心の底から信じた愛を失った後、彼は闇雲に女を求め、執拗に心にはびこる面影を消し去ろうとした。それが無理だと分かってからは、腕の中にいるのは愛しい人だと思い込もうとした。想いを遂げさえすれば、苦しみから解放されるはずだと。しかし必死の足掻きはいつも惨めな失敗に終わった。どれほど努力し、自分を偽ったところで、果てた後には虚しさが残るのみで、狂おしい渇望は決して癒されることはなかった。それは快楽とすら言えない、ただ己を貶め、傷つけるだけの苦行だった。
 
 

彼女は苦い薬を飲み下そうとするように、きゅっと目と唇を引き結んでいる。彼は彼女の壊れそうな腕の付け根を両手で包み込み、力を込めた。

「だが、それらには何の意味も無い。分かってもらえないかもしれないが、僕にとっては・・・」

彼女は柔らかな枕に沈み込ませた頭をかすかに振った。

「分かってるよ」
「分かって・・・る?」

唖然として尋き返すと、彼女は見ている方が辛くなるような痛々しい微笑を浮かべた。

「うん。男の人は・・・特に力のある立場の人はそういうものなんだって、教えてもらったから。それに、その中でもちゃんと役割の違いがあるんだって。だから、私には私にできることが、きっと、あるんだよね」

彼は彼女の腕を掴んだまま眉をひそめた。彼女はなだめるように口許に笑みを貼り付けた。

「別にそれを咎めるつもりじゃ無いから。あの、でも・・・できれば私・・・その・・・」

しばし口ごもった後、彼女は一気に言った。

「ここのお城で、どの人が『そう』なのかは教えてほしいな・・・て、思ったんだけど・・・」
 
 

途端に彼の顔色が変わった。肩に置かれていた手がすっと離れ、彼女は寒気を感じてぶるっと震えた。

「あっ、でも、ヤだったらいいの、別に。うん。そのうち自然に分かると思うし」

彼女は慌てて身を起こそうとしたが、彼は無言で再び長い腕を伸ばして彼女を押し戻し、ますます怒っているように表情を険しくした。荒々しくはないが有無を言わせぬ強さで押さえ込まれ、彼女は捕まった鳥のように懸命に頸をもたげて彼を見上げた。

「あの、それにその、だからどうこうしようってことじゃないよ?ただ、知らなくて気まずい思いをするのは嫌かな、って思っただけだから・・・」

自分を守るためでもなかった。ただ、皆が不快な思いをせずに済むように―これまでやってきたのと同じように―それとなく配慮した方が良いに違いない。そう考えただけだった。
 
 

彼女は彼が、彼女の意図を誤解していると思っていた。が、彼はちゃんと理解していた。彼への不名誉な評価―名誉と思う男もいるのだろうが―と見当外れな気遣いは心外だったし、一瞬怒りを覚えたのも事実だったが、それもやむを得ないとも感じていた。

彼は、彼女がこの数年、どんな人生を強いられていたかを知っていた。苛酷な運命にたった一人で立ち向かい、毅然として受け止めた彼女の強さを。辛く惨めな生活の中で、精一杯頭と心を遣って、できるだけのことをしてきた彼女の賢さを。そして彼女は、落ち着いた美しい姿と思いやりのある美しい心を兼ね備えた、一人の人間として成長してきたということを・・・復讐心に囚われ、自分のためにも誰かのためにも自発的には何一つ為すことなく過ごしてきた彼とは違って。

彼は痛感した。自分には彼女を愛する資格は無い。どんな愛情を期待する権利も。だが、今、目の前にいる彼女に、これ以上こんな悲しげな顔はさせたくない。この先も、二度と。彼女を大切に思っている、それだけは信じてもらう。
 
 

彼は彼女を両手の下にしっかりと捕らえたままふいと横を向き、不機嫌そうに呟いた。

「・・・人の話を聞いてなかったのか、君は」

「えっ?話、って・・・?」

彼女が目をぱちくりさせると、彼は眉間に皺を寄せて彼女を睨み、ぶっきらぼうに言い捨てた。

「君だけだって言っただろう」

彼女が急いで頷いた。

「え、あ、うん。でも今まで・・・」
「今までも何も、君は、僕が、そんな女がいる所に君を連れてくると思ったのか?他の女と寝たベッドに君を寝かせるとでも?」
「え・・・えっと・・・」

彼女はまごつき、彼は溜息をついた。

「ここで僕が関係を持った女はいない。正確に言うと、二年前、知人に拾われて以来、一度も女性には触れてない」

拾われた酒場がどういう種類の宿で、いかにして店の軒先に放り出されるに至ったかまでは言うつもりはなかった。

「そ、そうだったんだ・・・」
「当然だ。どんな形にしろ、君を傷つける可能性の有るものを、君に近付けさせる気はない」

彼の厳しい声に、彼女はしゅんと首をすくめた。

「ご・・・ごめん・・・」

「それに、これを聞いて君の気が楽になるかどうか分からないが・・・」

神経が張り詰めるのを感じながら、彼は憮然とした表情で付け加えた。

「僕は望んで彼女達を抱いたわけじゃない。僕がこの手に抱きたかったのは・・・本当は別の人だった」

彼女が鋭く息を呑み、彼をまともに見つめた。まっすぐに心の底まで射し込む彼女の眼差しを、ありったけの想いを籠めて見つめ返す。何の飾りも駆け引きも無い裸の視線が絡み合い、無言のうちに無数の語り尽くせない言葉が交差する。と、彼女の瞳がじわりと潤みを帯びて小さく揺れた。

「・・・ごめん・・・なさい・・・」

彼は表情を和らげ、彼女を押さえつけていた手を緩めて、細い腕を優しく撫でた。

「もういい。そもそも悪いのは僕だ。誰に対しても不誠実な行いをしたんだからな。君に疑われても仕方がない」
「そうじゃなくて、そのこともだけど・・・」
「やめろ」

小さく尖りかけた唇に手を当てて彼は遮った。彼女が何を言おうとしたかは分かっている。だがその謝罪を受けることはできない。全ての責任は彼に在るのだ。彼自身が嘗めた辛酸だけでなく、かけがえのない人を犠牲にしてしまった責任も。

「僕が愚かだった・・・僕が間違っていたんだ」

その人は偽り無く彼を愛してくれていたのに、彼はそれを信じなかった。戦うべき時に戦わなかった。自分達は別つことのできない一つのものだと知っていたのに。そうして彼は、彼が愛したただ一人の人を失った。

「運命に操られるまま、みずからの手で不幸を紡ぎ・・・大切なものを守ることもできず・・・」

時間を戻すことができれば・・・あの時、彼女の愛を信じていれば。しかし彼は逃げた。彼女を苦痛の中に置き去りにして。どんなに辛くとも踏みとどまって彼女を見守っていれば―あるいはせめて彼女の消息を確認してさえいれば、救い出すことができたかもしれない・・・彼自身が苦しんだことなど言い訳にはならない。

「僕はどうしようもない、役立たずの、卑怯者だった」

気遣わしげに見つめられているのには気づいていたが、彼は、まるで胸に凝った悔恨が一気に溶け出したかのように、言葉を止めることができなかった。

「・・・ずっと忘れられなかったのに・・・それを憎悪だと自分に思い込ませ、恨み続けて・・・その挙句・・・」

彼女に触れていた手を引き、爪が刺さるほどに拳を握り締める。

「僕の想いは、守ろうとしたものを傷つけ、苦しめるだけだ・・・!」
 
 

血を吐くような彼の声。彼の苦しみが心に痛い。

「そんな・・・そんなこと・・・ないよ」

そっと囁いたが彼は硬い表情を崩さない。彼女は彼の拳に指先で軽く触れ、ちょっと息を吸って、もう少し強く言ってみた。

「それに、あなたは助けてくれたよ?私を」

彼が引き攣った笑みを浮かべた。

「君の意思も確認せず、ほとんど無理やり攫ってきたに等しいのに?」
「だって私は意識が無かったから・・・」
「有ったって同じだ。君を目の前にして、『彼女を手に入れたいか』と囁かれた瞬間から、僕はそのことしか考えられなかった。目が覚めた君がどう思うかなんて、その時は考えなかった」

明るい光に満ちた空気の中で、彼だけが闇に沈んでいる。どうすれば彼が心を開いてくれるのか、彼女には分からなかった。指先がなすすべもなく彼の拳の上を彷徨う。

「でも・・・命を助けてくれたんだし・・・」
「君は死にたがっていたようだったが」

あっさり切り返されて、ぐっと詰まった。すぐに唇を尖らせて言い返そうとしたが、彼の目が怒ったような、悲しそうな表情を浮かべているのに気づき、言葉を飲み込んだ。

「僕は君を放したくなかった。自分が救われるために。死神にも、他の誰にも、君を渡すつもりはなかった。それだけだ」
「そ・・・そう・・・」

彼の強い想いに応える返事が見つからず口ごもる彼女に、彼が苦々しく口許を歪める。

「もう僕が嫌になったか?幻滅しただろう?僕は弱い。疑いや嫉妬に簡単に捕らえられてしまうし、独占欲や復讐心を抑えられない。魂を分かち合う人が傍に居てくれなければ、生きていけない」

彼の手が、触れていた彼女の手を素早く掴んだ。

「君を逃がさない。たとえ君が、やはり僕を赦せないと思ったとしても」
「私・・・」

きつく握り締められた手より、心臓の方が痛かった。彼は挑むように彼女をねめつけているけれど、その瞳は悲痛なまでの渇望に満ちていた。

「赦さなくてもいい。君をこんな目に遭わせた・・・こんな卑劣なまねをした僕を」

あなたは私に何もひどいことはしていない。彼女はそう言いたかった。けれどおそらく彼はそれを受け入れないだろう。この人は何もかも一人で背負い込んでしまう人だ・・・そのうえ彼の心は、ずっと闇に捕らわれていたために深く傷ついている―どんな慰めも、たとえそれが真実であっても、受け入れられないほどに。でも・・・
彼女は一つ息をついてから静かに言った。

「・・・大切だったから、何を犠牲にしても守りたいって、思ったんだよ・・・」

彼の頑なな表情がわずかに揺らいだ。

「自分さえあきらめれば、幸せにしてあげられるんだって・・・その人を守るためなら、命さえいらないって。苦しめるつもりなんて、なかったの」
 
 

何かを予感させるような静かな興奮が彼の背筋を駆け上がった。
これは・・・?
息を詰めて彼女を見つめる。彼女が大きく息を吸い、透けるような白い肌が浮き上がった。曇りの無い、澄んだ瞳が彼を包む。

「私も間違ってた。本当は、あきらめちゃいけなかったんだね」

暗い霧に閉ざされた胸に温かな空気が流れ込み、力強い灯がともる。この感覚を知っている。ずっと忘れていた・・・だが、かつてはいつも共に在った、この馴染み深い感覚。まるで心が一つに繋がり、お互いの想いが聞こえるような・・・

「私、希望を・・・自分を信じることができなかった。愛も信頼もあまりにもあっけなく打ち砕かれてしまったから・・・でも今わかった。それでも希望は、完全に消えてしまったわけじゃなかったって」

突然霧が晴れ、まばゆい光が一面に広がった。彼は気づいた。打ちひしがれ、絶望に沈む心の片隅で、彼はずっと願っていた―もしかしたら・・・もう一度、と。その光は彼自身さえ気づかなかったほど幽かで弱々しかったが、彼を覆い尽くしてしまった闇にも呑み込まれること無く、辛うじて生き永らえてきたのだ。

「人は間違いを犯すものだよ。時には取り返しのつかない間違いを犯すこともあるかもしれない。でも、勇気さえあれば、それを認めて、償う努力をすることはできる。壊れてしまったものは、元通りにはならなくても、別の形で甦らせることはできる・・・私はそう信じたい」

彼女の長い睫が震え、きらめく雫が目尻からこぼれ落ちた。美しい―だが彼にとっては耐え難い涙。思わず手を上げて濡れた頬を親指で拭った。二人の躰の間の狭い空間に張り詰めた濃密な空気が満ち、空気自体の重みで空間が潰れていくかのように、二人を強烈に引き寄せる。腕一本分の距離を保ち続けるのも辛い。彼女が自由になった手を再び頬の上の彼の手に重ねた。

「私はもう運命の操り人形じゃない。私はあなたと生きる。そのために運命と戦う必要が有るなら、戦うよ」
 
 

涙が止まらなかった。止めようとも思わなかった。ただ不思議だった・・・何年も前、大切な人を守るために心を殺して以来、枯れ果ててしまったと思っていた涙が、止まることなく溢れてくるのが。背後から焼き尽くされるような視線を浴び、地獄が待つと知りながら偽りの誓いを唇にのせた時も、愛する人に捧げるはずだった無垢な薄衣を無残に引き裂かれた時でさえも、涙など一滴もこぼれなかったのに。乾ききった心に落ちた雫は呼び水となり、たちまち奇蹟のように、押さえつけられていた感情の泉を高く噴き上がらせた。

「あなたと一つになりたい・・・私にはあなたが必要なの。あなたに私が必要なように。運命がどんなに私達を引き裂こうとしても、絶対、離れない」
 
 

気がついたときには彼女を躰の下に閉じ込めるように覆い被さり、小さな顔を両手で挟み込んで、顔中にキスの雨を降らせていた。唇だけでは足らず、舌を出して塩辛い肌を夢中で舐める。獣じみた彼の激情にも彼女はたじろぐことなく、自身も舌を出して彼に応えてきた。激しく重ねあっていた唇が離れた時、彼女が乱れた息遣いの合間にかすかに呟いた。

「・・・お願い・・・」

彼はもはや長々と言葉を費やしたりはしなかった。
 
 


 

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