Invisible pour le yeux 1



 

雨上がりの大学構内は、レンガがしっとりと落ち着いた色に湿り、濃い緑の木々の間に早くもちらほらと混じり始めた朱や金色の彩りがくっきりと映えて、目にしみるほど美しかった。空は久しぶりにすっきりと晴れ渡り、高みを流れる雲は、湖面を滑る白鳥のように気高く輝いて、彼女の意気地の無さを責めているようだった。

・・・行かなきゃ・・・

一晩泣き明かした後、勇気を出して正しい行いをしようと―もう一度彼に会い、靴を受け取って、お礼を言って、ちゃんとお別れをしようと―努力してはみた。けれど店に行こうとするたび、足がすくんで動けなくなった。そうして彼女の心を映したような空を言い訳に、ぐずぐずと『おしまい』にするのを引き延ばしてきた。でも、雨は上がった。

待ってる・・・よね、たぶん、きっと・・・

のろのろと図書館前の長い石段を下りながら、また、ふっ、と溜息をつく。ほとんど毎日通いつめていたのに3日も顔を出さなかったから、きっと不審がられているだろう。せっかく出来上がった靴を受け取らないつもりかと思われているかもしれない。しかもあの靴は『助けてもらったお礼』として作ってもらったものなのに。私は臆病者かもしれないけど、恩知らずにはなりたくない。たとえ、あれを見るたびに泣くことになるとしても・・・

私は・・・行かなきゃ。

どんなに辛くても、何も無いよりはいいかもしれない。あれだけが、この手に残される、唯一のもの。あのどっしりとした手の温もりを感じることができる、たった一つの絆・・・彼が靴屋としての誇りを籠め、誠実に、一生懸命に作ってくれた、私だけの靴・・・

そう、それに、せっかく作った靴を受け取ってもらえないなんて、靴職人にとっては侮辱以外の何物でもないだろう。彼にそんな思いをさせるつもりは絶対にない。最後に、もう一度だけ、勇気を。自分のためではなく、彼のために。

あと一度、だけ・・・

ぎゅっと絞られたような咽喉の隙間から、細い溜息が漏れる。胸に尖った何かがつかえていて、苦しい。やっとかすかに点った勇気の火も、すぐに窒息して消えてしまいそう。これまで自分の内の勇気に、疑いを持ったことなど無かったのに。

こんなはずじゃ、なかったのに・・・

彼と出逢う前、胸の中の炎は、小さくとも確信に満ちて燃えていた。そして彼と出逢って、炎が力を得て、体中に光が満ち溢れるのを感じた。けれども彼とのつながりが幻想だったと知った時、心が真っ二つに引き裂かれると同時に、光は闇に呑まれてしまった。

この人に間違いない、って、思ったのに・・・

せっかく止まった涙が不意にまた込み上げ、慌てて目をしばたたいた。うつむいて歩きながら息を止め、子供のように泣き叫びたくなる気持ちをぎゅっと押し込める―さまざまな想いで、既に破裂しそうになっている胸に。

・・・最初からあの人には私なんて必要なかったんだ・・・勝手に好きになって、勝手に思い込んで・・・

なんとか胸のつかえを飲み下そうと、再び苦しい溜息をつく。無理な呼吸を続けてたせいで、肺が擦り切れてしまいそう。ずっと胸が痛くてたまらないのも、実はそのせいなのかも。たぶん、今すぐ止めるべきなんだろう。考えても仕方のないことを考え続けるのも、終わってしまった夢を想い続けるのも。

分かってる、でも・・・!

自分でも、ずっとこのままにしておくつもりはない。ただ、できればちゃんと心の整理ができて、あきらめがつくまでは会いたくなかった・・・あきらめがつくとは到底思えないけれど。かと言って、今会ったらきっと取り乱して、縋りついてしまう・・・

でも、どうして、そうしちゃいけないの?

濡れた枯葉が、足の下で、ガサ、と重い音を立てる。胸に刺さっている尖ったかけらが何なのか、本当は分かっていた。

・・・どんな人なんだろう・・・?

誰かを羨んだり、自分以外のものになりたいと思ったことなど、一度もなかった・・・これまでは。でも今は、どうしても考えずにはいられない・・・彼に愛されている、幸せな女性のことを。そしてそのたびに、暗い波に呑み込まれるように、息が苦しくなる。羨ましくて、妬ましくて、いっそ己の息が止まってしまえば楽になれるのにと思った。彼を奪い取りたいという浅ましい思いが、たった一つの命綱の幻影のように、打ち消しても打ち消しても目の前で嘲るように揺れて、今さらながらに知らされた己の醜さも苦しかった。

・・・どうして・・・

『彼』だと思った。その声も、姿も、ふとした瞬間に見せてくれる優しさも、何もかも胸が痛くなるほど愛しかった。不思議な、けれどかけがえもなく、強く、太い絆と温もりを感じた。私のことを誰よりも、魂の底から愛してくれると、二人は結ばれる運命なんだと・・・

あんなにしっくりと馴染む心地がしたのに。私はあの人のものなのに・・・!

永遠の誓いを交わす場面を何度も夢に見た。古めかしい小さな教会の祭壇の前で、使い込まれた赤い膝敷に二人並んでひざまずき、厳かに誓いの言葉を―なぜかラテン語で―述べる。彼の太い声は石造りの建物に朗々と響き、世界に、二人の不滅の繋がりを宣言しているように聞こえた。それから彼は私を家に連れて行き、私の全てを手に入れ、そして彼の全てを私に与える・・・

それがただの妄想に過ぎなかったことは、今はもう、よく分かっている。けれど、実を言えば、彼が肉体的には彼女に惹かれていたらしいことは気づいていた。女を欲しがっている男の目つきは分かる・・・これまでもしょっちゅう、他の男たちにそういう目つきで見られてきたから。他の男たちと違うのは、彼の表情が真剣すぎることと、たまに殺気のようなものを発する―たぶん、彼女に向けてではないと思う―ということだけ。彼女が見ていない―と彼が思っている―時に、彼女の首筋や、胸や、ヒップラインに向けられる視線は、まさに獲物を狙う男のそれで、まるで、服の下の肌に触れるごつごつした手の感触すら感じられるほどだった。

それでも全然イヤじゃなかった。ドキドキして、むしろ『その時』を待ち望んでさえいた・・・

突然、ふっ、と、とんでもない考えが浮かび、一瞬うろたえて、つまづいたように足元が乱れた。いったんは毅然としてその考えを退けたものの、その誘惑はあまりに強く、甘く、悪魔的な抗し難い力で彼女を捕らえた。

・・・もし・・・もしもその、彼の『男の部分』に訴えることができたら?そうすれば、もしかしたら、ザックスは私を選んでくれるかもしれない?・・・生涯の伴侶としては無理でも、ひとときの恋人としてなら・・・もしかして・・・

はっ、と息を呑んで立ち止まった。枝先の方が色づき始めた並木道の終端、大学の西門のところに、目が釘付けになる。ほんの数瞬、棒立ちに固まっていた後、レーネはくるりときびすを返した。

見間違いようが無い。分厚い胸の前で丸太のような腕を組み、がっしりした肩をレンガの門柱につけて半分こちらを向き、むっつりと斜めに寄り掛かったザックスは、行き交う学生達より頭半分から一つくらいは高く、圧倒的な存在感があった。大雑把に後ろに撫でつけられた輝く金褐色の髪は秋風に乱れ、同じ色の無精髭―どういうわけか、逢った次の日からしばらくはきれいさっぱり剃られていたけれど、いつの間にかまた元に戻っていた―に覆われた彫りの深いいかつい顔は、険悪と言ってもいい雰囲気を漂わせて、まるで通行を取り締まる門番のようだった。門を出入りする学生達は皆、一様に目を伏せ―無理もない―そそくさと足早に通り過ぎていた。

今日こそはと思っていたはずなのに、レーネは反射的に逃げ出していた。何が一番怖かったのか―彼の怒りなのか、己の醜さを知られることなのか、あるいは彼を失ってしまうことなのか―は、よく分からない。けれども儚い勇気はぶざまな恐怖心の前にあっさりとついえ去り、捕食者に狙われた小鳥のように激しく心臓を動悸させながら、明らかに不自然な急ぎ足で、来た道を戻り始めた。まだかなり距離があったから気づかれなかったとは思うけど、背を向ける直前に目が合ってしまったような―いつもは温かな色を湛えている瞳に、金色の怒りが閃くのが見えたような気もする・・・

並木を抜け、ついさっき降りてきた図書館の入口階段を、息を切らせてほとんど駆け上がるように昇る。そして、もう少しで建物に入れる、というところで、後ろから力強い手に肩を掴まれ、がくりと体が揺れた。

「おい!」
「レーネ?大丈夫かい?」


 

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