クリスはパルシファルと一緒に玉座の傍に控えていた。即位式での新国王の言葉が自分に向けられていたことは無論承知していたが、気にしてはいなかった。もともと敢えて逆らおうとしているわけでもない。ただ、『忠誠』の定義が違うだけなのだ。それに前国王との約束はある種の『誓い』であったので、前国王が亡くなったからといって、それをたがえる気も無かった。そんなことよりクリスの心を占めていたのは、久しぶりに見たリンデの美しさだった。今年は雪解け以来、ずっと国境と都を往復してばかりで、半年以上リンデには会っていなかった。館にいるときのリンデはいつも飾り気が無く、無邪気で、幼いとさえ思えるほどなのに、今そこにいる彼女は、朝露を帯びて開き始めた花のように、清純でありながら、匂い立つばかりのあでやかさが漂う乙女だった。
彼女の変貌ぶりは、クリスを狼狽させた。パルシファルから彼女が来ることを聞いて心待ちにはしていたが、こんなふうに心騒がせられるとは思ってもみなかった。男達が次々と彼女に近づき―彼女の家柄のせいもあるのだろうが―色目を使うのに無性に腹が立った。さらにはリンデが彼らに対して惜しみなく笑顔を与えるのにも苛ついた。リンデが彼らの気を引こうとしているわけではないことは分かっていたが、リンデが意図していようがいまいが、その無防備な笑顔が男達をその気にさせてしまうのは明白だった。できることなら、今すぐ彼女を男達の目から覆い隠してしまいたかった。エルザがリンデのシャペロンとして彼女の傍にいてくれなければ、クリスは義務も礼儀も放り出してリンデに駆け寄り、醜態を晒していたに違いなかった。エルザはか弱そうに見えても意思の強い、しっかりした女性で、クリスは彼女を信頼していた。リンデやパルシファルには必要不可欠な人だと思われた。
ずっと険しい顔で玉座の傍に張り付いているクリスを鬱陶しいと思ったのか、王がふいにエリーザベトの隣にいた彼女の妹に声をかけた。
「マルガレーテ。次はクリスチャンと踊ってやってくれないか」
パルシファルが何か言いかけたが、何も言葉を紡がないまま口を閉じた。
「喜んで」
マルガレーテはそつなく答えて会釈した。彼女は、姉のような妖艶さはないが、整ったきれいな顔立ちの黒髪の娘だった。クリスは直ちにマルガレーテの前に進み出た。
「光栄に存じます」
慇懃に一礼すると、彼女の手を取り、1曲だけ踊った。クリスは彼女をおろそかに扱うようなことはしなかったが、しかし、ほとんど彼女を見てはいなかった。頭の中は、リンデが今、誰といて、何をしているのか、それでいっぱいだった。再び玉座の傍に戻っても、意識はリンデに釘付けだった。こんなふうに何かを独占したいという気持ちなど、何に対してもこれまで感じたことは無く、じりじりと焼け付くような苦しさにクリスは顔を顰め、落ち着かない溜息を洩らした。
「少しくらい離れてもいいと思うよ?皆そうしてるし」
ふいにパルシファルに話しかけられ、クリスは急に現実に引き戻されたような表情でそちらを見、そしてすぐに顔を逸らした。
「いや・・・今はいい」
焦る必要はない―とクリスは自分に言い聞かせた―だが、もう、待つ理由もない。今度彼女の館に行ったら・・・いや、なるべく早く館を訪ねて、結婚を申し込もう。そう固く心に決めた。
舞踏会が終わりに近づき、パルシファルがエルザを誘いに来た。パルシファルは体の強くないエルザを気遣い、いつもあまり踊らせないようにしていたのだった。
「大丈夫かい?具合が悪いようなら、無理しなくていいよ」
「ええ、大丈夫。病気ではありませんから」エルザはパルシファルにふんわりと優しく微笑み、差し出された手を取った。踊りの列に加わる二人をリンデがにこにこと見ていると、ふいに横から声がした。
「踊るか?」
「えっ、いいの?」本当はパルシファルと一緒にクリスが近づいてきた時、自分を誘ってくれないだろうかという期待が再び頭をもたげていた。しかしクリスは兄達の遣り取りをただ黙って見ているだけだったので、その気はないものと思い込んでいたのだった。
「もう踊り疲れたっていうなら・・・」
「ううん、平気!踊りたい!!」リンデは慌てて答え、クリスは笑って手を差し出した。
「似合ってる」
踊りながら唐突に言われ、リンデは小首をかしげた。
「えっ?何?」
「新しいドレス」リンデはこの日のためにあつらえた山吹色のドレスに身を包んでいた。
「ほんと?」
クリスがお世辞など言わないのは分かっていたが、リンデは少し気恥ずかしくて、そう尋ね返してしまった。しかしクリスは答える必要がないのを分かっていたようで、その代わりに独り言のように呟いた。
「・・・丘の花の色だな・・・」
春になるとリンデの家の周りの丘は、星を散らしたように小さい野の花の山吹色で染め上げられる。リンデはその景色が大好きだった。そしてクリスはたぶん、そのことにも気づいてくれている・・・些細なことだったが、リンデは堪らなく嬉しかった。リンデはとびきりの笑顔で―つくりものではない、心からの笑顔で、クリスに笑いかけた。
「ありがとう」
クリスは黙って微笑み返した。幸せな気持ちで満たされ、目の前の人以外は何も目に入らなかった。クリスと踊るリンデは、ほんのりと頬を上気させ、いつもよりずっと美しく、輝いて見えた―きらきらと部屋中を照らし出す燭台の灯りをも凌駕するほどに。二人は恋ゆえに大きなミスを犯したのだが、やはり恋ゆえに、それに気づいてはいなかった。
その宴から一週間と経たないうちに、新国王からリンデの両親に申し入れがあった。パルシファルがそれを知ったのは、数日後、全てが決まってからだった。そしてクリスがそれを知らされたのは更に一週間ほど後―例によって急に国境に呼び戻されたクリスがやっと都に帰ってみると、親友は自分を避けるようになっており、当惑していた彼にヴォルフラムが―彼としては厚意から―教えたのだった。