頭のてっぺんから桶いっぱいの冷水をぶちまけられたような気がした。

「その人は・・・」

彼女は何かを言いかけ、途中で止めた。呆然とした彼が促すことも遮ることもできないでいる間に、彼女はまた話し始めた。

「私達は愛し合っていると、私は思っていました。あの日、その人に誘われて、私達は山に入りました。もちろんあの人がどういうつもりで私を誘ったのか、私は分かっていましたし、それに応えるつもりでした」

ぎり、と体の中で骨が軋るような音がした。彼女は言葉を止めるとそれきり話せなくなると怖れているかのように、つっかえつっかえ喋り続けた。

「静かな、山の中の道を歩いていて・・・私はその人しか見ていませんでした。・・・村からかなり離れて・・・気がついたら何人もの兵隊が・・・ノルドのじゃありません、シディニアの兵隊が、私達を取り囲んでいました」
「・・・もういい、やめろ。思い出さなくていいんだ」

低く掠れかけた声で遮った。それ以上聞きたくなかった。・・・彼女のためか、それとも自分のためかは分からなかったが。しかし彼女は首を横に振った。

「その人達の顔が・・・よくないことを考えていると分かって、私は恐くなりました。私はあの人を見ました。でもあの人は私を見ていませんでした。兵隊達はあの人を脅し、あの人は、お金になりそうなものを残して、逃げました。私も逃げました。いっしょうけんめい逃げましたけれど、その人達は私を捕まえました。私は・・・助けてと叫びましたが・・・でも・・・」

彼女はそこで言葉をとぎらせ、うつむいて苦しげに息をついた。彼は体中の血がぐらぐらと煮えたぎるのを感じながら、闇に溶けてしまいそうな白い体を見つめた。炎のように体を舐め尽くす強烈な感情で、全身が細かく打ち震え、声すら出ない。もとより彼は温厚な人間とは言えなかったが、それでもこれほどの激しい怒りにとらわれたことはかつて無かった。

「私が悪かったのです。私がついて行ったのですから。あの人にはどうにもできませんでしたし・・・だから・・・あの人だけでも、ひどい目に遭わずにすんで、よかった」

とりなすような彼女の言葉も、彼の怒りを煽るだけだった。ベッドから飛び出して山の向こうにすっ飛んで行きたい衝動を辛うじてこらえたのは、考え無しに行動した結果がどんなことになるか、身にしみていたから。だが噴火寸前の感情は体の中で激しくうねり、ぎりぎりと歯を食いしばらなければ押し込めることはできなかった。全身の筋肉が痛いほど軋んだ。

信じられない。あんまりだ。
そいつらを全員、息が止まるまでぶちのめしてやりたい。

つまり、彼女のそれまでの平穏な生活だけでなく、優しく無垢な信頼までも、そいつらに粉微塵に打ち砕かれてしまったのだ。彼女を守るべきものが彼女を裏切り、傷つけた。敬虔で穏やかな彼女に、自ら命を絶つことを選ばせるほど、残酷に、徹底的に・・・どうしてこれを赦すことができる?いや、到底無理だ。もし俺がその場にいたなら・・・俺がいさえしたら、絶対に・・・

「・・・ごめんなさい・・・」

辛そうな彼女の声で彼ははっと我に返り、知らず知らずか弱い腕をきつく握り締めていたのに気づいて、慌てて手を緩めた。だが彼女はほっとした様子も見せずにするりと腕を抜くと、くっきりと付いた指の跡をちょっと見下ろして、細い肩を落とした。

「もっと早く、話すべきでした・・・私、あなたがあの時のこと・・・私のこと、そんなふうに思ってるなんて、考えもしなくて・・・ノルドが悪いことしたと、責任感じてるなんて思わなくて・・・」

やめろ。そんなふうに、その綺麗な歯を、柔らかなお前の唇に食い込ませるな。

そう叫びたかったが、無理やり自分を押さえ込んでいたため、すぐには声が出せない。それでもなんとかぎこちなく手を動かし、彼女の方へ伸ばそうとしかけた途端、途中で凍りついた。

「・・・私、間違ってました。あなたと結婚すべきでなかった」
 
 
 

なん・・・なんだって?

「ほんとのこと、ちゃんと話さずに。・・・あなたが私を必要としてくれてると、勝手に思い込んで・・・結婚したこと、あなたを騙したみたいです。ごめんなさい・・・」

いったん止まった心臓が、反動で急激に脈打ちだし、胸が苦しい。異常な動悸が少し収まるのを待って、彼は硬直した咽喉からどうにか掠れた声を押し出した。

「まだ・・・想ってるのか?」

彼女がゆっくり顔を上げ、眉をひそめて首をかしげた。何を訊かれているのか分からないというように。

ああくそ、まるで、ざらざらした砂を呑みこんでるみてぇだ。

「そいつのことを・・・」
「そいつ?」
「その・・・お前の婚約者だ」

その言葉の不愉快さに耐えかね、早口で吐き捨てる。一縷の望みを抱いて彼女の方を窺ったが、彼女はただまじまじと彼の顔を見つめ返すだけだった。彼は苦い思いを噛み締め、目を逸らした。

「・・・まあ、そうだろうな。婚約するぐらい愛してたんだ、裏切られたからって、そう簡単に忘れられるもんじゃねぇよな・・・」

自分の声に強い嫉妬の響きを認め、気分が悪くなる。

俺はこいつと結婚し、こいつの体と一生涯の約束を手に入れた。それ以上何を望む?辛い経験をどうにかくぐり抜けたこいつが、幸せだった頃の思い出を大事にして、二度と逢うことの叶わぬ愛しい男を―それがどんな下衆野郎であれ―心の奥底に住まわせてたとしても、しょうがねぇじゃねぇか?そんなことを気にするほど俺は肝の小せぇ男なのか?

・・・そう、その通りだ。俺はこいつをまるごと全部、自分のものにしておきたい。たとえ心の一部だろうと、他の男と共有するのはイヤだ。俺はどうしようもなく身勝手で、野蛮で、傲慢な男だ。・・・だが、そもそもこいつが俺のものになったのだって、こいつの本当の意志とは言い難いんじゃないか?こいつには俺を選ぶ以外、事実上、選択の余地は無かったんだ。それもこれも―意図したわけではないにせよ―俺が愚かしい行動をとったせいで。

「やっぱり、早く向こうへ帰してやるべきだったのか・・・」

しかし彼の苦渋とは対照的に、彼女の目にちらっと光のようなものが瞬いた。

「違います」
「違う?」

何を否定されたのか分からなかった。婚約者の事は忘れてやり直すことにしたという意味か、それとも、もう愛する人に受け入れてもらえる可能性は無いから、帰っても仕方がないということなのか?

彼女が小さく溜息をついた。

「あの時、私は、びっくりすることがいっぱいで、いろんなこと、よく考えられなかったけれど、でも、嘘はついていません」

さっぱり話が掴めない。彼は困惑して顔をしかめた。

「あの時?どの時だ?」
「あなたが迎えに来てくれた時」
「それのどこがびっくり・・・」

・・・なんだ?と尋ねかけて、ぎくりとした。
もしや彼女は察していたんだろうか。俺が、自分がどうすればいいか、ぎりぎりまで分からず、迷ってたこと・・・いや、だからって、俺を捨ててあっちに帰るってことにはならねぇはずだが・・・

彼の内心の不安に答えるように、彼女は静かに首を振った。

「初めは信じられなかった。あなたが来てくれたことも、帰ってもいいと言われたことも。・・・私は、あなたのところへ帰るか、シディニアへ帰るか、どちらかを選べと言われて」

自分が息を呑む音が聞こえた。
どちらか・・・を?

「その時、陛下のおつかいの人が、たくさん、話してくれました。あなたがずっと私を心配してくれてたこと。殺されるかもしれないような危ないことまでして、私を助けてくれようとしたこと。子供のこととか、いっぱい、嘘までついて・・・嘘だって知ってるの、私達だけだけど。その人は、『あなたは本当に愛されているのだね』って・・・私・・・うまく言えないけれど、胸が、いっぱい、詰まって、苦しくて・・・あなたがしてくれたこと全部、とっても、ありがたくて・・・」

・・・それで俺を選んでくれたのか。故国ではなく。
熱さと苦さが同時に込み上げてくる。
もしかして、俺が余計なことをしなけりゃ、こいつはシディニアに帰れたってことか・・・?

「・・・嬉しくて、幸せで。たぶん、ほんとに愛されているような気になっていたのだと思います」

・・・えっ?
今のは言い間違いか?それとも・・・

彼女が再び深い溜息をついた。

「その時は、あなたがあの、最初の時のことで思い違いしてるのも、気づいていませんでしたし・・・あなたに迷惑になるかもしれないって、それも、ちょっと思ったけど、あなたに逢ったら・・・忘れてしまって」

青白い頬がうっすらと染まった、ような気がした。

「・・・あなたが私に、結婚してと言った時も、最初は嘘の結婚だと思ってたからびっくりして、ことわりましたけれど、でも、私を好きになってくれて、一緒にいたいと思ってくれたんだと・・・思ってしまって・・・」

とつとつと語る彼女の声。そのどこか遠慮がちな弱々しい息吹は、けれども、知らぬ間に身を包む春風のように、ひっそりと、かすかな希望を彼の胸に吹き込んだ。

「・・・あなたを騙してるってことに気がつかずに、あなたと結婚してしまいました。でも・・・」

顔を上げた彼女の真摯な瞳と目が合った。息を詰めて見つめ返す。もしも・・・

「・・・婚約者はいないと言ったのは、嘘じゃないです。今の私には、もう、あの人は婚約者じゃないから。あの人が行ってしまった時・・・私を残して行ってしまった時、私達の約束は消えました。私にとっても、あの人にとっても」

・・・ほんとに?じゃあ、お前は俺だけのものだって、思っていいんだな?もし偶然そいつと再会したりしても、俺を置いて行っちまったりしねぇな?

そう訊きただしたかったが、できなかった。情けない男だと思われたくなくて。そして、万一、否定されるのがこわくて。心臓を破裂しそうに飛び跳ねさせながらも、ただ、石みたいに固まり、彼女を凝視するばかりの彼に向かって、彼女は一生懸命に話し続けている。

「あの人を好きだった私も、私の好きだったあの人も、もう、いません・・・たぶん、初めからいませんでした。あの人は、違ってた。ほんとの相手じゃなかった。もう一度あの人に会ったとしても、婚約者とは思えません。私の夫は、ザックスだけ」

咽喉がカラカラに乾いて、声が張り付いてしまった気がする。ここで何か言わなきゃならないのは分かってるが、頭に血が上って、何にも言葉が出てこない。

・・・彼の心を射抜き、全てを忘れさせる、真っ直ぐな蒼い瞳。強い銀の輝きを放つ、その濡れたような深い色合いに、どうしようもなく惹き寄せられ、呑み込まれる・・・
 
 
 

そのままどのくらい二人して黙って見つめ合っていただろう?やがて彼女があきらめたように小さく息を吐き、悲しげに目を落とした。

「でも・・・ごめんなさい。もう、いいです」


 

 続き Fortsetzung

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