Invisible pour le yeux 2
まるで、できの悪い物語でも読んでるような気分だった。・・・もしかしたらそうなのかもしれない。この世のどこかに、『ザックスの運命』と書かれた本があって、そこにはこう書いてあるんだろう・・・『愛した者は去っていく』。
くそったれ!
出逢った時からずっと、一分の疑いも無く、この女だと確信していた。頭の中で―勝手に―描いたシナリオでは、あの靴を渡して告白すれば、彼女は彼との真実の愛に気づき、婚約者との偽りの愛を捨て、彼を愛するはずだった。
あいつと俺は結ばれる運命だと・・・
けれど、尊大に膨れ上がった期待は、ぶすりと、またしても容赦ない現実の一刺しでみじめに萎んだ。
・・・違ったのか?全ては、身の程知らずな夢物語に過ぎなかったのか・・・
ヤケになり、アウグスティンに泣きつかれ、フリッツに店から引っぱり出されるまで飲み続けた。魂を籠めて作った靴を投げ捨ててしまわなかったのは、靴屋としてのプライドが、男としてのプライドに辛うじて打ち克ったからに過ぎない。だが結局はその、いつのまにか自分の中に根付いていた職人意識が、身を苛む失望を乗り越える足がかりになった。
OK。あいつは俺を愛してねぇ。俺の想いを告げても、俺を愛することはねぇ。それでどうする?あきらめるのか?
絶対、イヤだ。
自分があきらめの悪い人間だと思ったことはない。むしろこれまでの人生、あきらめることばかりだったと言ってもいい。だが、もう、あきらめない。この靴をあいつに渡し、独りよがりに妄想した物語を終わらせて、もう一度最初から新しくやり直すんだ。二人で。ただの、男と女として。
だがその日以来、レーネはぱったり来なくなった。1日も欠かさず来ていたのに、何の前触れも、連絡もなしに。天気が良くなかったせいもあるかもしれないが―あんな華奢な靴では、雨の日に外を歩きたくないのも当たり前だ!―それにしても、もう4日も顔を見てない。もうこれ以上は我慢できない。
それとも、もしかしたら、気づかれてしまったんだろうか・・・俺の気持ちに?うっかり洩らしたりしないよう、細心の注意を払ってたつもりだったが、何かつい、悟られるようなことをしちまったか、言っちまったかしたのか?それで、面倒な事になるのを恐れて、俺を避けてるのか?
そうはさせねぇ。
やっと、心底欲しいと思えるものに辿り着いたのだ。もし結婚していたならちょっと厄介だったが―たとえそうであっても、あきらめる気などさらさらなかったが―まだだと分かった以上、遠慮はしねぇ。きっとあいつの心を動かしてみせる。どんな手を使っても。
というわけで、思い切った行動に出ることにした。待ち伏せだ。自分がどんどん常軌を逸しているのは分かっていたが、この際やむを得ない。『仕立て上がった靴を受け取りに来てもらう』という、立派な名目もあることだし。『恋と戦争は手段を選ばない』と、誰かも言ってたじゃないか?俺はどうしてもあいつが欲しいんだ。欲しいものを掴むためには、なりふり構ってられるか!
晴れているとはいえ、秋の風は冷んやりとして、ずっと突っ立っていると上着の隙間から雨上がりの冷気が沁みてきた。行き交う学生達から、おおっぴらにではなくとも、注目を浴びているのも気づいてはいたが、そんなことは気にならなかった。ただ2本のレンガの柱にはさまれた狭い空間を睨みつけ、彼女を見つけたらまず何と言おうと、そればかり考えていた。あとは、彼女のアパートと大学の位置関係からしてここの門を使うだろうと踏んだのだが、読みを外していないことを祈るだけだ。ぶるっと身震いした瞬間、通りすがりの見物人達とは明らかに違う強い視線に気づき、さっと顔を上げた。
レーネ!
だが彼女は彼に気づいたはずなのに―あるいは気づいたからか?―くるっと向きを変えて枯草色のスカートの裾を翻し、淡い卵色のカーディガンの背中を見せて、反対の方角に向かって歩きだしていた。一瞬呆然とし、次にむくむくと粗暴な本能が湧き上がってきた。
逃がすか!
ためらいもなく門の中に踏み入り、足早に歩いていく彼女の後を追った。走って追いかけるようなことこそしなかったものの、すれ違う人々がぎょっと身を引くような勢いで、色づき始めた菩提樹の並木を進んで行く。全く振り返ることなく一目散に逃げて行く彼女の後姿を見据えているうち、むらむらと怒りがわいてきた。
こんなのはお前らしくない。
どこからそんな考えが湧いてきたのか全く理解できないが、とにかく、どんなことにも正面から向き合うのがレーネのやり方だったはず―という気がした。何から―あるいは誰から―逃げているにしろ、それは彼女の本当の姿じゃない。いったい何が、彼女にそうさせているんだ?絶対に突き止めてやる。
道より一段高くなった場所に立っている、石とレンガ造りの大きく古めかしい建物に続く幅の広い石段を、一段飛ばしで上がり、彼女に追いついた。
「おい!」
「レーネ?大丈夫かい?」細い肩を捕らえた―と思った途端に男の声に邪魔をされ、ザックスは片手でがっしりとレーネを掴んだまま、険しい顔で振り返った。
「僕に何かできることが・・・」
真っ直ぐな髪をきちんと分けて撫でつけ、まじめそうな眼鏡をかけた若い男は、彼に睨みつけられて中途で言葉を切った。が、見上げたことに、男は、一瞬怯んでひょろっとした体を強張らせはしたものの、一歩も退こうとはしなかった。
「ありがとう、コンラート。私は大丈夫」
振り向いたレーネが少しかすれた声で答え―こんな時でもその響きに体が反応するんだから、始末に負えない―明らかに無理のある笑顔をコンラートとやらに向けた。コンラートはレーネの言葉を聞き流し、緊張を滲ませながらも挑むようにザックスに向かって顎を上げた。
「君は何者だ?」
「俺は彼女の・・・」レーネを放して男に向って対決姿勢を取りながら、言葉に詰まった。諸々の選択肢を頭の中でとっさに検討した結果、疑いの余地の無い事実だけを口にした。
「・・・靴屋だ」
コンラートは当惑したような表情になり、レーネを見た。レーネは顔をこわばらせたまま、ちょっと肩をすくめた。
「お願いしてあった靴の仕立てのことで来てくれたの。それだけ」
何を言ってほしいと期待していたのかは分からない。が、彼女が告げた言葉は、事実であるにもかかわらず、ぐさりと心臓に突き刺さった。
「そういうことだから、二人で話させてもらってもいい?」
レーネの威厳ある態度に気圧されたように、コンラートは一歩下がった。
「そうかい?それじゃあ・・・」
未だ納得していない表情ながらも立ち去りかけたコンラートが振り返った。
「あの、もし気が変わって明日・・・」
「さよなら、コンラート。また来週」レーネにきっぱりと遮られ、何やら心残りそうに何度か振り返りながら去っていくコンラートの後姿を睨みながら、ザックスはついとげとげしく尋ねていた。
「誰だ?」
「同じ研究室の先輩。いろいろと・・・お世話になってるの」どんな世話だよ?と詰問しそうになるのを、なんとかこらえた。
「そうか」
「ええ」それきり会話が続かない。コンラートが降りて行った階段の下の方に目を向けている―つまりザックスの方を向いてはいるものの、視線は彼を素通りしている―レーネの顔をじりじりした思いで見つめ、しばらく黙っていた後、結局、単刀直入に用件を切り出した。
「いつ店に来れる?」
「ごめんなさい」と、ほぼ同時にレーネが言った。一瞬、静寂があった。
「別に急かすわけじゃねぇが・・・」
「今日、これから行こうと・・・」またしても二人同時にしゃべり始め、二人同時に口を閉じた。レーネが小さく溜息をつき、やっと顔を上げて、その夜明け前の瞳に彼を映した。