半分だけ引き開けられた門の向こうで、獲物を見失った熊のようにうろうろと落ち着きなく歩き回っている彼の姿が、目に飛び込んできた。何と声をかけるべきか―声をかけていいものか迷っているうちに、彼が彼女に気づいた。

「レーネ!」

こちらに駆け込もうとして門衛ともみ合いになる彼を見て、彼女は慌てて駆け出した。

「ザックス・・・!」

強く、熱い、金色の光。温かな濃い褐色の瞳できらめくその光に貫かれた瞬間、迷いは消えていた。広い胸に飛び込み、がっしりした首にしがみつくと、逞しい腕が彼女の体に巻きついて息が止まりそうなほど締めつける。

「・・・あの・・・ザッ・・・」
「ちくしょう!」

いきなり頭の後ろで怒鳴られ、彼女はびっくりして固まった。ごつごつした大きな手が、硬直した彼女の体の上をおかまいなしに慌しく移動する・・・彼女がちゃんとそこに存在すると確かめるように。

「俺はとんでもねぇ大まぬけだ。なんで今まで気がつかなかったんだ!」

彼は、そうすることで彼女を自分の中に取り込んでしまえるとでも言いたげに、ぴったりと体を引き寄せた。

「これは俺の運命だ・・・お前を崖の上で抱き締めたあの時、もう、運命は決まってたんだ」

肩の後ろで緩く結われただけの彼女の髪を鼻で掻き分けて彼が顔を埋め、熱い息がうなじをかすめる。

「俺達は骨の髄までお互いのためにつくられた・・・別々の国に生まれて、生きてきて、それでも出逢ったように、俺達は惹き寄せ合ってる。過去を消そうが消すまいが、お前から離れることはできねぇ。この運命は変えられねぇんだ」

全身に震えが走った。溶けてしまいそうなほどの熱が大きな体から伝わり、彼女は、自分が希望を見失って凍えきっていたことに初めて気づいた。ぶっきらぼうで温かな声が―もう聴くことはかなわないと思い、それでも恋しくてたまらなかった声が―耳元で響き、体に染みとおっていく。

「俺はお前のために存在してる、お前を守り、幸せにするために。お前がどこの誰だろうと、どんな過去があろうと、そんなことは関係ねぇ、お前はお前だ。お前のその、信じられねぇほど一途で、穢れの無ぇ、まっさらな魂は、俺のもんだ。俺だけの。もう二度とこの手を離したりはしねぇ、絶対に」

言葉にならない感情が込み上げ、思わず呻き声が洩れた。苦痛の声だと思ったのか、彼が慌てて腕を緩め、彼女の顔を覗き込んだ。

「ああ、悪ぃ・・・大丈夫か?捕まってひどい目に遭わされたりしてねぇだろうな?怪我は無ぇか?体の具合は・・・?」
「大丈夫ですよ。怪我などはさせていません。体調も、まだ少し辛そうですが、医師が言うには通常のつわりの範囲だということです」

彼が目を上げて彼女の背後を見た。彼にがっちりと抱き締められたまま顔だけ廻らせて振り向くと、穏やかな表情の老騎士が、馬を連れた従者と共に近づいてきた。老騎士はいつもと変わらぬ優しい眼差しを彼女に向けた。

「何か困ったことがあったら、いつでも私を訪ねていらっしゃい」

小さくうなずいた彼女に老騎士はちょっと微笑み、それから彼に視線を移した。

「早く帰って、ゆっくり休ませてあげなさい。お二人が末永く共に幸せに暮らされるようにお祈りしていますよ。それでは」

老騎士は従者の手から手綱を受け取り、流れるような動きで馬にまたがった。そして馬上から二人に会釈すると、馬を急がせて何処かへと向かって行った。老騎士の姿が木立に消えるのとほぼ同時に彼が振り向き、おそろしく真剣な声音で言った。
 
 

「俺と結婚してくれ」
 
 

聞き間違いだと思った。何か、自分の知らない、似たような言葉と取り違えたのだと。

彼が私を妻にするって王様に言ったのは、私を牢から出すための方便。たとえ私に対してしがらみめいたものを―拾った小鳥に対するような責任と愛情を感じているとしても、そのために、神の前で、取り消しのきかない誓約を立てるはずなんてない。ましてや本気で私を妻として求めてくれるなんてことは・・・

己がいまだにそんなだいそれた夢を抱いていたらしいという事実が、ひどく胸を痛ませた。腕から力が抜けてするりと彼の腕を滑り落ち、爪先立っていた足がすとんと地面につく。彼女がうなだれたまま言葉を返せないでいると、彼が少し慌てたように言い直した。

「結婚・・・って、分かるか?一緒に暮らして欲しいんだ。これからずっと・・・死ぬまで」

・・・聞き間違い・・・じゃない?

衝撃に打たれ、呆然と見つめ返すだけの彼女に、彼はさらに慌てふためいて付け足した。

「一緒に暮らすっていっても、今までみたいじゃなく、夫婦として・・・夫婦ってのはつまり、男と女が契りを・・・いや、誓いを、交わして・・・」

苦労しながら一生懸命説明しようとする彼が気の毒になり、彼女はそっと首を振った。

「『結婚』の意味は、分かります」
「じゃあ・・・」

言いかけた彼が突然何かにショックを受けたようにはっと息を呑み、見る見るうちに青ざめた。あまりの急変ぶりに、彼女の方が驚いた。ますます訳が分からなくなり、不安で混乱する。彼が掠れた声で呟いた。

「まさか、もう結婚してるとか・・・」
「いいえ!」

彼がほっと息をつき、その顔に血の気が戻るのを見て、彼女もわずかに気持ちを緩めたが、彼はすぐにまた表情を曇らせ、硬い声で尋ねてきた。

「もしかしてつきあってるヤツが・・・婚約者がいる?」

その問いには即答できなかった。しばしためらった後、彼女はうつむいて小さな声で答えた。

「・・・いいえ」

途端に彼は生気を取り戻し、勢い込んで彼女にせまった。

「そんなら何も問題は無い。俺と結婚してくれ」

彼女はやっとの思いで言葉を絞り出した。

「私・・・子供・・・」

彼が門衛の方をちらっと見遣った。生真面目そうな門衛はさっさと決められた位置に戻って無表情に役目についており、もはや彼らの方を気にしている様子はなかったが、彼は彼女を引っ張ってその場を離れた。充分声の届かないところまで離れ、なおも大股に歩き続けながら彼は言った。

「子供のことは心配するな。そいつは俺の子だ。国王陛下にそう言った。面倒を避けるためにも、その子は俺の子として通すんだ。他の奴らにも」
「だから、ですか?」

問い返す声が鋭く尖る。彼がちらっと振り返りながら、怪訝そうに顔をしかめた。

「何がだ?」
「王様にそう言ったから、私と結婚しなきゃならない?私の命を助けるために?」

ふいに彼が立ち止まり、腕を掴まれて小走りに後ろをついて行っていた彼女はつんのめって彼にぶつかった。素早くもう一方の手が伸びてきて彼女を抱きとめる。彼女が何か言う間も無く、両肩を掴んで向き合わされた。

「お前、さっき俺が言ったこと、分かってたか?俺はお前を・・・」
「運命なんてどうでもいい!」

険しい顔で言いかけた彼を遮り、丸太のような腕を押しやるように、肩をすくめて手を突っ張る。

「私を助ける、も。これ以上あなたに、したくないこと、させたくない。私はかわいそうじゃないです。王様はきっと許してくれます、おじいさんの家にいれば、結婚しなくても。一番大切なのは、あなたが幸せに・・・」

険悪な気配を感じて彼女が口をつぐむのと彼が爆発するのとは、ほぼ同時だった。

「なら、俺と結婚しろ!」

掴んだ肩を揺らして彼が大声で怒鳴り返し、彼女はびくりと身をすくめた。

「俺を幸せにしたいんなら、言うとおりにしろ!くだらねぇ気を回して、俺から離れようとするな!俺と一緒にいるんだ!」

大きく目を見開き、黙って彼を見返す彼女に、彼ははっとして手を緩めた。その手が痩せた肩から腕を滑り落ちるように撫でる。溜息をこらえるように、彼がゆっくり息を吐いた。

「そうじゃねぇ・・・お前に無理強いするつもりはねぇし・・・同情や義務感で言ってるんでもねぇ。ただ、俺がそうしたいんだ。お前と暮らしたい、お前と、お前の子供と。一緒に幸せになりたい、それが俺の望みだ」

もどかしげな口調は消え残る苛立ちを隠せていなかったが、眼差しは懇願するように彼女に注がれていた。

「俺を嫌いじゃないだろ?だから俺を助けてくれたんだろ?・・・まったく無茶しやがって、お前にもしものことがあったら俺がどんな気持ちになると・・・」

彼女は静かに首を横に振った。

「あなたが私の命を助けた。だから私の命はあなたのもの」
「バカか、お前は!」

またしても頭ごなしに怒鳴られ、彼女は困惑して首をかしげた。

「バカ?」

知らない言葉だった。想像はつくけれど。でもなぜそう言われるのかは、やっぱり分からない。

彼は小さく舌打ちすると、両手にぎゅっと力を入れ、彼女の体をもどかしげにそっと揺らした。

「勘違いするな。お前の命はお前のもんだ。他の誰のもんでもねぇ。どんな時でも、どんなことがあろうとだ。簡単に手放すな」

心臓がぎゅっと絞られる。

「俺はお前に生きて欲しいと願ったが、お前を自分のものにしようと思ってそうしたわけじゃねぇ。俺はお前の意思で選んで欲しいんだ。生きること、自分を大切にすること、俺と・・・俺と暮らすこと」

燃えるように輝く彼の金色の瞳―いつもは褐色の瞳が、激しい感情を帯びると金色に光る―を、彼女はじっと見つめた。彼の内で燃える炎がちりちりと彼女を焦がす。

「・・・はい」

彼女の返事はどういう意味かと迷うように、彼が眉をひそめた。彼女は急いでぎこちなく言い足した。

「私は、あなたと結婚します」

彼が一瞬息を止め、その顔が日の出のようにぱあっと輝く。

「やった!!」

勝利の雄叫びを上げ、彼は彼女の腰に両腕を廻して抱き上げ、コマのようにぐるぐる回った。

「これで俺達はずっと一緒だ!誰にも渡さないし、どこにもやらない!俺はもう、独りじゃない!!」

その瞬間、彼の孤独の深さを知った。彼女が思っていたよりもずっと根深く、彼を苦しめてきたらしい、心の中に澱凝った翳を。まがりなりにも愛されることを知っていた―知っていると思っていた彼女には想像もつかないほどの、長く辛い悲しみを。彼はそれを粗暴なふるまいの下にずっと慎重に隠してきたのだろう・・・

痛いほどに強烈な願いが込み上げ、心臓が切なく疼く。彼を温め、その孤独を癒してあげられたら。変わらぬ愛情で包まれる安心感を味わわせてあげられたら・・・溢れ出す熱い想いが体に満ちて行き、思いがけず強い力がみなぎってくる。守ってあげたい。全力を尽くしても・・・私の愛する人を。

「ザックス・・・ずっと一緒・・・独りじゃない」

彼の太い首に腕を回してぎゅっと抱きつくと、彼も、絶対に放さないと言わんばかりに彼女を抱き締めた。


 

 続き Fortsetzung

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