その小さな家は、黒い森に囲まれた湖の傍に建っていた。森は深く、そこに至る道を覆い隠すように茂っていたが、家の周囲だけは少し拓けて、簡単な作業が出来るくらいの空間がある。曇り空から弱々しい光が射し込み、質素な家と鏡のように静かな湖面を灰色に照らし出していた。湖は遠目にも清らかに透き通り、近づくと手前の浅瀬に何本かの倒木が横たわっているのが分かった。湖の大きさは城の中庭より少し小さいくらいだろうかと考えて、クリスはふと我に返り、苦笑した。昔の生活を捨ててからもう3年以上経つというのに、まだそういった感覚的なものは残っているらしい。
 
 
 

ザックスの故郷の町の名を聞いた時、クリスは驚き、そして躊躇した。それは、前国王の国境の山荘に最も近い町で、クリス自身も何度か通ったことのある町だった。眉をひそめたクリスの懸念を見透かしたようにザックスは言った。

「前の国王陛下の時代にゃ、よく兵隊が来てたもんだが、代替わりしてからは人通りも少なくなっちまってよ、俺も近在の町や村を商売に廻ってるってわけさ」

ザックスはさらに、二人が暮らせる家も心当たりがあると言った。

「猟師をしてた爺さんの家だったんだがな、2年程前にくたばっちまって、その後は誰も住んでねぇ。爺さんにゃ身寄りがなかったもんで、一番親しかった俺が後始末を引き受けることになっちまったんだが・・・手放すのも忍びねぇが、山ん中じゃ使い途もねぇし、どうしたもんか考えあぐねて、ずっと放ったらかしてたのさ」

クリスはためらいながらも、他に良い考えも浮かばず、とりあえず自分の目で確かめてみることにした。リンデは不安げにクリスを見つめていたが、反対はしなかった。数日後、三人は驢馬がひく小さな荷馬車に揺られ、目的地に到着した。ザックスはなるべく人家の近くを避け、裏道を通って案内してくれたので、町まで実際にどの程度の道のりなのかは分からなかったが、クリスの記憶にある地理に照らしてみて、この近くには確かに集落は無いはずであった。クリスはむしろ、ここに家があったのだということに驚き、当時の自分の認識の甘さを反省した。そしてここが意外に理想的な場所であると認めざるを得なかった。ザックスの助けを期待できるという点を抜きにしても、追っ手の目を欺いて身を隠すのにこれほど適した場所は無いように思えた。
 
 
 

ザックスはその小さな家の小さな戸口の前まで荷馬車を進め、手綱を引いた。

「着きましたぜ」

大きく荷馬車を軋ませて降りたザックスに続いてクリスも素早く地面に降り立ち、後ろに廻って、荷台の縁に手をついて体を起こそうとしているリンデに手を差し伸べた。リンデに自分の肩を掴ませ、彼女の腰をしっかりと掴んでかかえ上げたクリスは、首に手を廻してしがみついた彼女をそのまま横抱きにかかえて、ザックスの方に向き直った。ザックスは珍しくからかいを含まない温かな微笑を二人に向け、開けた扉を片手で押さえて呼びかけた。

「さあ、どうぞ。お二人さんの新居だ」

入口の二段の階段を上って中に入ると、確かに埃だらけではあった。しかし建物や家具はずっと丁寧に使われていたらしく、古びてはいてもほとんど目立った傷みは無かった。クリスはリンデを抱えたまま、二人の後から入ってきたザックスを振り返った。

「いいのか?本当に・・・」
「ダメなら連れて来やしませんぜ」

まだためらっているクリスに、ザックスは腰に手を当てて豪快に笑った。

「あんたの判断はいつも的確だった。あんたがここでいいと思うなら、俺が反対する理由はねぇ」

クリスは硬い表情を崩さなかった。

「だが、お前が以前、僕の部下で、僕を知っていることは、調べればすぐに分かる。僕を匿ったと知れたら、言い逃れができない」
「じゃあまあ、そうならないように気をつけてくんな。そうだ、手始めに名前だな」

ザックスは手を軽く振って簡単にいなし、話題を逸らした。クリスはリンデを床に下ろしながら、怪訝そうにその言葉を反復した。

「名前?」
「本名を名乗ってたわけじゃねぇだろ?」

クリスは合点が行き、頷いて答えた。

「ああそれは、その土地に合わせていろいろ・・・」
「土地にねぇ・・・」

ザックスは腕を組んで少し考え、それからふっと、まるで何かいたずらを思いついたように楽しげな笑みを浮かべた。

「じゃあ、ヴァルターとエーファってのはどうだい?」
「ヴァルター・・・と、エーファ?」

クリスとリンデは顔を見合わせた。

「昔話に出てくる恋人同士でな。数々の困難を乗り越えて二人は結ばれる、って話さ」
「それはちょっとあから・・・」
「すてき!それにしよ?!」

クリスが渋る声に被さるようにリンデが叫んでいた。

「じゃあ、決まりだな」

満足げにザックスが頷く。先程までの心配そうな顔が嘘のように嬉しそうににこにこ笑っているリンデに、クリスは何も言えなかった。
 
 
 

翌日、ザックスが町から産婆のゼンタを連れて来てくれた。ゼンタの見立てでは、今のところ何も問題は無く、年の明けないうちには産まれるだろうということだった。喜びに溢れて抱き合うクリスとリンデ―ヴァルターとエーファを残し、ザックスは立ち去った。ゼンタを荷馬車に乗せて森の中の道をのんびりと進ませながら、話のついでという様子でさりげなくザックスは言った。

「実はあいつら、都に住んでたんだが、そこで食い潰して逃げてきたんだ。まぁ、こんなとこまで借金取りに追いかけて来やしねぇだろうが、あんまりあいつらのこと口外しねぇでやってくれるかい?」
「ああ、いいともさ」

ゼンタは何の疑問も持たなかったようだった。

「金貸しなんて、自分は机の前に座ってるだけで、人が汗水垂らして稼いだ金をみぃんな吸い上げっちまう、ヤな奴らばっかりさ。あたしもこんな仕事してれば、いろいろと事情のある赤んぼをとり上げてきたからねぇ。赤んぼには何の罪もないんだよ。皆おんなじに、幸せになる権利があるのさ」
「ああ、そうだな」

ザックスは頷いて驢馬に鞭を当てた。


 

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