遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえる。何度も夢に聞いた声・・・
その人の顔を見たいと思い、何とか重い瞼を動かそうと試みる。瞼が少しだけ震えた。「目が覚めたか?」
ニ、三度まばたきして、ゆっくりと目を開ける。眩しい視界の中、思っていたよりも間近に彼の顔が見えて、緊張した。彼は彼女のすぐ脇に腰掛け、躰を捻って彼女の方へ屈み、じっと彼女の顔を覗き込んでいる。背後からの光が明る過ぎて、表情はよく分からない。
「あのヤブ医者どもがもう大丈夫と保証してから、3日間も目覚めなかったんだぞ。今日中に目覚めなければ全員クビにするところだった」
「あ・・・わ・・・たし・・・」声が喉に貼りついて掠れた。彼が手を上げて遮り、ベッド脇の小テーブルに手を伸ばして、珍しい透明な玻璃の酒壷から杯に暗紅色の液体を注いだ。それから、彼女の肩を上掛けのシーツで巻き込むようにそっと腕を廻し、半分ほど抱き起こす。彼の男らしい香りが彼女を包み、温かい息遣いを感じて鼓動が速まったが、寝起きで頭がぼんやりしているのか、なんだか躰が麻痺しているみたいで、思うように動かせない。彼は片腕で彼女を支えたまま、再び小テーブルに手を伸ばした。
「ほら」
肩を抱く腕でしっかりと固定され、細密な印刻の施された美しい杯が口元に寄せられる。ふわりと甘い香りが漂い、目覚めかけの脳を刺激する。唇を開いて少し含むと、深みのある甘酸っぱさとわずかな渋味が口の中に広がった。飲み下すとすぐに躰がほんのりと温まり、意識が少しはっきりしてきた。唇を離して小さく溜息をつく。彼は片腕を伸ばして杯を戻し、脇に寄せてあった枕を引き寄せて重ね、彼女の躰をゆっくりと凭れかけさせた。柔らかな枕に身を沈め、彼女は静かに目を閉じた。
「辛くないか?」
「うん・・・」喉が潤い、さっきよりも滑らかに声が出た。彼がほっと息を漏らすのが感じられた。空気は心地良く穏やかで、遠く小鳥の囀りの他には何も聞こえない。頬を撫でる風は温かく、仄かな芳香がして―それは爽やかな果物を思わせ、慣れ親しんだ針葉樹の匂いとは異なっていた。彼女は再び瞼を開けた。
「私・・・ここは・・・?」
彼は先程の杯に口をつけながら淡々と答えた。
「ここは僕の国の、僕の城だ」
一瞬間があって、一気に杯を呷る。彼女から顔を背けるように彼が躰を小テーブルの方へ傾け、杯の置かれる音がした。
「そして君の名はティリア」
「は?何・・・」彼女は枕に付けたばかりの頭を再び浮かしそうに揺らしたが、彼は口を挟ませなかった。
「この国の古い言葉で『菩提樹』を意味する。・・・僕が最も愛していた人の名だ」
はっと息を呑んだ彼女の顔を、彼は真っ直ぐ見返した。
「愛して・・・いた?」
感情の見えない、暗く深い瞳。不意に視界が曇り、彼女は慌ててまばたきしながら俯き、大きく息を吸い、吐いた。が、彼の話はまだ終わってはいなかった。
「彼女は死んだ」
「えっ・・・」思わず顔を上げて彼を見たが、彼は冷静な眼で彼女を見つめたまま、全く表情を変えない。
「僕は彼女の身代わりとして、戦地から君を連れ帰った。君は彼女と姿形がよく似ている。だがもちろん、ただ似ているだけで、君とは何のつながりも無い」
彼女は混乱し、口をぱくぱくさせながら言葉を捜した。
「ええっと・・・あの・・・よくわからないんだけど、それって・・・」
上体を起こそうと身じろぎして、掛けられていたなめらかなシーツがするりと滑った。彼女は自分が何も身につけていないことに気づいて、慌ててシーツを押さえた。しかし彼はそんな彼女の様子に気を逸らされるふうもなく、身を乗り出して彼女の顎に手を当て、顔を覗き込んだ。
「君は戦いに巻き込まれて傷つき、瀕死の状態だった。・・・僕のせいだ」
彼女は驚いて口を開きかけたが、彼は彼女の唇を押さえて、首を振った。
「誰もが君の容態に見切りをつけたが・・・僕は諦められなかった」
『彼女は死なない!』
頑固に言い張る彼を、周囲を取り巻く人々は気の毒そうに見つめる。それが彼を一層苛立たせる。
『たとえお前たち全員の目に彼女が死んだように映ろうと、僕には違う!彼女は生きている、今も、これからも!!』
『ああ、そいつはいい考えだ』快活に言った友人を、彼は初めて絞め殺してやりたいと思った。だが彼がそれを実行する前に、友人はいつもの如く驚嘆すべき手際で自分の思惑通りに事を運び・・・そして彼は友人に、返しきれない借りができた。
胸元でシーツを握り締めたまま身動きもせず彼を凝視している彼女を、彼はじっと見据えた。
「僕はただちに君を僕の庇護下に移した。無論、君を手に入れるためには、少しばかり謀略と取引を要した・・・と言っても僕は君にかかりきりだったから、実際に手配してくれたのは僕の友人だが」
普通なら最低でもひと月はかかる道程をわずか二週間足らずで戻れたのも、完璧に道中の便宜を図ってくれた友人のおかげだった。様々な状況から、彼は彼女を連れて一刻も早く国に戻る必要が有った。その間彼がしたことと言えば、生死の境をさ迷う彼女に貼り付き、医者達に当たり散らし、馬車の揺れに悪態を吐き、彼女の口に薬や食事を一滴ずつ辛抱強く与え続けていただけだ。だがそれが何だというんだ?
「いずれにしろ、君はもう僕のものだ。そして金輪際手放さない」
「・・・えーっと・・・」なんとなく事態が呑み込めてきたが、なんだか狐につままれたようで、いまひとつ信じられない。彼女は掴んだシーツの端を意味も無くいじった。
「夢・・・じゃないよね?」
「現実だ」
「私・・・は・・・」心許なげに見上げる彼女の瞳を、彼が強い眼差しで見つめ返す。
「名前はティリアだ。覚えてくれ。戦争で身寄りを失くした。いいな?」
「・・・うん」彼の勢いに押されて彼女は頷いていた。しかし再び顔を上げた彼女は、念を押さずにはいられなかった。
「その・・・つまり私は、もう、自由ってこと?」
「『自由』?」彼は苦笑しつつ手を引っ込めた。
「君は僕のものだと言っただろう。君には選択の余地は無い。体が回復し次第、側仕えとして僕の身の回りの世話をしてもらう。いつも僕の傍に居て、僕だけを見て、僕の要求に応えてくれ」
彼女は目を丸くした。
「『いつも』?」
「そう。昼も・・・『夜』もだ」途端に冷んやりしていた頬がかあっと熱くなった。冗談を言っているのかと思って彼の顔を窺ったが、深い色の瞳は真剣そのものだった。
「反論は許さない。僕は一度君・・・ある人の意志を尊重しようとして失敗した。二度と同じ間違いは犯さない。君がどれほど抵抗しようと、決して放さない。そして誰にも渡さない。僕から離れようなどと考えるな。今度また・・・」
彼はぱっと口を噤み、言い直した。
「逃げようなんてしたらただじゃおかないからな。ここからは決して逃げられはしない」
彼の声は硬く、そしてかすかに震えていた。そこに籠められた強い想いに胸を刺される気がした。・・・彼の望みを、全てそのまま受け入れよう。彼女は心を決めた。
「・・・なんて呼べばいいの?」
「え?」戸惑った表情を浮かべた彼に、彼女は静かに尋ねた。
「あなたのことを」
彼は一瞬はっと息を呑み、それからためらいがちに答えた。
「ただ、『王』と。でも二人だけの時は・・・いや・・・」
彼女はそっと片手を伸ばし、躰の脇に置かれた彼の手に重ねた。
「分かった。あなたのお望みのままに、王」
彼は少し気まずげに目を伏せ、まだ何か迷っているように、親指の腹で、重ねられた小さな手を撫でていた。彼女は黒い髪の乱れかかる端正な横顔を見つめて柔らかく微笑み、大きな手をぎゅっと握って応えた。だが、ほどかれた髪を辿って視線を下げた彼女はふと彼の格好に気づき、うろたえた。
彼は豪華な刺繍の施された、光沢のある厚い絹のローブを羽織っていて―身に纏っているものはそれだけだった。ベッドの縁に斜めに腰掛けているので腰から下は辛うじて隠れているが、はだけた襟元からは引き締まった胸板がこれみよがしに露出していた。彼女は落ち着きなくシーツを引っ張った。
ところが彼女が首の下までシーツで覆うと、彼は誤解したらしく、せっかく羽織っていたローブをするりと脱いでその上に掛けてしまった。
「寒いか?」
「えっ、ううん、全然」嘘ではなかった。すっかり剥き出しになってしまった彼の精悍な体躯に、全身がぴりぴりと反応し、火照ってくる。美しいと言えるほどの、鍛えられた、無駄のない、力強い躰―彼女を強く求めている男の躰。うろたえて身じろぎしたはずみに手からシーツが離れてずり落ち、彼女は慌ててローブごと掴んで再び引き上げた。白い胸元がほんのり色づいていたのに気づかれてしまっただろうか? 彼女は滑らかな布をぎゅっと握り締めた。
「で、でも、ありがと。・・・だけど、これじゃ、なんだか立場が逆みたい。私の方が召使なのに・・・」
彼は何を考えているのか分からない表情でじっと彼女を見つめ、首を振った。
「僕のやりたいようにする。僕が主だからな。心配しなくても、そのうち君にも奉仕してもらうさ。元気になったら」
彼は『奉仕』という言葉に明らかに含みを持たせて発音した。
「えっと、あの、その、あ、あ・・・」
「『あ』?」
「あ・・・明るいね」彼女は自分の間抜けな応答に舌を噛み切りたくなった。しかし彼はちらと光の差してくる方を見遣って尋ねた。
「眩しいか?少し暗くした方がいいか?」
「え、ううん、いいよ、その・・・」食い入るように彼女を見つめる彼の瞳に激しく胸を高鳴らせながら、彼女は無理やり彼から目を逸らし、辺りを見回した。
「す・・・素敵な部屋だね」
実際そこは見たこともないほど綺麗な部屋だった。四柱と天蓋に彫刻を施したベッドには、金糸で縫い取りをした、真っ白な、光沢のあるシーツが掛けられている。天蓋の周りを囲む深緑のヴェルヴェットのカーテンは金の組紐で引き開けられており、明るい色の大理石の壁が、柔らかな色合いのフレスコ画で彩られているのが見えた。窓は彼女からは見えないが、部屋の明るさと空気の清清しさから推して、かなり大きなものと思われる。高い天蓋の陰から覗くドーム状の天井の端には、精緻なモザイクが、差し込む光を受けて鮮やかに浮かび上がっていた。
「ありがとう。僕の寝室だ。気に入って良かった」
「は?」
「つまり君の寝室でもあるからな」言葉と同時に、軽く曲げられた人差し指の脇ですうっと顎の線が撫でられる。
「ええっと・・・」
反応に困り、とっさに片手でローブを掴んで突き出した。
「こ、これ!着てて」
「僕は別に寒くない」
「そうじゃなくって・・・」不思議そうに彼に見つめられてますます頬が赤らむ。ふと彼が何かに気づいたように頷いた。
「ああ、そうか。君は僕の裸を見たことがないんだったな」
かあっと首まで染まった彼女の頭に唐突に疑問がひらめいた。
「え?そういえばさっき・・・ここはあなたの寝室だって・・・」
「言った」
「で、でもベッドは私がずっと使って・・・たんだよね?」
「全く問題は無かった。ベッドはバカみたいに大きいし、君は細い」彼女はあんぐりと口を開けたまま絶句した。
「そうだ。ずっと一緒に寝てた。全然気づいてなかったのか?」
彼女の髪を弄びながらしゃあしゃあと答えた彼に、噛みつきそうな勢いで彼女は怒鳴った。
「見、見たの?!」
彼はたじろぎもせず、平然と指先で彼女の頬を撫で、そのまま首筋へ滑らせた。
「君の裸を?もちろん。触り心地も良かった。滑らかで柔らかくて、だがちょっと痩せす・・・」
「バカっ!!」彼女は全身をぞくぞくさせながら、一気にシーツを引き被った。急に動いたためにちょっと背中が痛んだが、頭に血が上り、顔が火照って、それどころではなかった。だが、しばらくして少しずつ頭が冷えてくると、彼女は自分がまるで無垢な少女のような反応をしてしまったことに驚き、そしてそれを恥ずかしいと感じた。
しかし、彼女の狼狽も無理からぬことであった。なぜなら彼女は、男を知らないわけではないとはいえ、義務として人形のように抱かれたことがあるきりで―彼女はその間中、呻き声一つ、涙一つ、こぼさなかった―情熱のままに求め合うことはおろか、そういう欲望すら経験したことは無かったのだから。
だがそんな彼女の様子を見ていた彼は、からかい過ぎたと思ったのか、宙に浮いた右手をすっと引いた。そしてふいに改まった口調で切り出した。
「実を言うと君は一時期、ずいぶん体温が下がって、危険な状態だったんだ」
シーツを少しずらして端から覗くと、彼の俯き加減の横顔が見えた。その顔は、その時のことを思い出したように、辛そうに歪んでいた。
「僕は、ただ手をこまねいて見ていることはできなかった。なんとしてでも君の命を引き止めたかった。だから・・・」
彼の声が掠れて途切れ、彼女の胸が甘く軋んだ。彼女は両手をついてそろそろと身を起こした。シーツが胸の下まで滑り落ちたが、気にしなかった。彼女の動きに気づいた彼が慌てて手を差し伸べて彼女を軽く抱き支えた。彼女はその腕を押さえて優しく言った。
「・・・だから、温めてくれてたんだね?ずっと」
彼が泣きそうな目で彼女を見つめた。
「・・・離れられなかったんだ・・・」
「うん。ありがとう」彼女は手を上げて彼の前髪を掻き分け、生え際に沿ってこめかみから頬へそっと掌を滑らせた。
「ありがとう・・・」
両手で彼の頬を挟むと、彼が魔法にかけられたように顔を寄せてきた。
「・・・ありがとう」
呟くと同時に唇を重ねる。彼の顎の筋肉が一瞬強張り、それからすぐに熱い唇が彼女の唇を貪った。砂漠の旅人が、やっとありついた水を一滴もこぼすまいと縋りつくように。上下の唇が交互にしゃぶりつくされ、わずかに開いた歯列の隙間からせわしなく舌が差し込まれる。彼女は夫にも許さなかった聖域の門を、彼女を買った男のために開き、彼の柔らかな部分を迎え入れた。そして彼女も同じようにそれを差し出して応える。舌先が触れ合うと、稲妻に打たれたように全身が痺れた。そのまま激しく絡ませ合い、熱い興奮に包まれて周囲の全てが遠離り、彼の存在以外何も分からなくなる・・・ずっと昔の、夏の夜の夢のように・・・それ以上に。彼女は初めて、自らの内に燃える、身を焼き尽くすような原始的欲求を認めた。