「結婚?」

シュテフという名前らしい、愛嬌のある顔立ちのひょろりとした若者は、ぽかんと口を開けたまま目の前に立つ大男を見つめ返した。彼は無愛想な表情のまま、間髪容れずにはっきり答えた。

「そうだ」
「・・・お前が?」
「そうだ」

戸口に立ちすくんだまま動こうとしないシュテフに、彼はちょっといらだった様子だったが、自分が頼んでいる立場だという事はちゃんと理解していたのだろう、飲み込みの悪い相手に噛んで含めるように、ただし早口で説明した。シュテフが話を聞きながら伸び上がるようにして壁のような彼の背中の後ろに立つ彼女を見たので、にっこりと微笑みかけると、若者は少年のような童顔を赤らめてもじもじした。彼がちらと彼女を振り返り、視界を遮るように前に出た。

「・・・だから証人が要る。今すぐちゃんとした服に着替えて教会に来い」
「えっ、今すぐ?」
「そうだ。誰にも文句は言わせねぇ。国王陛下のお墨付きだからな」

シュテフは腰を抜かさんばかりに驚き、転がるように奥に入ると、あっという間に晴れ着を半分引っ掛けるようにして戻ってきた。
 
 
 

婚姻告知期間も無しで、しかもよそ者との結婚などとんでもないと渋る僧侶に、国王の威光をちらつかせ、さらには腕力に訴えることも辞さない構えを見せて、彼はついに説き伏せた。彼女はただ彼を信頼して全てを委ね、黙って寄り添っていた。そうして、煩雑な手続きを半ば強引に片付け、実際に結婚式が行われたのは、もう夕暮れも近い頃だった。

彼女を彼に引き渡す役を務める者など居るまいと言われた彼は、迷わず、猟師の老人に頼むと言い切った。心配そうな彼女の顔が他の人達にどう見えたかは分からない。だが彼は彼女の手を掴んだ手にぎゅっと力を入れ、無言で大丈夫だと告げた。果たして老人は、大喜びでという様子ではなかったが、あっさりと引き受けてくれた。それだけで彼女には、老人がどれほど喜んでくれているか、よく分かった。抱きついて感謝したいくらい嬉しかったが、彼女はただ、眼差しにできる限りの謝意を込めて微笑むに留めた。

誓いの言葉ははるか昔に使われていた共通語で、彼女にとってはノルドの言葉よりむしろ馴染みが有った。大きな体をかがめて神妙な顔で祭壇の前にひざまずいた彼が、僧侶に従ってそれを復唱するのを隣で聴き、彼女も同じようにそれを繰り返した。彼女は妻になった。二ヶ月前には考えもしなかった地で、その頃には知りもしなかった男の。けれど不思議なことに、不安も後悔も、これっぽっちも感じなかった。彼女は自分の運命を、ただ、敬虔な驚きと感謝を持って受け入れた。
 
 
 

簡単な式の後、彼は彼女を教会の裏庭に連れ出した。夕焼けに染まる小さな庭を二人きりで歩きながら、彼は、庭の中ほどに塀を背にして立つ白い石像を指差した。

「あれだ」

腰までの長さのヴェイルを被り、質素な身なりをした等身大の女性像。ヴェイルの襞の陰からはうつむき加減の顔が覗き、片手を少し持ち上げ、何かにかざすように差し伸べている。はっきりしたことは言えなかったが、彼女には、それはあまりこの国のものらしく思われなかった。むしろ彼女自身の国や、もっと南・・・たとえばオストラントあたりの雰囲気があった。

彼女が黙って見ていると、彼が繰り返した。

「あれだ。聖マクダレーネ」

彼女ははっとして彼を見た。彼は一瞬、彼女と目を合わせてから、気恥ずかしげにさっと顔を逸らし、石像に目を戻した。

「あん時、なんでだかこれが思い浮かんだもんで・・・」
 
 
 

『あの時』というのが彼に出逢った翌朝のことだというのはすぐに分かった。まるで沈黙の誓いを立てた修道僧のように朝食を終えた後、彼はいきなりぶっきらぼうに口を開いた。

「俺はザックス。ザックスだ。お前は?」

彼はその太い指を立てて指差しながら話していたので、何を言っているのかはすぐ分かった。けれど彼女は貝のように口を閉ざしたまま、じっと彼を見つめ返していた。彼は多少いらつく様子を見せたものの、辛抱強くその質問を繰り返した。それでも彼女はぴくりとも動かず、黙りこくっていた。4回ほど繰り返したところで彼の辛抱も切れたらしく、けたたましい音を立てて立ち上がった。彼がわめき出そうと息を吸い込んだ瞬間、老人が何か言った。彼は大きく口を開けたまましばし老人を見ていたが、やがてぎゅっと唇を結んで、どすんと腰を下ろした。長い沈黙の後、彼は彼女を睨み、指を突きつけて、不機嫌に言った。

「・・・マクダレーネ。お前はレーネだ」
 
 
 

「芸の無い名前の付け方で悪かったけどよ、あん時は他に思いつかなくて・・・」

やや気まずげに、夕陽を反射する金褐色の髪を片手で掻き上げながら彼が言った。

「気に入らなかったら別の名前でもいいし、もし本当の名前を教えてくれるんだったら・・・」

彼女は首を横に振って遮った。彼女は一度死んだ。一度は凍りつき、止まってしまった心臓が、彼の腕の中で再び鼓動を始め、新しい人間として生まれ直した。だから以前の名前にはもう、なんの意味もない。彼女にとって自分の名前と言えるのは、彼がつけてくれた名前だけだった。そしてその名前を彼女はとても、とても、大切に思っていた。

彼女は、自分がもう一度生きたいという気持ちになれるとは思っていなかった。ましてや誰かを愛することができるようになるとは。彼は彼女に奇蹟を示した。この名前は、そのことを証す特別な名前。けれどそういったこと全てをちゃんと説明するには、彼女の語彙はまだ不足していた。でも、いつかそのうち、きっと、言える日が来るだろう。彼女はただ微笑んで言った。

「レーネでいい。とてもいい名前。それに結婚したの、レーネだから」

彼が、あ、という表情で彼女を見た。彼女はにっこりと、満足気な笑みを彼に向けた。

「この名前、好き。ありがとう」

彼が照れくさそうに笑った。

「それ、お前が最初に覚えた言葉だな。『ありがとう』」

それは違う。彼女がこの国で最初に覚えた言葉は『ザックス』だった。初めて聞いた瞬間から、深く意識に刻み込まれた名前。彼女を闇の中から掬い上げ、再び脈打つ心臓を与えてくれた―そして彼女が心から幸せにしたいと願い、そのために持てる全てを、命すら与えてもいいと思った、たった一人の、大切な人の名前。けれど彼女は彼の言葉を否定せず、ただ彼のがっしりした温かな手を取り、そっと口づけた。

「ありがとう、ザックス・・・私、あなたを、好き」

ふいに彼の笑みが掻き消え、真剣な表情が浮かんだ。瞳が金色に燃え、彼女を射通すように強く輝く。太く硬い腕が背中に回り、彼女を引き寄せた。彼女は顔を少し上向けて彼の瞳を見つめたまま、両腕を伸ばしてがっしりした首にしがみつき、彼の腕の中で伸び上がった。世界が夕焼け色に染まり、力強い唇が重なった。


 

 続き Fortsetzung (6.はR18のため、7.に続きます)
 
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十一月 6 (R18)