Tiefblau als früher Tagesanbruch 2



 

『おかみさん』は手を振って戸口の向こうにさっさと引っ込んだ。おそらく向こうに『店』があるのだろう。男はほんの数秒の間立ち尽くしていたが、唐突に向きを変えると、部屋のほとんど半分を占めている長テーブルに歩み寄り、足で椅子を引き出した。彼女を下ろす時、彼の目線が一瞬、彼女の腰まである青いキモノ・スリーブのニットのカシュクールの胸元に落ちた気がしたが、次の瞬間には妙なくすぐったさは吹き飛んだ。

「痛っ・・・!」

どうやら先程から痛みを生じているのは擦り傷の方ではなく、打ち身らしい。豊かな筋肉に覆われた腕から安っぽいビニール張りの椅子に移されたとたん、太腿からお尻にかけてが軋むように痛んだ。たぶん・・・きっと、アザになっているかも。

「大丈夫です」

男が眉をひそめて彼女の様子を見ているのに気づき、唇の端を持ち上げて笑みをつくった。彼は疑わしげな表情をしたものの、きびすを返し、テーブルの脇を廻って部屋の奥に向かった。民族調の可愛らしい絵の描かれた木製の戸棚―現代風の他の家具とはやや不釣合いに見える―の前にしゃがみこんで下の扉を開け、中を探っている。テーブル越しに、深みのある褐色の頭が揺れる。ウェーブのかかったやや長めの髪は、さっきの乱闘騒ぎのせいか少し乱れて、白っぽい無味乾燥な蛍光灯の明かりの下、光の加減によって金色の輝きを帯びた。奇妙に心をくすぐられる豊かな髪から目を引き剥がし、ぐるりと部屋を見渡した。

そんなに広くはなく、飾り気も無い。剥き出しの白い壁は殺風景と言ってもいいくらいだけど、無造作に貼ってある幾つかのポスター―きれいな風景とか、きれいな女性とか―と、テーブルの上に放置された雑誌とカップ、それに散らばったお菓子のかけらが、生活感を醸している。部屋の隅には幅1mも無い後付けのミニキッチンと、ごくシンプルなコーヒーメーカー。彼の頭の上、戸棚の上段には、木枠にはまったガラス越しに、幾つかの不揃いな食器、お茶やプレッツェルの袋などがしまわれているのが見えた。たぶん、『店』の従業員の休憩室なんだろう。

「何のお店なんですか?」

彼はびくっと肩越しに彼女を振り返ってから、すぐ目を戻して、30cm四方の木箱を引っ張り出した。

「靴・・・だ」
「ああ。そうなんですか」

のそりと彼が立ち上がる。やっぱり大きい。さっきのように肩を怒らせてなくても、背丈も厚みも普通の人より一回りは大きくて、圧倒される。腕にも脚にもたっぷりと筋肉が張って、胴回りもどっしりと頼もしくて、私が思い切り抱きついてもびくともしなさそうで・・・

だ、『抱きつく』?

突如として蘇った常識が頬を火照らせた。よく知りもしない人にそんなことを考えるなんて、不躾極まりない―というより不自然だ。ただ問題なのはそれが―彼に抱きつくという考えが―不自然だとは、ちっとも思えないことだった。今日初めて会った人なのは間違いないのに、彼の何もかもが、むしろ懐かしさにも似た気持ちを呼び覚ます。体の奥深くから温かな想いが湧き上がり、しっかりと抱きしめたい、抱きしめられたい、そうするのが自然だという気さえしてしまう・・・なぜ?

堂々とした体がテーブル脇の狭いスペースを機敏に回って彼女の傍に戻り、木箱をテーブルに置いて蓋を開けるのを、じっと目で追った。

「私、靴屋さん、好きなんです」

箱を探って消毒液とコットンを取り出していた彼が、さっと体を硬くしたのが分かった。

「色んな靴を見るのが楽しくって」

彼はうつむき加減のまま、ちらっと彼女の足元に目を走らせる。

「ウチはカスタムメード専門だから。あんたが行くような店とは違うと思う」

今日履いている編み上げのショートブーツ―黒い革製で、しかもハイヒール―は、こちらに来る直前に、郷里の街―ファッションの中心地と呼ばれている―の、お気に入りのメゾンで買ったものだ。彼女の負けん気が頭をもたげ、挑むように笑みを浮かべた。

「すてき。私、いつも『自分だけの靴』が欲しいって思ってたんです」
「ちょっと沁みるぞ」
「えっ?あ、痛っ!」

身構える暇も無く薬を押しつけられ、思わず怯んで身を竦めたが、彼は全く躊躇うことなくてきぱきと大きな手を動かしている。太い指でつまんだコットンを何度か換えながら傷をきれいにし、ガーゼで覆ってテープで止めようとして・・・一瞬動きが止まった。けれども彼女が疑問を差し挟む間もなく、その手は彼女の脚を掴み、なすべきことをなした。お世辞にも見栄えがいいとは言えなかったが、必要な手当ては施されている。意外にと言うべきか、本当にこういうことには慣れているらしい。もっとも、膝から上には決して目をやろうとしないところを見ると、ぴっちりした黒い皮のミニスカートをはいた脚には、そんなに慣れてるわけではないみたいだけど。

「どうもありがとうございました」

ほっと息をつき、体の緊張を解くと、彼の瞳が―柔らかな褐色に見えるけれど、よく見ると虹彩のふちから中心に向かって無数の金色の筋が入っている―再び彼女の顔に向いた。

「どういたしまして」

けれど、やっと間近で見つめ合ったと思った途端、彼は、ふい、とそっぽを向いてしまった。

「助けてもらいましたし、何かお礼を・・・」
「必要ない」
「でも・・・」
「たいしたことはしてない」

有無を言わせぬ調子で会話を断ち切り、箱から出したものを適当にどさどさと詰め込んでいく。口をつぐんでじいっと見つめていると、彼がふっと息を吐いて、肩の力を抜いた。

「その・・・もし良かったらだが・・・俺に、おまえの靴を作らせてもらえないか?」
「え?」

困惑し、眉をひそめて聞き返す。

「つまり、私が、あなたに、お礼をするのに?」
「俺はまだ修行中だから。作らせてもらえれば、勉強になる。金は要らない」
「そんなこと!」

思わず勢いよく立ち上がってしまい、呻き声を上げてよろめいたが、素早く差し出された手に肩を支えられた。

「おい、無茶する・・・」
「ちゃんと御代はお支払いします」

いかつい顎がぴくりと強張り、わずかに見開かれた金褐色の瞳が、彼女の顔の斜め下で釘付けになる―頼りない肩をしっかりと掴む肉厚な手、それをぎゅっと押さえた細い手に。ごつごつと硬く、それでいて温かい皮膚を掌に感じ、彼の肌にじかに触れていることが急に強く意識されて、息が苦しくなった。沈黙が熱を帯び、頭がぐらぐらし始める・・・けれどその力強い温もりに指を絡めて溶け合おうとした瞬間、それは、彼女の手と肩の間からすっと引き抜かれた。しんと静まり返った部屋に、ぼそりと低い声が響く。

「じゃあ、材料費だけ・・・」

頭を振って、掻き消えてしまった夢の名残を振り払い、口を開く。

「それじゃお礼になりません」
「とにかく、出来を見てからにしてくれ」

この話はこれで終わりだ、という口調で彼は言い切り、背中を向けた。彼女は、譲るつもりは毛頭無かったものの、その場はおとなしく引き下がり、黙って後姿を見守った。木箱を元通り戸棚にしまった彼が振り向き、彼女を見ているのかいないのかよく分からない角度に顔を傾けたまま、ぼそりと言った。

「送っていくから、ちょっと待っててくれ」
「え?私は大丈・・・」
「送っていく」

そのまますたすたと彼女の前を通り過ぎ、先ほど『おかみさん』が消えた奥の部屋の方へ行ってしまう。反論する隙も無く、かといってちゃんと挨拶もせずに帰ってしまうわけにもいかず、仕方なく再びそろそろと安っぽいビニール椅子に座り直して、思案した。

ほんの30分で、世界が何もかも変わってしまったような気がする。
どうしてだろう?
これからどうすればいいんだろう?

・・・ところで、『ちょっと』ってどのくらい?


 

 続き Fortsetzung

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