―白鳥の歌―

Vorspiel



 
「ここですか?」

辺境の田舎町のちっぽけな商家の前にたたずみ、あおとあは顔を顰めた。冷たい木枯らしがきっちり整えられた真っ直ぐな髪を吹き乱し、彼は神経質にそれを撫で付けた。

「そうみたいだね」

王子は強い風も気にする様子はなく、戸口の脇に掲げられた優雅な古い木彫りの看板に目を留め、かすかに微笑んだ。長靴をモチーフにしたそれには、こんな辺鄙な場所で目にするとは意外なほどの繊細な透かし彫りが施されている。そして流麗な飾り文字で―この辺りで文字が読める者など、いるとは思えなかったが―小さな店には不相応と思われる大仰な歌い文句が刻まれていた。気の重い用件のために翳っていた気持ちが、少し和らいだ。

(僕が会ったのは2年以上前だけど、覚えていてくれてるかな?)

一度王子を目にした者は決して忘れることなどできないということに、王子自身は気づいていなかった。
 
 
 
 
 

春まだ浅いその日、13歳だった王子とふぁきあ―その頃はローエングリンと呼ばれていた―は、視察に来た国境の砦を抜け出し、それぞれその前の誕生日に贈られたばかりの馬に跨って、近くの町を訪ねた。そこは王子とふぁきあが初めて出会った町で、二人とも口にはしなかったが、ふぁきあの素性について何らかの手掛かりが得られるのではないかという期待があった。そして半日うろつき回った挙句、何の収穫もなく砦に戻る途中、黒い森の奥深くへと続く細い道にふぁきあが気づいた。その先に何かが在るとも思えなかったが、少年らしい好奇心から、二人は馬を向けた。

「じゃあ、やっぱり来年には初陣なのか」

針葉樹が鬱蒼と茂る山道を、苦も無く馬を進ませながら、ふぁきあが尋ねた。

「うん。父上の体調のことを考えると、なるべく早く僕が替わりを務められるようになった方がいいと思うんだ。僕などで務まるかどうかは分からないけど」

ふぁきあは何か異論を唱えたそうな素振りを見せたが、賢明にも口には出さず、その代わりぶっきらぼうに言った。

「俺も同行させてくれるんだろうな?置いて行かれても勝手に付いて行くぞ」

王子は嬉しそうに笑って答えた。

「きっとそう言ってくれると思ったよ。もちろんそのつもりでいる。その時には君を騎士に叙任するからね」

ふぁきあはさっと顔を輝かせたが、すぐに気のない様子を取り繕って顔を背けた。

「そうか」

王子は微笑みを堪え切れなかった。ふぁきあ同様、前方に視線を向け、王子は言葉を続けた。

「14歳で騎士に、っていうのは異例だけど、君なら・・・」

その時急に二人の周りに覆い被さっていた木立が途切れ、わずかに開けた空間の先に、湖と小さな家が現れた。二人は申し合わせたように、ほぼ同時に馬を止めた。王子は、透き通った穏やかな湖面と、湖に寄り添うように立つ質素な家との絵のような調和に感心して言った。

「きれいな場所だね。誰か住んでいるのかな?」

しかし返事は無く、不思議に思った王子が振り返ると、ふぁきあは目を見開き、愕然とした表情で固まっていた。王子は訝しげに美しい眉をひそめた。

「どうしたの?」

ふぁきあの唇が動いた。

「・・・お・・・かあ・・・さん・・・!」

ふぁきあはそのまま何かに取り憑かれたようにずるずると馬から滑り降り、ニ、三歩その家に向かって歩いたかと思うと、突然走り出した。王子は、訳は分からないものの自分も馬を降り、素早く二頭の馬の手綱を手近な木の枝に結わえて、ふぁきあの後を追った。
 
 
 

狭く薄暗い家の中、ふぁきあはこちらに背を向けて、粗末なテーブルの前にたたずんでいた。室内には一応、家具なども揃っており、きちんと整頓されてはいたが、降り積もった埃の量からすると、誰も住んではいないようだった。王子が半開きになっていた扉を軋ませて部屋に入っていくと、ふぁきあが振り向き、信じられないものを見るような表情で声を震わせた。

「・・・おとうさん・・・」
「ローエングリン?」

王子が歩み寄り、ふぁきあの肩に手を置いて覗き込むと、ふぁきあは王子を見つめ返したが、すぐに視線を落とし、しばらくしてほとんど聞き取れないほどの掠れた小声でぽつりと呟いた。

「・・・ふぁきあ、だ・・・」
「えっ?」
「俺の、名前・・・」

王子の背筋をぞくりと震えが走った。では、探していたものに辿り着いたのだろうか?ふぁきあは俯いたまま必死に言葉を搾り出そうとしている。

「そう呼ばれていた・・・『おとうさん』と『おかあさん』に・・・『ふぁきあ』、と・・・」

王子は逸る気持ちを抑え、なだめるようにそっと尋ねた。

「思い出したんだね?ここは知ってる場所?」
「知っている・・・ここは・・・ここは・・・」
「誰だ!?」

突如、雷鳴のような怒声が轟き渡り、二人ははっと戸口を顧みて身構えた。開きっぱなしの扉の傍に大柄な男が仁王立ちになり、二人を睨みつけていた。しかし男はふぁきあの顔を―王子にはそう思われた―見るなり、凍りついた。男の口から微かな呻き声のような呟きが洩れるのを王子は聞いた。

「・・・クリス・・・様・・・」

王子が何か言葉をかけようと口を開く前に、男が目をすがめ、奇妙にしわがれた声で囁いた。

「いや、ふぁきあ、か・・・?」

王子が止める間も無く、ふぁきあが狭い室内を飛ぶように駆け抜けていった。

「俺を知っているのか?!」

ふぁきあは自分よりかなり大きな男の襟元を両手で掴み、噛み付きそうな勢いで叫んだ。

「教えてくれ!俺は・・・俺は誰なんだ?!」
 
 
 
 
 

「王子?」

あおとあの声に王子は我に返り、不安げに自分を見つめている従者達に目を戻した。あおとあが確認する調子で再度尋ねた。

「本当にここをお訪ねになるんですね?」
「ああ、そうだよ」

王子がにっこりと微笑むと、あおとあは同意できないというように細い眉を上げたが、わずかに溜息を洩らして首を振っただけで反対はせず、粗末な扉に歩み寄った。


 

 続き Fortsetzung

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