Tiefblau als früher Tagesanbruch 3



 

「警察?」

ぎょっとして思わず隣を見上げた。

「届けを出しておいた方がいい」
「でも、何も盗られませんでしたから・・・あなたのおかげで」
「怪我させられたじゃないか」

怪我をしたのは、あのひったくり犯―正確には未遂犯―のせいじゃない。自分で転んだんだから。

「でも・・・」
「何か不都合でもあるのか?」

不都合。もしこんなことが両親の耳に入ったら、それ見たことかと連れ戻されるに決まっている。とんでもなく過保護な親で、まるで娘が突然消えるんじゃないかとでも思っているらしいのだから。二人を説き伏せてここに来るためにハンストさえした。何かあったらすぐ誰かに助けを呼べるように、いつも呼子笛を持つ約束までして―結局役に立たなかったけど―やっと納得させたのに。できうるならこのことはなるべく穏便に―何も無かったことにしたい。

「そんなことはないですけど、でも、警察に言うほどのことじゃないと・・・」

それも嘘ではない。実際に何も被害が無かったのに、警察に言ったところで鼻先であしらわれるだけ―少なくとも彼女の知る一般常識ではそのはずだった。少し間があって、短い答えが返ってきた。

「そうか」

途端になんだか申し訳ない気持ちになった。せっかく気にかけてくれてるのに・・・

「で、家はどこだ?」

借りているアパートの住所を告げると、彼はかすかに太い眉を上げたが、何も言わずに爪先の向きを変えた。急いで後を追いながら、胸がちくちくと疼く。

これじゃただのわがままな厄介者じゃない。

「あの、御迷惑をおかけした上にいろいろとお気遣いいただいて、御厚意にはたいへん感謝しますし、助けてくださったことにはお礼の言いようも・・・」
「そんなことはどうでもいい。ただ、二度とあそこは通るな」
「えっ?」

彼女の困惑に気づいたらしく、野太い声が柔らかくなった。

「表通りの方・・・今出てきた、こっちの道の方から、店に来てくれ。こっちは繁華街で、人通りも多いが、一本裏に入ると途端にガラが悪くなる。昼間でもあっちを通るのはあんまり勧めねぇな」

でも、あなたは歩いてたんじゃ・・・という反論はかろうじて飲み込んだが、彼は彼女の心が読めるのかもしれない。

「少なくともあんたみたいなお嬢さんが通るところじゃねぇ。そもそもなんであんな所を歩いてた?まさか、連れ込まれたのか?」

いきなり口調が変わって声音が厳しくなり、荒っぽいところのある顔が怒ったようにひきつったので、彼女は慌てて首を振った。

「いえ、ちょっと・・・道に迷ってしまって」

みずから迷い込んだ、と言うべきなのかもしれないけど。

本当は、『何か』を探して―彼女を急き立て、この地に導いた渇望の正体を求めて―さまよっていたのだけど、それを説明することはできそうになかった。なぜなら、それが何なのか、どうして探さなければならないのか、彼女にもよく分からなかったから。しかし彼は、彼女のあいまいな言い訳で納得したようだった。

「ああ、やっぱりな」
「やっぱり?」
「いや・・・この辺りの人間じゃねぇだろうって思ってたから。言葉からしても」

当然の評価とはいえ、がっくりきた。流暢と言うには程遠いことは自覚してるけど、ずいぶん頑張ってこの国の言葉を勉強したつもりだったのに。

「この辺の訛りがねぇし、それに・・・」

さらに何か言いかけたようだったので、耳を澄ませて待ったが、続きは出てこなかった。聞いてみようかどうしようかと迷っているうちに、再び質問が降ってきた。

「家族で越してきたのか?」
「え?いえ、一人で・・・」
「一人?」
「はい。こちらには留学してきたばかりで」
「留学生?」
「はい」
「・・・なるほどな」

どこか奇妙な会話だった。彼が何を考えながら―あるいは彼女の理解していない何を理解しながら話を聞いているのかよく分からないまま、彼女は、初対面の彼に、故郷のこと、家族のことをあれこれ話していた。

「・・・いえ、兄弟はいないんです。母方の祖父母は郊外に住んでて、時々遊びに・・・」
「一人娘?それでよく親が外国に出してくれたな」

ぐっと言葉に詰まると、彼が合点したというように短く笑った。胸腔に低く響く、やや掠れた笑い声。どきっ、と心臓が跳ねる。それに、笑うとちょっと・・・可愛いかも。

「反対を押し切って出てきた、ってわけだ。強情なんだな」
「強情?」
「すまん、言い方が悪かった。意志が強いんだ。・・・そうだと思った」

また奇妙な反応。けれど、それを追求するのは止めることにした。

「あなたは?御家族は?」
「俺?おふくろに、妹が二人と、弟が一人。妹の一人は他の男に盗られちまったけどな。悔しいことに、そいつがまたいい男なんだ」

言葉の割には、ちっとも悔しそうには見えない。家族のことを話す声は温かく、表情は柔らかで、その深い愛情にこちらまで温かな気持ちになった。

「弟以外はみんな、故郷の町に住んでる。こっから南西に100kmばかりの小さな町だ。アウトバーンを使えば1時間ちょっとだな。何にもねぇとこだが、のんびりした、いいとこだぜ」
「暮らしやすそうな所みたいですね」
「ああ。静かな田園に囲まれてて、ちょっと行くと気持ちのいい森も在ってな。そうだ、森の中に中世の古い砦の跡が在って・・・」

ずっと見上げていると首が痛くなるので、彼女はほとんど進行方向を向いて会話をしていたが、隣から発せられる圧倒的な存在感を、常に意識せずにはいられなかった。それはすれ違う他の人々も同じらしく、二人が―というか彼が―通ると、吸い寄せられるように人々の視線が集まってきたし、なぜか自然と道さえ開けた。二人の体は全く触れ合っていないのに、まるでしっかりと肩を抱かれ、守られているような心地がして、胸がときめく・・・

「痛むか?」
「えっ?」

どきっとして顔を上げると、とろけるような深い金褐色の―ラヴェンダーの蜂蜜みたいな―瞳が気遣わしそうに見下ろしていた。

「脚が痛んできたんだろ。悪かった、歩くのが早すぎたな」

・・・いえ、そうじゃなくて、取り留めも無い空想に耽ってたせいで、口と脚がおろそかになっていただけ・・・

「い、いえ。大丈夫」

彼女に合わせて彼も足を緩めていたことに気づき、慌てて早足に歩き出すと、彼が一歩で横に並んだ。

「無理するな。少し休むか?もうすぐ着くが」
「いえ、あの・・・」

うしろめたさにどぎまぎして口ごもると、彼はいぶかしげな視線を彼女に留めたまま、すっと首をかしげて頭上に突き出ている看板をよけて歩き続けた。

「背・・・背が高いんですね」
「は?・・・ああ、まあ」

彼も面食らっただろうが、自分でも何を口走っているのかと困惑した。どうやら彼女の口は、夢見がちな頭を通さず、勝手に言葉を紡ぐことにしたらしい。

「2mくらい?」
「いや、そんなにはない」
「でもすごく大きく見えますけど」

喉の奥で低く笑うくぐもった音が聞こえた。

「よく言われる。熊みたいだと」
「え、ええと、それは・・・」

確かにそう思ったけど。

「あの、大きくて強そう、っていう意味だと思います」

本当に強いし。

「野生的で、逞しくて、でも親しみがあって、頼りがいがあって・・・」

え?ちょ、ちょっと、私ったら・・・

「熊のことか俺のことか分からねぇが、とにかくありがとう」

彼がさっと手を振り、彼女の口がそれ以上きわどい暴走をするのを封じてくれた。横目でちらと見上げたけれど、高い頬骨の辺りがもしかしたらちょっと赤みがかっているような気がしないでもない―でももしかしたらただの日焼けかもしれない―という以外は、特に彼女の言葉に心を動かされた様子は無い。気づかれないように密かに溜息をつく。

本当に、いったいどうしちゃったの? ていうか、どうしてこんなに、この人に引き寄せられるんだろう?他のことが入る隙が無いくらい、彼のことばかり考えてしまう。会ったばかりの人なのに・・・ 彼がまるでお話の王子様みたいに颯爽と現れて―たとえ見かけは怒れる熊みたいだったとしても―窮地から救ってくれたから? でもじゃあどうして、ぶっきらぼうで強引なところや、感情表現の不器用そうなところにまで興味を惹かれるの? さっきちょっと見せてくれたあの笑顔をもう一度―できれば何度でも―見たいと思うのはなぜ? ずっと失くしていた心のかけらを―大切なかけらを―見つけたような、この不思議な気持ちは何?


 

 続き Fortsetzung

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