平地には春の気配が訪れ始めていたが、吹きさらしの細い尾根道に荒ぶ風は未だ冬の冷気を湛えていた。服の裾を強い風になぶられながら、クリスは二人分の荷物を背負い、体調の悪いリンデを抱きかかえるように、南西の国境に近い丘陵地帯を徒歩で移動していた。突然リンデがクリスの手を振り払い、傍の枯草の叢にしゃがみ込む。激しく吐き戻すリンデの背を急いで支え、クリスは厳しい表情で覗き込んだ。

「やっぱり医者に見せよう」

ろくに食べてもいない食事を吐き切ってしまった後も、リンデは肩を震わせて俯いたままだった。苦しげに歪む口元を押さえている、荒れて血色も悪い小さな手を、クリスは自分への怒りを込めて見つめた。

「いいの、大丈夫・・・これは・・・じきに・・・」

弱々しい声で何か言いかけた彼女の細い肩を、クリスは強引に掴んで腕の中に仰向かせ、有無を言わせぬ口調で遮った。

「駄目だ、手持ちの薬草も効かないし、これ以上このままにはしておけない。・・・砦に行けば医者がいる。ここからそう遠くない。今日中には・・・」
「ダメっ!」

リンデは悲鳴を上げ、クリスの腕を掴んで、泣きそうな顔で見上げた。『砦に行く』という言葉の意味するところに衝撃を受け、今にも大切なことを告げようとしていたのに、それすらも吹き飛んでしまった。

「クリス、やめて、お願い・・・」
「君の命には代えられない」

クリスはきっぱりと言い切り、リンデの青白い顔に乱れかかったほつれ髪を掻き上げて、眼差しをやわらげた。

「大丈夫、君は何も責められるようなことはしていない。無事に館に戻してもらえるはずだ。国王だってエリーザベトの手前、いまさら君に執着するようなことはしないだろう。僕さえ捕らえられればそれで・・・」
「それだけは死んでもイヤ!!」

リンデは激しくクリスの服を握り締めて身を寄せ、必死の形相でクリスを見据えた。

「それにクリスと離れちゃったら、国王じゃなくても、誰か他の人と結婚させられるかもしれないよ?!クリスはそれでもいいの?!永遠に離れ離れになっちゃってもいいの?!」

言葉は詰問だったが、表情は哀願だった。クリスの胸元をきつく掴んで縋りつくリンデに揺さぶられながら、クリスは苦しげに俯いた。

「これ以上君が苦しむのを見ていられない・・・僕のせいで、君を病気にさせてしまった・・・」

突如リンデがかあっと頬を染めた。

「違うの、これは、その、クリスのせいじゃ・・・ない、わけじゃないけど・・・そうじゃなくて・・・」

しどろもどろに何かを説明しようとしているリンデを、クリスは眉を寄せてじっと見下ろす。見つめられてリンデはますます赤面する。

「こっ・・・こっ・・・」
「こ?」

顔を覗き込まれて聞き質され、リンデは観念してぎゅっと目を閉じ、消え入りそうな声で告げた。

「こども、なの。たぶん・・・」

不気味な沈黙が流れた。リンデがおそるおそる目を開けてみると、クリスが表情の抜け落ちた顔で凍りついている。そのまま数秒間、無言で見つめ合った。いつのまにか吐き気も忘れていた。

「・・・子供?」

やっとのことで口を開いたクリスの顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいない。リンデはちくりと胸が痛んだ。

「うん、たぶん・・・エルザに子供ができた時も、こんなふうだったから・・・」
「・・・そうか」

俯いて黙り込んでしまったクリスをリンデはじっと見ていたが、やがてその瞳からぽろりと涙がこぼれた。

「ごめん・・・ごめんね、クリス・・・」

ぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、次から次に溢れて止まらなかった。

「バカ、なんで謝るんだ」

クリスは慌ててリンデの頭を胸に抱き寄せた。

「だって、クリス、困ってる・・・嬉しくないんだ・・・」

クリスの広い胸に額を押し付け、リンデはしゃくりあげた。身籠ったかもしれないという考えが初めて浮かんだ時の、舞い上がるような高揚感を思い出す。その膨らんだ気持ちが急速に萎んでいく。確信が無かったのでまだクリスには言っていなかったけれど、きっとクリスも喜んでくれると思っていたのに、こんな反応を示されると、リンデはどうしていいか分からなかった。

クリスはクリスで、突然の告白にうろたえ、茫然自失の状態だった。ずっと体を重ねている以上、当然そういう可能性もあるのは分かっていた。だが、二人の今の状況を考えてそうならないように気をつけていたつもりだったし、この3年間そんな気配も無かったので、彼にとってはまさに青天の霹靂だった。泣き止まないリンデの背を、クリスはおろおろと抱いてさすった。

「そうじゃない、リンデ、ちょっとびっくりしただけで・・・その、嬉しいとか、そういうことの前に、心の準備が必要っていうか、ええと、いろいろ考えなきゃならない事もあるし・・・」

焦って言い訳をする間に顔が火照ってきて、ますます頭が混乱した。なんとかリンデをなだめようとしたのだが、リンデはクリスの言葉を聞いて余計にしょんぼりと肩を落とした。

「そう・・・だよね。私だけでも足手まといなのに、子供までいたら、面倒が増えて困るよね・・・」
「そうじゃない!!」

思わず大声を出してしまったクリスの腕の中で、リンデがびくりと身を竦ませた。

「あ・・・悪い・・・」

クリスは力を緩めて少し体を離し、深呼吸してから、リンデの瞳を覗き込んでゆっくり話し始めた。

「君だって分かってると思うが、子供を産むっていうのは大変な事だ。生まれる前も、生まれてからも・・・今のままの生活じゃ、到底、無事にやり遂げられるとは思えない。君も子供も危険に晒すことになる。僕は君を守りたいんだ」
「じゃあクリスはやっぱり・・・」

リンデは再び涙声になった。しかしクリスは優しく微笑んだ。

「嫌がってるわけじゃない。ただ、少し、考える時間をくれないか?どうすれば一番いいか考えてみる。もし、どうしようもなければ・・・」

リンデが不安そうな顔になっているのに気づき、クリスはその頬を指先で撫でて笑った。

「大丈夫、なんとかする。心配するな」

リンデはおずおずとクリスの顔を窺った。

「いいの?」
「ああ。無事に産まれてくれれば、僕もどんなに嬉しいかしれない。だから君も体を大事にして、君も子供も元気でいられるように協力してくれ」
「うん」

やっとリンデが笑い、クリスはほっと胸をなでおろした。しかし問題はこれからだった。


 

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