まだ日は沈んだばかりで辺りは薄明に包まれていたが、リンデは小屋に落ち着くなり、すぐ横になって寝息をたて始めた。二人は不意に現れたエデルに導かれ、古い炭焼き小屋に辿り着いていた。エデルは以前にも、追手に見つかりそうになった二人を助けてくれたことがあった。無邪気なリンデと違って、クリスはエデルを完全に信用していたわけではなかったが、とりあえず敵ではないと信じるしかなかった。そしてエデルは現れた時と同じように、ほんのちょっと視線を外した間に、掻き消すようにいなくなった。クリスは不審感をさておき、リンデを小屋に運び込んだ。今は彼女を休ませるのが第一だった。クリスは、粗末な造りではあるが一応使えそうな暖炉に火を入れながら、傍らで安らかに眠るリンデを見つめ、考えに沈んでいた。聞こえるのは枯枝がくすぶって立てる微かな音と小屋の扉が風でわずかに揺れる音だけ。そこに突然、近づいてくる馬車の音が混じった。クリスは表情を険しくし、全身に静かな緊張をみなぎらせて、すっと立ち上がった。外でいささか乱暴に茂みを踏み分ける足音がして、粗末な扉ががたがたと鳴り、クリスは机に置いたマントの下に手を滑り込ませ、短刀を掴んだ。扉が勢いよく開かれた。
「ああ、先客がいたのかい。俺も仲間にしてもらっても・・・」
扉を開けて入ってきた大柄な男は、薄暗い部屋の中で暖炉の火を背にして立っていたクリスに向かって話しかけていたが、途中で言葉を切った。
「・・・クリス様?」
「ザッ・・・クス・・・」クリスは呆然と男を見つめた。クリスの良く見知ったその男は、少しの間まじまじとクリスを見ていたが、クリスよりも遥かに早く気を取り直し、頭を振りつつ溜息混じりに言った。
「いやはや・・・またお会いできるとは思いませんでしたぜ。しかもこんなところで」
「ああ、うん・・・」クリスは辛うじて喉に引っ掛かったような声を出して頷いた。ザックスはずかずかと入ってきて、床の上にどさりと荷物を下ろしながら言った。
「あれからずっとこうやって過ごしてらしたんですかい?みんなもずいぶん心配してましたぜ。俺もガラにも無く気になっちまって・・・どうも俺が焚きつけちまったみてぇな気がしましてね」
クリスはやっと我に返り、ザックスの方へ歩み寄りながら小声で答えた。
「あの時はありがとう。礼も言ってなかったな。みんなは元気なのか?」
そう言ってから、ふとクリスは気づいた。
「そういえばおまえは何故ここに?一人で行動してるのか?」
「俺ぁ、兵隊を辞めたんでさ。あんたがいなくなった後、急に郷が恋しくなっちまってね。今はしがない靴屋に逆戻りでさ」ザックスは腰に手を当てて肩を竦め、それからクリスの後方、部屋の奥にある暖炉の脇に横たわる人影に目を留めた。リンデはこちらに背を向けて丸くなっていた。ザックスは顎をしゃくって尋ねた。
「じゃあ、あの人があんたの大切なものってわけですかい?」
「ああ」クリスはちらりと振り返り、表情を緩め、幸せそうに微笑んだ。しかしザックスは眉をひそめて単刀直入に尋ねた。
「こんな早くからお休みとは、どこか具合でも?」
途端にクリスの頬がほんのり染まった。しどろもどろに答える。
「いや、あの、そういうわけじゃなくて・・・多分、こ・・・子供、が・・・」
「ああ。孕ませちまったんですかい」ザックスの明け透けな物言いに、クリスは耳まで赤くなった。
「そ、そんなつもりではなかったんだが・・・」
「そうですかい」さらりと受け流されてクリスは余計にきまり悪くなり、意味も無く言葉を連ねた。
「け、結婚してるわけだし、そういうこともありうると言うか、勿論分かってたんだが、ただ予定外・・・いやその、意図してなかったというだけで、それにずっとそんなことはなかったし、突然だったから、その、少し意外だったっていうか、決して考えなかったわけではなく・・・」
支離滅裂な言い訳にも、ザックスは表情も変えずに頷いて言った。
「気持ちに余裕の無い時にゃ、できにくいってぇ話ですからね。奥方も今の生活に馴染んできたってことじゃあねぇですか?」
「・・・そうなのか?」
「ていう話ですがね」その時ザックスの表情に一瞬翳が落ちたが、クリスは自分のことで頭がいっぱいで、気にする余裕は無かった。思い返せば、確かに去年は夏前から或る山間の農村に落ち着き、収穫期が終わっても移動せずに、ひと冬をずっとそこで過ごした。その安定した生活がリンデの心身に何か影響を及ぼしたのだろうか・・・クリスはまだ少し腑に落ちない表情だったが、ザックスは構わず話を本筋に戻した。
「で?どうするおつもりで?」
淡々と尋ねたザックスの顔を、クリスは不思議そうに見返した。
「どうする、とは?」
「こんな状況で産ませるのは無茶ですぜ。分かってんでしょ?」視線を落として黙り込んだクリスに、ザックスは値踏みするように目を細め、厳しい口調で畳み掛けた。
「他にどうしようもねぇんじゃねぇですかい?たしかに中絶は罪で、教会に禁じられてるが、実際には珍しいことじゃねぇ。下手に産ませようとするよりゃ、その方がよっぽど安全だ」
クリスは目を上げて一瞬きつくザックスを睨んだが、ザックスは怯むこともなくクリスを見返した。クリスは表情を戻して静かに答えた。
「ああ。でも産ませてやりたい。いや、産んで欲しい、っていう方が合ってるかな。ふと思ったんだ。もし僕が捕らえられて・・・」
ザックスが露骨に顔を顰めるのを見てクリスは少し笑った。
「可能性の話だよ。そうならないように努力はする。でも、もしかして、いつか捕らえられて処刑されることになったとしても、その子がいれば、僕が彼女を愛した証は生き続ける。それは僕自身にとってもだが、残される彼女にとって、きっと力になるだろう」
クリスの顔には穏やかな笑みが、瞳には強い光が浮かんでいた。
「僕は彼女を守りたい。どんな状況になっても、彼女が幸せに生きていけるようにしてやりたい。そのためにできる限りのことをする」
ザックスが逞しい腕を組み、難しい顔で唸るのを、なだめるようにクリスは続けた。
「分かってる、これは無謀な賭けだ。産ませるとなれば今までのように移動し続けるわけにはいかないし、そうすれば追手に見つかって、元も子も無くすかもしれない。だが、やってみる前に諦めることもないだろう?最悪でも、彼女を実家に帰せれば、彼女の命だけは守れる。子供も多分・・・彼が守ってくれる」
「彼?」
「僕の親友だよ」クリスの表情が温かさに満ちた。
「親友?」
口をへの字に曲げたザックスに、クリスは口元を綻ばせた。
「彼女の兄だ」
「はあ・・・なるほどね」全て呑み込めたという様子で鼻を鳴らしたザックスを苦笑気味に見遣り、クリスは静かに言った。
「だから僕は賭けてみようと思う。僕の首を差し出す必要があるなら、そうするまでだ」
クリスの背後で暖炉の火がぱちりとはぜ、リンデの背中が小さく震えたのをザックスは見逃さなかった。ザックスは慎重に尋ねた。
「それを聞いたら、奥方はなんておっしゃいますかね?」
「反対する・・・かも知れないな」クリスはちらりと暖炉を見遣り、口の端を歪めて笑った。
「結局これは僕のわがままなんだろう・・・どうやら彼女に関わることには、僕は自制が効かなくなるらしい」
ザックスは溜息をついて首を横に振った。
「かないませんぜ、あんたには」
腕をほどいて机に両手をつき、ぐいと身を乗り出して、いつもの睨むような目つきでクリスを見据えた。
「しょうがねぇ、俺にも責任があるからな、放っとくわけにもいかねぇ」
「えっ・・・?」クリスは当惑げにザックスを見返したが、ザックスはニヤリと笑って言った。
「あんたらの身柄を俺に預けてくれ。今日からあんたらは俺の遠い親戚だ」