでしょうね」
珍しく、くっくっと声を立てて笑ってから、老騎士は真顔に戻った。
「あなたのことは陛下に御報告してありましたので、陛下はすぐに事情を察せられたようです。隣に居られた宰相殿が馬で彼を踏み潰しそうになるのを、お止めになりました」
顔から血の気が引き、手足の先が冷たく凍る。
「彼の方は、陛下しか目に入っていない様子でしたけれどね。制止も何も聞いて下さらなくて、それに力も強い方ですし、少々手こずらされましたが、我々はなんとか彼を取り押さえました。それでも彼は、ここに来た時のあなたに負けないくらいの剣幕で、あなたを返してくれとわめき続けていましたよ」
・・・なんてことだろう!彼は・・・
老騎士は彼女を安心させるように少し微笑んだ。
「大丈夫、彼は痛めつけられてはいません。そんなにひどくはね。陛下は彼を御覧になり、彼の傍に馬を進められて彼の話をお聞きになりました。それから私にニ、三質問され、そして先程のように仰せになられたんです」
彼女はただただ信じられない心地で、呆然と老騎士を見つめていた。
「さて、どうしますか?彼のところに戻りますか?もちろんその場合は、あなたは二度とシディニアには帰らず、あちらとのいっさいの関わりを絶ち、一生をノルドで、彼と共に暮らすと誓っていただかなくてはなりません。彼のところに戻らないなら、この間言ったとおり、いずれシディニアにお送りしましょう」
何も言葉が出てこない。頭の中が真っ白で。
老騎士はしばらく彼女の様子を見守っていたが、やがて穏やかに言葉を継いだ。
「彼はこう言っていましたよ。狩で獲物を追っているうちにうっかり向こうに入り込み、あなたを見つけ、一目見て自分のものにしたくなった、だからあなたをここに無理やり連れて来てしまったと。それから、あなたのお腹の中には自分の子供がいて、あなたも子供も手放すことはできない、あなたを妻にして一生を共にするつもりだと。本当は、崖から落ちなければ、あの日そうするつもりだった、と」
聞いている内に胸が詰まり、視界が滲んだ。彼の言葉が嘘であることを、彼女は知っている。衝動的で、やけくそ半分で、そしてとても優しい嘘であることを。
老騎士は静かに彼女を見つめていた。
「あなたは本当に愛されているのですね。・・・でも、あなたが望まなければ、彼のもとに戻る必要はありませんよ。あなたの本当の気持ちに正直に選んで下さい。シディニアに帰るか、彼と結婚して、こちらの人間になるか」
彼女は震える瞳で老騎士を見上げた。
「私・・・は・・・」
彼女の答えを聞き、老騎士は優しく微笑んでうなずいた。