息もつけないほどの接吻からやっと解放された彼女は、がっちりと彼女を抱え込んだ腕の中で数回深呼吸し、まだくらくらしている頭と乱れた鼓動をなだめつつ、ゆっくりと瞼を開けた。途端に、熱に浮かされたような瞳と至近距離で視線がぶつかり、快い刺激が躰を駆け抜ける。いまさらのように裸の胸が触れ合っていることが意識され、目覚めさせられたばかりの情熱が疼いて、彼女はたじろいだ。まるで彼女の淫らな望みを見透かすかのように、暗く深い瞳が、いっそう熱っぽく輝いた。思わず手が彼の頬から滑り落ちて、広く硬い胸で止まる。掌から激しい動悸が伝わってきた。彼の、何かに急き立てられるような張り詰めた表情を見て、彼女は少し無理に微笑を浮かべた。

「高くついた?」
「は?」
「私を・・・買うのに」

雰囲気を和らげようとした彼女の意図に反し、彼は一瞬にして表情を硬くした。

「君や他人がどう思うかは知らないが、僕は、君を手に入れられるなら、何と引き換えにしても高過ぎるとは思わない」

彼の言葉は鋭い刃物のように彼女の胸を貫いた。

「ご、ごめ・・・」
「いや」

彼女が引っ込めようとした手を彼が素早く片手で掴んで自分の胸に押し付け、かすかに首を振った。彼の顔はまだ強張っていたが、そこには既に先程のような怒りは無かった。彼はわずかに溜息を漏らすと、腕の中の彼女にすまなそうな表情を向けた。

「僕の方こそ、あんな言い方をして悪かった。取引とか召使とか・・・君が引っ掛かりを感じるのも当然だ。僕だって本当は君を妻にしたい。だが・・・」

一瞬言い辛そうに口ごもり、それからきっぱりと言い切った。

「だが、それはできない。少なくとも、公には。君に、僕の妃に相応しい身分を調えてやることも考えたが、あまり良い考えとは言えないと指摘された。僕もそう思う。僕の妃ということになれば、公の場に出なければならないこともあるし、そうなると色々・・・危険性が増す。僕は君を失いたくない。いつも君を傍から離さず、僕だけのものにしておきたい」

彼は苦々しく溜息をついた。

「王位など捨てて君と一緒に暮らせるものならそうしたい。だが僕の行動は既に多くの人々の運命を巻き込んでしまっている。今また自分の感情のために彼らを振り回すのは身勝手過ぎると、友人にもたしなめられた。こんな事態を招いてしまったのは全て僕のせいだ」

彼の腕がわずかに緩み、力無く頭が垂れた。

「本当にすまない。僕を恨んでもいい。だが、それでもとにかく僕は、君に傍にいてほしい。君無しで生きていくことなど、僕には耐えられない」

低い声が、胸の底から絞り出すように苦しげに揺れる。逞しい広い肩が細かく震えた。

「身勝手なことを言っているのは分かってる。君を傷つけ、命の危険に晒した挙句、こんなふうに縛り付けるなど・・・君にしてみれば赦し難い男だろう。だが、僕は・・・たとえ君に憎まれ、蔑まれても・・・君を諦めることはできない。どうしても君が欲しい。欲しくて、欲しくて・・・気が狂いそうだ!」

一言も口を開かず彼を凝視している彼女の手を強く掴み、彼は必死の形相で言い募った。

「君の『自由』は、君を失くす危険が無い限り、できるだけ尊重する。それに僕は決して君以外に妻を持つことはない。君だけだ。たとえ神の前に誓わなくとも、僕が生涯の伴侶とするのは・・・」

ふと彼女が微笑んだ。

「私は私だから。召使でも、奴隷でも」

彼ははっとして探るように彼女の表情を窺った。彼女は掴まれた手を抜こうとしたが失敗し、代わりに、少し頭を傾けて、自分の手を包んだまま固まっている手にそっと口づけを落とした。

「一番大切なものがなんなのか、ちゃんと分かってる。今、私に何ができるか・・・私がどうしたいか」

唇に彼の手の震えを感じた。迷いの無い眼差しで、彼女は彼を見上げた。

「心配しないで。私はあなたの傍にいるよ。何があっても、絶対、ずっと傍にいるから」
「ああ!リ・・・」
 
 

彼はすんでのところで息を呑み、言葉を止めた。だが込み上げる想いはこらえ切れず、夢中で彼女にしがみつき、白く高い額に激しく唇を押し付けた。

「僕のものだ!・・・僕の・・・」

熱い塊が喉につかえて声が詰まった。心の奥底で爆発した感情が、堰を切って体中から溢れ出す―喜びと言うにはあまりにも激しく、切ない感情が。彼は彼女の頭を自分の肩に押し当てるように覆い被さり、頼りない小さな体をしっかりとかき抱いた。喉から空気の擦れるような音が漏れた。

「・・・やっと、手に入れた・・・!」

柔らかな髪の中に手を潜らせて乱し、狂ったように耳の後ろに何度も繰り返し口づける。汗ばんだ肌の味とほんのりと甘く生々しい香りに、彼は他の全てを忘れてしまった。すっかり逆上せあがった頭と躰が求めるまま、唇と舌で滑らかな喉を味わう。悩ましげな吐息が耳を掠め、彼の中の炎をいっそう煽り立てた。熱い血がどくどくと全身を駆け巡る。果てしなく高まり続ける官能に我を忘れて強く抱き寄せた途端、華奢な背が弓なりになり、彼女が苦悶の声を上げた。

「あうっ・・・!」
「あっ!」

彼は慌てて腕の力を抜いた。うろたえながらも、彼女に余計な力をかけないように細心の注意を払い、か細い躰をそっと柔らかなベッドに下ろす。

「すまない。大丈夫か?」

つのる不安と冷めやらぬ興奮に胸を激しく動悸させながら彼女の様子を窺ったが、彼女はうっすらとそばかすの残る頬―普段はまったく判らないのに、高揚すると浮き上がって見えるらしい―を紅潮させたまま、瞼を閉じ、きゅっと眉を寄せて、苦しげに息をついていた。

「くそっ、こんなつもりじゃ・・・」

目を瞑って奥歯を噛み締め、彼は低く毒づいた。彼女が眠っている間は、たとえ欲望を感じてもそれを抑え込むのはさほど難しくなかった。不安や気遣いの方が遥かに強かったからだ。しかし、澄んだ瞳の輝きに溺れ、独特の甘い声に酔った後では、彼女を求める情熱に抗うのはほとんど不可能だった。だが・・・彼女はやっと目覚めてくれたばかりだ。危険な峠は越したとはいえ、まだ傷は治りきってはいない。体力も気力も弱っている。無理をさせてはならない・・・しかも彼の―彼だけの、一方的な欲望のために。

彼女から手を離せ。これ以上傷つけてしまわないうちに。

彼は歯を食い縛り、未練がましく彼女に触れていようとする自らを引き剥がして上体を起こした。

「悪かった」

彼女がはっと目を開けた。彼は精一杯自制して彼女の額にほつれかかった淡い色の細い髪をどけると、熱っぽく上気した心そそられる顔から目を背け、ベッドから出ようと身を退いた。

「僕は離れているから、ゆっくり休め」
「私は大丈夫」

離れようとする彼の手首を彼女が素早く掴んだ。彼は驚いてその手を見た。

「大丈夫なものか」

彼は手首に巻きついた細い指を外そうとした。

「君は死にかけてて、やっと目覚めたばかりなんだ。こんなことをするべきじゃなかった」

が、彼女はぎゅっと力を入れてますます固く握り締め、同じ言葉を繰り返した。

「私は大丈夫。お医者様達は正しいよ。だって自分でも、身体の中に、生きたいって力をすごく感じるもん。気分も悪くないし、ううん、それどころかとってもいい気持ち。だからこのまま続けてくれない?私は、そう、して、欲しいの」

一語ずつ区切って発音された言葉がやけに扇情的に響き、心臓が早鐘のように打ち始める。一気に熱を取り戻しそうになる躰を、彼は必死で制止した。勝手にいきり立つ彼のものを見られないよう、片膝を立てながら腰をずらしてうめく。

「やめてくれ。今はダメだ。君をこれ以上苦しめるわけにはいかない」
「だったら私を放さないで。今、私をあなたのものにして。他の誰でもない、あなたのものだって、感じさせて。私が本当に生まれ変わるために・・・!」

時間が止まった気がした。実際、彼女を引き離そうとしていた彼の手と思考は、完全に止まっていた。潤んだ大きな瞳で縋るように見つめられ、耳元で何か大きな音が―たぶん自分の心臓の音が―がんがんと鳴っている。理性と情熱の内なる戦いの結果は既に明白だったが、彼は最後の抵抗を試みた。

「しばらくして、もう少し君が快復したら・・・」
「こんな痛みくらい、何でもないよ。私を救ってくれるつもりがあるんだったら、お願い、今すぐ私を・・・抱いて」

澄み切った真剣な眼差しが―その一途な想いが、彼を射抜いた。理性の声ははや意識の彼方に霞み、彼の手はいつの間にか彼女の腕を這い、柔らかな肢体を探っていた。

「・・・本当にいいのか?」

ぱっと顔を輝かせ、頬を桜色に染めてこくりと頷いた彼女はあまりにも愛らしく、彼の迷いは、陽に照らされた霧のようにあっけなく消え去った。

「・・・なるべく負担をかけないようにするから」

鎖骨の下の乳白色の肌にそっと掠めるように触れながら、自分の声が低く囁くのを聞いた。

「辛くなったら言ってくれ。すぐにやめる」

本当にそんな芸当が可能かどうか、あまり自信は無かったが、とりあえず出来る限りの努力はするつもりだった。

「うん。ありがと」

眩しい笑顔に目がくらんだ。その瞬間、彼は正常な判断力を失っていた。考える前に口から言葉が飛び出していた。

「絶対に後悔はさせない。これまで経験したこともないくらい、素晴らしい悦びを感じさせると約束する」

それは彼女の苦痛を消してやりたいという気持ちが―もしかしたら多少は男のプライドも混じっていたかもしれないが―言わせたに違いなかったが、彼女の返事を聞いて彼は自分を殴りつけたいほど悔やんだ。

「悦びを感じたことなんて無いもん」

彼の腕をおずおずと撫で始めていた小さな手が滑り落ちた。さっきまでの笑顔は掻き消え、彼女は傷ついた表情で目を逸らしてしまった。

「いつも一方的に・・・されるだけだったし」

しまった。薄い胸に触れようとしていた手を止め、彼は呆然と彼女を見つめた。思い出させるつもりじゃなかった。忘れさせたいと―忘れさせてみせると誓ったのに。彼は心の内で己を罵倒した。

「たぶん、そのせいかな。お・・・夫はすぐに私に飽きちゃったらしいの。ひと月も経たずに足が遠退いて・・・部屋を移ってからはずうっと放っておいてもらえたから、静かに暮らせたよ」

・・・そうだったのか。彼は、彼女の家族が口にした不可解な―その時は不可解だと思った―言葉にやっと合点がいった。彼女はずっと・・・
彼は自責の念に顔を歪め、視線を落とした。だがその様子を見た彼女は寂しそうに目を伏せ、彼女らしくない、自嘲的な笑みをちらと浮かべた。

「私、たぶん、あなたもうんざりさせちゃうかもしれない・・・あなたはたくさん知ってるんでしょ?その・・・上手な人を」

彼は驚いて顔を上げ、彼女に目を戻した。彼女はさりげない口調を取り繕おうとしていたが、彼を見上げた眼差しに滲む不安と苦渋は見逃しようがなかった。胸が不穏に騒いだ。

「僕は・・・」
「嘘はつかないで」

強さと傷つきやすさを同時に包含した美しい瞳を彼はしばし無言で見つめ返し、それから低い声ではっきりと告げた。

「確かに、複数の女性と経験がある。それは否定しない。だが・・・」


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis