寂しげな響きが胸に刺さる。彼は殴られたように正気に戻った。

どういう意味だ?もういい、っていうのは?

だが虚を衝かれた彼が一瞬遅れて口を開くより早く、彼女が言葉を継いだ。

「私・・・お別れを言わずに離れるの、嫌だった。でも、もう一度あなたに逢えて、その上、結婚までしてもらった。大好きな人と抱き合うのが、こんなに素敵なことだって、分かった・・・」

途切れ途切れに囁く彼女の姿は、透き通るように儚く弱々しい。ほっそりした両手が乱れたシーツを握り締め、澄んだ声が震える。

「ありがとう。あなたに助けてもらえて、私は幸せでした。・・・もう充分です。もう、思い残すことはないから・・・明日、『山荘』に戻って、それで、お別れし・・・」

彼女が最後まで言い終わるのを、彼は待たなかった。

「バカか、お前は!!」

いきなり引っ張られた彼女は、なすすべも無く彼の胸に倒れ込んできた。こわれそうな小さな肩をがっちりと支えて体がぶつかる衝撃を和らげ、ほっそりした背中に素早く両腕を回して包み込む。今ここにいる彼女と、そして彼女の過去と、未来までも、己の腕の中に抱き締めるように。

「俺達はずっと一緒だ、そう言っただろ。これまで何があろうと、これから何が起ころうと、俺は、お前を手放す気はさらさらねぇ。たとえお前のその・・・昔の婚約者が現れたとしても、絶対に渡したりするもんか。お前は俺のだ。俺だけの!」

低く吠えて、あぐらをかいた太腿の上に彼女を引き上げ、全身で抱え込む。彼女は、毛むくじゃらの分厚い体を押し付けられても全く抵抗する素振は見せなかったが、彼はまるで彼女が逃げ出そうとでもしているかのように、頑丈な腕できつく締めつけた。

「いいか。お前は何も悪くねぇ。できることなら今すぐにでも、お前を傷つけたヤツらを一人残らず叩きのめしてやりてぇよ。・・・もし、もしもその時に戻れるんなら、俺は必ずそいつらをぶちのめし、お前を守る!」

爆発した感情はまるで堰の切れた濁流のように、とどまるところを知らなかった。彼女に出逢って以来、体の奥でふつふつと煮えたぎっていたものが一気にほとばしり、ずっと言えなかった言葉を―声に出すことを恐れていた言葉を押し出した。

「俺はお前が好きだ!めちゃめちゃ惚れてる!ノルドとかシディニアとか、そんなこと何の関係もねぇ!お前はなんか勘違いしてるみてぇだが、俺がお前を欲しいのは・・・傍に居てほしいって思うのは、どこまでも混じりっけ無しの、俺の欲望だ!」

びくっと身を震わせて顔を上げた彼女の繊細な顎を太い指で掴み、噛み付くようにがなりたてる。

「こんなこと、自慢できた話じゃねぇが、ノルドがお前に何をしたにしろ、そのことで償いをしなきゃならないなんて考えたことは一度もねぇ。俺はお前を一目見た時から、ずっとお前が欲しくてたまらなかった!陛下に言ったことは、嘘じゃねぇんだ。なんとしてもお前をこっちに引き止め、俺のものにしちまおうと思ってた。お前の意思を訊きもせず、故郷も過去も、何もかも捨てさせるつもりだった!」

言葉にしてみるとますます自分の傲慢さに反吐が出た。下品な悪態が口をついて出そうになるのを歯軋りして堪える。噛み締めた歯の間から、獣のような唸り声が洩れた。

「そのくせ、それがそんなに簡単にはいかねぇって事実を突き付けられただけで、俺はびびって、尻尾を巻いて逃げ出して・・・お前まで傷つけちまった。けど、あんなふうに、思ってもみなかった状況でお前を奪われそうになって・・・思い知らされたんだ。逃げようがどうしようが、俺はお前をあきらめられねぇって。本気で何かを欲しいんなら、何もかんも捨ててもそいつを追っかけなきゃならねぇし、そうせずにはいられねぇもんなんだって。だから最後のチャンスが目の前にぶら下がった時、死に物狂いでしがみついた。絶対に逃がさねぇように」

びっくりしたように大きく見開かれた目が、まばたきもせず彼を見上げている。彼は細い顎の線に沿わせるように指を滑らせ、以前より少し痩せた頬をしっかりと包んだ。

「・・・わかってる。俺はろくでなしで、その上、大馬鹿者だ。けどお前がいてくれれば、お前を守るためなら、俺は変われる。お前を失うより怖いことなんか何にもねぇ。・・・お前の強さも弱さも全て、そのまんまのお前が好きだ。お前が傷だと思ってるお前の過去も全部ひっくるめて、お前は俺が引き受ける。俺はもう、迷ったり怖れたりしねぇ。俺がお前を守ってやる。二度と誰にもお前を傷つけさせたりしねぇ。絶対に」
 
 
 

白い頬をぽろぽろと涙が伝わるのを見て、彼は心の内で己を罵倒し、慌てて手の力を緩めた。またやっちまった。彼女に対してはどうしても自分を抑えられなくて、つい、力が入り過ぎてしまう。

「すまねぇ、痛かった・・・」

しゅんと頭を垂れ、彼女を放そうとした時、彼女の指が目にも留まらぬ速さで動き、離れようとする彼の腕をぎゅっと掴んだ。驚いて顔を上げると、激しく左右に振られた小さな顔から水滴がしたたり落ちるのが見えた。

「いいえ。誰も私を傷つけること、できません・・・」

嗚咽で声はくぐもっていたが、その言葉ははっきり聴き取れた。

「できるのは、あなただけ。本当に傷つけることができるのは、本当に愛している人だけ・・・」

衝撃に胸を貫かれるというのはこういうことか。

そうだ。出逢った時からこいつの瞳はいつも、曇り一つ無く澄み切っていた。あれほど酷い状態で、ひたすら死を求めて彷徨っていた時も。俺に捕らえられ、不安の中で生きることを余儀なくされていた時も。こいつの瞳が翳ったのはただ一度だけ・・・あの朝、こいつが縋るように伸ばしてきた手を、俺が払いのけた時だけだった。

彼の胸に額を押し当て、激しくしゃくり上げる彼女の細い肩を、彼は言葉も無く抱き締め続けた。考えてみれば彼女がこんなふうに泣くのを見たのも初めてだった。

ちくしょう!ああ、こいつは、もう一度俺を信じてくれるだろうか?卑怯な臆病心からこいつを裏切り、誰よりもひどく傷つけた俺を。
・・・そうであってくれ。そのためならなんだってする。この命を捧げることさえも。

熱い雫が胸から腹をびっしょりと濡らしてしたたり落ち、湿った体毛が肌に張り付く。冷えた背中を刺す夜の冷気の中、それでも彼は身動きもせず、ただじっと彼女を抱いていた。
 
 
 

やがて彼女の涙が枯れ、声がすすり泣きに変わった。豊かな黒髪に覆われたなだらかな背を静かに撫でて彼女の息が落ち着くのを待ち、そっと彼女の顎に片手を当てて上向かせた。

「俺を見てくれ」

長い睫がしばたたき、雫を振り払った。闇の中で、銀色の輝きを帯びた蒼い瞳はよりいっそう深い淵を見せた。

「ああ、この瞳だ・・・俺は、お前のこの瞳を見た瞬間、お前の虜になった。俺はお前のものだ。お前が俺を必要としても、しなくても、俺はお前の傍を離れない」

彼女の目にふたたび涙が盛り上がり、花びらのような唇が何か言いたげに震えたが声は出なかった。

「今は俺を信用できなくても・・・愛せなくてもいい。ただこれだけは約束してくれ。この先何が起こっても、二度と自分から命を絶とうとしたりしねぇって。自分が嫌になるような辛いことがあっても、たとえばもし、お前の過去が俺達を脅かすようなことがあっても、絶対に逃げねぇって。人生からも・・・俺からも。こんなこと、頼めた義理じゃねぇだろうが、俺は絶対に、お前を失くしたくねぇんだ」

彼は必死だった。彼女を守りたい。必ず守ってみせる。この身を盾にしてでも。これほど何かを大切に思ったことはない。

「過去はどうやったって消えて無くなりはしねぇ。だが、その上にどんな未来を築くかは俺達次第だ。俺が望むのはお前と一緒の未来、お前と創る未来だ。俺にはお前が必要だ」

彼女は耐えかねたように彼の指から逃れて顔をうつむけ、まばたきした。ぱたぱたと布の上に液体の落ちる音。下を向いた唇が、声の無いまま少し動き、そして咽喉の奥から絞り出したような掠れた声を囁いた。

「・・・はい」

彼の胸の中で小鳥がはばたいた。蒼い翼の、小さな、小さな、雛鳥。今にも折れそうにか弱い翼の、けれども意外なほどの力に満ちたはばたき。

彼女が美しい顔を上げ、濡れた瞳が毅然と彼を見返す。

「はい、ザックス。私は、逃げません」

涙の跡が残る頬に、あの、胸が苦しくなるような愛しい笑顔が浮かぶ。

「私は、あなたを、信じます」
 
 

・・・俺の妻・・・俺の宝物・・・俺の全て。
闇の中で・・・白く、輝いている。
 
 

「きれいだ、レーネ・・・お前はなんてきれいなんだろう・・・」

感動に震える彼の腕の中で、急に彼女が身じろぎ、まばたきして心もとなげな表情で彼を見た。

「それ・・・聞いたことが・・・?」

妙な反応に彼は戸惑った。

「何をだ?」
「・・・なんて・・・きれい・・・」

今度は彼が身じろいだ。そうだ、確かに言った。崖の上で彼女を組み敷いた時、ぼろぼろに傷ついていた彼女に向かって、”ヴィー・シェーン”と。

「ああ・・・そうだっけな・・・」

気まずい思いで言葉を濁した。あれは失言だった。どうせ通じてないからと思ってほったらかしてたが・・・彼女だってはっきりと覚えてるわけじゃないはずだが・・・

「俺、お前を見るたび、そう思わずにはいられねぇんだ。言葉で言い表せねぇほどきれいだって。・・・実を言うと・・・」

彼はためらったが、彼女に嘘や隠し事はしたくなかったし、できなかった。

「気を悪くしねぇでほしいんだが、最初にお前を捕まえた時もそう思って、つい口から出ちまった」
「あの時?ほんとに?」

彼女が目を丸くした。

「ああ、くそっ、言うべきじゃなかったのは分かってる。お前はそんな状況じゃなかったし・・・あの時だってそう思ったんだ」

信じられないものを見るような目つきで凝視する彼女に、彼は顔をしかめてしどろもどろに弁解した。

「でもほんとに、純粋に、きれいだって思ったからで、お前をどうこうしようって下心があったわけじゃねぇんだ。いや、全然無かったとは言い切れねぇが・・・」

歯切れの悪さに我ながら歯噛みしたくなる。と、ふいに彼女がふわりと微笑んだ。

「ありがとう。ザックスも。なんてきれい」

ためらいもなく返ってきた言葉と共に、しなやかな手で胸から腹へのラインをなぞられ、彼は赤面すると同時に当惑した。これまで雄々しいとか逞しいとか言われたことは何度もあるが、『きれい』と言われたことは一度もなかった。

「お前、それは、使い方を間違ってる・・・」

彼女がきっぱりと首を振り、揺れた髪が彼の太腿を撫でて、思わず言葉が途切れた。

「間違ってない。きれいです。とても、きれい。あなたの心も、体も、強くて、しなやかで、光る・・・ええと・・・光があります。私はそれをきれいだと思います。とても好きです」

柔らかな唇が毛むくじゃらの胸に触れ、心臓が飛び跳ねた。

「レーネ・・・」

声が掠れた。場違いな欲望を抑えるため、彼女の肩を掴んだ手にぎゅっと力を入れた。

「俺も・・・俺もお前が持ってる光が好きだ。お前の瞳できらめいてる・・・お前を輝かせてる、その光・・・そいつに包まれると俺はすごく満たされて・・・幸せな気分になる。今まで生きてきて、こんな気持ちになったことはなかった。お前の光が俺に力を与え、導いてくれる。俺はもう、それなしじゃ、どこにもいけない」

彼女は微笑んで幸福そうに彼の胸に身を預け、頭をもたれさせた。

「ザックスは言いました」

かすかに胸毛を揺らしてすり抜ける温かな呼気に気もそぞろになりながら、彼は曖昧に返事した。

「ああ?」
「私達は、お互いのためにつくられた、って」
「・・・ああ」

覚えててくれたのか。あんな、どさくさまぎれみたいな言葉まで、ちゃんと逃さずに。

焼けつくような愛しさのまま、強く抱き締め、激しくキスしたかった。けれど彼はその気持ちを慎重に押さえ込んだ。今この唇に触れたら、もう一度愛し合わずにはいられなくなる。こいつの体のことを考えたら、いいかげん、静かに休ませてやらなきゃならねぇ。それでなくても今日はこいつを半日、引っ張り回しちまった。『ゆっくり休ませてあげなさい』と言われてたのに・・・

咳払いして、熱くなった己の体からそっと彼女を離した。

「もう遅い。そろそろ寝ろ。明日から忙しくなるぞ」

小さな肩を支えて仰向けに横たえてやり、毛布を引っ張り上げて、その隣に滑り込む。彼女は抵抗もせず、素直にうなずいた。

「はい。おやすみなさい、ザックス」
「おやすみ・・・レーネ」

身を摺り寄せてきた彼女の滑らかな背中を抱き、額に口づける。疲れていたのだろう、彼女はあっという間に安らかな寝息を立て始めた。彼の方はと言えば、胸に当たるふっくらした乳房の感触に、眠るどころではなかったのだが。

続きはまた明日の夜に・・・いや、朝でもいいか?・・・たぶん朝だな。とにかく、今はこうやってこいつを腕に抱いているだけでいい。まだこの先、時間はいくらでもある。こいつはずっと傍にいてくれるのだから・・・ずっと、一生、俺の傍に。
 
 
 

そう信じていた。


 

 続き Fortsetzung

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