Tiefblau als früher Tagesanbruch 1



 

私のバカ!

不意に後ろから鞄を引っ張られ、悲鳴を上げてよろけながら悔やんだが、いささか遅きに失した。

今までこんな油断をしたことなんてなかったのに。ここが不慣れな街で―不慣れな外国だ、ってことも、言い訳にはならない。まだ明るいとはいえ、こんな裏通りをふらふら歩いてたら狙われるのは当たり前。いくら理由の分からない焦燥に駆られて、頭がいっぱいだったからって・・・

鞄をひったくろうとした若い男が、舌打ちしてナイフを閃かせ―彼女に切りつけようとしてのことではなく、鞄の肩紐を切ろうとしているのだとは分かっていたが―反射的に再び悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。と、次の瞬間、ふっ、と張力が消え、汚い石畳の路地に思い切り尻餅をついた。

「痛・・・」

と上げかけた声に被さるように、何かが激しくぶつかる音がして、その後にガラガラと凄まじい崩壊音が続く。さらに―何を言っているかはさっぱり分からないけれど―荒々しく応酬する男同士の怒声。彼女はぎゅっと目をつぶって身をすくめたままそれらの一連の騒動を聞き、急に静かになったところで、恐る恐る目を開けた。

・・・熊。

それが第一印象だった。金色の光を帯びて乱れた褐色の髪。目の粗い生成りのワークシャツの広々とした背中と、くたびれたカーキのズボンに包まれたがっしりした腰つき。腰に当てたごつい手の甲から、捲り上げた袖口まで、けぶるような濃い金色の毛で覆われた、頑丈そうな腕。逞しい肩を怒らせ、堂々たる体躯を誇示してそびえ立つ後姿は、敵を威嚇する熊そのものだった。決して抜群に容姿が良いというわけではなく、どちらかというと重心が低くどっしりした体つきなのに、不思議と目を惹かれる。その、仁王立ちに踏ん張った丸太のような脚の向こうで、先ほどの男が地べたに沈んでいた。そうして彼女の鞄は―どこでもなく、彼女の手元にあった。

つまり、この人が・・・助けてくれた?

起き上がろうと身じろぎ、下半身が分解するような痛みに息を呑んだ。熊・・・ではなく、その見知らぬ大男が、意外な素早さで振り返る。

「大丈夫か?」

低く太い音の波が、どん、と身体に響き、衝撃が走った。そして―なぜか―思いもよらなかったほどの安堵感が全身に広がった。ただ、助かった、というのとは違う、もっと根源的で、温かく、包み込まれるような・・・

「あ・・・ありがとう」

たどたどしくお礼を述べた途端、奇妙なことが起こった。彼女を覗き込むように身を屈めかけていた男が、びくっと巨大な体を震わせ、顔に狼狽と言える表情を浮かべて立ちすくんだ。

な、何?私、何か変なこと言った?

予想外の反応にいぶかしみながらもさらに言葉を継ごうとした時、壁のような男の背の後ろで例のひったくりが息を吹き返し、あっと言う間もなく、跳ね起きて逃げ出した。気配を察した熊男―じゃなくて、ごつい守護天使か騎士と言うべき?―が、振り向きざまにその後を追いかける。とっさに手を伸ばして彼を引き止めようとして、脚に鋭い痛みが走り、ううっと呻き声を上げてへたり込んだ。走り出していた彼が急停止し、彼女と、逃げていく男を一度だけ見比べた後、小走りに戻ってきた。

「どうし・・・怪我してるじゃねぇか!」
「え?」

男の視線を辿り、ふくらはぎの横の擦り傷に気がついた。5cmくらいに渡って赤く血が滲んでいて、ちょっと目立つけれど、怪我というほどのものじゃない。

「大丈・・・」

最後まで言うことはできなかった。いきなり抱き上げられて、息が止まってしまったので。肘まで袖を捲り上げた毛むくじゃらの腕に、硬直した彼女を抱えたまま、男は何も言わずに、大またにずんずん進んでいく。しばらくしてやっと口がきける程度に気を取り直した途端、また唐突に男が立ち止まった。反射的に首を廻らせて見ると、目の前に赤っぽいレンガ造りの壁と、かなりペンキの剥げた薄緑色の、飾り気の無いドアがあった。

「あの・・・」

そこで再び言葉を失った。のみならず、何を言おうとしていたのかすら忘れた。なぜなら彼が―扉を開けるために―彼女を腕一本でしっかりと抱え直したから。・・・その結果、太くて頑丈な腕が、短いタイトスカートを穿いたお尻に巻きつき、男のがっちりした腰に乗るような形で、分厚い胸板の上にもたれかかってしまったから。完全に不意を衝かれたせいで手をついて体を支えるタイミングを逸してしまい、重力のままに、金褐色の毛が渦巻く、はだけた胸元に寄り添う。鼻先が、いかつい顎から喉まで覆う無精髭をかすめて、どっしりと太い首筋にくっつきそうなほど接近し、男っぽい匂いが鼻腔から脳髄を満たした。

頭が真っ白になって、操り人形のように―あるいは尻軽女のように―逞しい体にしなだれかかっている間に、男は裏口らしいそのドアを入り、薄暗い通路をどんどん奥へと進んでいく。不安になって然るべきだったが、そんな気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。なぜかは分からないけれど・・・彼の力強い腕の中にいると、とてもしっくりと、心地良く馴染む気がした。自分が、これまでになく、正しい場所にいると感じた・・・どこよりも信頼できる、よく知った、自分の『居場所』に・・・ずっと待ち続け、こいねがい続けていた、約束の場所に・・・

「おかみさん!怪我人がいるんだ!手当てしてやってくれねぇか?」

ずっしりと響く声を体に『感じ』、急に夢想から覚めた。

「また喧嘩かい?まったくしょうがないね。ちょっと外に遣いに行かせたらこれなんだから・・・薬の場所は知ってるだろう、自分でやっとくれ」

どこからか返ってきたきびきびした女性の声に、悪戯を見つかった子供のようにきまり悪げに頬を染め、男は、彼女と目を合わせるのを避けるかのように、顔をまっすぐ前方に向けたままで言った。

「違う。人助けだ。裏の道で、ひったくりに遭ってた人を助けた」
「何だって・・・おや」

自分たちがこの部屋に入ってきたのとは別の入り口から、人の良さそうな中年の女性が顔を覗かせ、彼女を見て目を丸くした後、安心させるようににっこり微笑んだ。

「大丈夫かい?災難だったね。怪我しちまったんだって?」
「たいしたことありません。ちょっと擦りむいただけで」

抱き上げられたまま、膝を伸ばして、傷のできた方の脚を少し持ち上げて見せた。

「何も盗られなかったし・・・この人のおかげで」

女性はうなずき、それからちょっと詫びるような表情になった。

「悪いんだけどね、今、店の方から手が離せないんだよ。ザックスに手当てしてもらってくれるかい?」
「おかみさん!」

彼―『ザックス』という名前らしい―がなぜかうろたえて叫ぶのを聞きながら、彼女は『おかみさん』に礼儀正しく微笑み返した。

「はい、ありがとうございます。御面倒をおかけしてすみません」
「困った時はお互いさまだからね、気にしないで」


 

 続き Fortsetzung

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