Invisible pour le yeux 3



 

「誰だ?」

ザックスはむっつりと不機嫌そうだった。明らかにコンラートはザックスの気に入らなかったらしい。まあ、コンラートもあまり礼儀正しかったとは言えないから、無理もないけど。

「同じ研究室の先輩」

別に弁護する必要も無かったのだろうけれど、少しでもザックスの不愉快な気分を和らげられるかと思って付け加えた。

「いろいろと・・・お世話になってるの」

だがザックスは苦虫を噛み潰したような顔のままだ。

「そうか」
「ええ」

それ以上、どう言っていいか分からなかった。予想はしていたけれど、ザックスはかなり苛立っているようだ。彼女のせいで仕事の予定を狂わせてしまったのだから当然のこととはいえ、申し訳なくて目を合わせられなかった。

「ごめんなさい・・・」

と、視線を逸らせたまま謝罪の言葉を口にしかけたところへ、被さるように彼の声が降ってきた。

「いつ店に来れる?」

一瞬、息を呑んでから答えた。

「今日、これから行こうと・・・」
「別に急かすわけじゃねぇが・・・」

再び声が重なり、レーネは言葉を切った。これでは埒が明かない。謝罪も言い訳も、まずザックスの非難を受け止めてからにしよう。覚悟を決め、今日もう何度目か分からない溜息をついて、顔を上げた。

「どうぞ」

ザックスは目が合うとしばし吸い込まれそうな眼差しで彼女の目を見つめ―彼の厚い唇が『きれいだ』と動いたように見えたけど、気のせいに違いない―ふと、気を取り直したように言った。

「すぐ済むか?」
「えっ?」

きょとんとして太い指が指し示す先を振り返ると、図書館があった。

「何か用があったんだろ?」
「え、ええっと・・・」

あなたから逃げようとしてただけ・・・とは、とても言えない。

「いいえ、ええ、つまりその・・・別に今じゃなくてもいいから」

もごもごと口ごもると、ザックスが訝しげに目を細めた。

「そうなのか?」
「ええ。行きましょう」

さっとうなずき、先に立って階段を下り始めた。すぐに彼が横に並ぶ。

「悪かったな。邪魔して」
「・・・いいえ。私の方こそ、わざわざ来ていただいて・・・」

その時ふと、ザックスは仕事中のはずだということに気がついた。何か外の仕事のついでに寄ってくれたのかもしれないけれど、それにしてもどのくらいあそこで待っててくれたんだろう?他の仕事の方は大丈夫なんだろうか?隣を見上げて恐る恐る尋ねようとした時、ザックスがちら、と彼女の方を見て、顔をしかめた。彼の視線を追って自分の足元に目を遣り、レーネはぎょっとした。今朝何を履いてきたのか、記憶には無かったけれど―というか、そもそも靴を履いた記憶が無かったけれど―濡れた石畳に立つ彼女の足が履いていたのは、スモーキー・ゴールドと赤茶の革紐が甲のところで編まれた、明るいオレンジ色のオープン・トゥのハイヒールだった。

「悪いが・・・」

苦々しい声に、はっと顔を上げる。

「あんまり時間がねぇんだ。ちょっと急いでもいいか?」
「え?はい、もちろん」

答えるか答えないかのうちに力強い手で手をつかまれ、息を呑んだ。そしてその状況に慣れる間も無く、大股で歩き出したザックスの後を、ほとんど小走りになりながらついて行く。大学から彼の靴屋までは路面電車で三駅ぶんほどあり、彼女は普段は電車通りまで出て、それに乗っていた。が、彼は電車を待つ時間も惜しいらしく、手前の近道を、彼女の手をぐいぐいと引いて早足に歩いて行く。道のりを半分も行かないうちに、彼女の足元はよろめき、おぼつかなくなっていた。どうしよう・・・と思った途端に彼が振り返った。

「すまん」

という一言の後、ふわりと体が浮き、彼の腕の中にいた。

「すぐ着くから、ちょっとだけガマンしててくれ」

すぐに着いてほしくない。このままずっとここにいたい・・・と心の中で熱望したけれど、その願いは叶えられそうもなかった。ザックスは彼女を抱き上げるやいなや走り出し、そこまで歩いてきた時間の半分もかからずに、靴屋のある通りに到着した。自分達が通りを行き交う人々の注視を浴びていることに彼が気づいているのかどうかは分からなかったけれども、彼は全く気にする素振りは見せなかったし、彼女も別にそんなことは気にならなかった。太い首に両腕を回し、がっしりと硬い腕に支えられて、男っぽい匂いのする温かな胸の上で揺れに身を任せているのは―逆説的ではあるけれど―最も安定した、完璧な状態のように思えた。だが彼は、店の数m手前まで来ると、少し息を切らせながら彼女を下ろし、再び彼女の手を引いて急ぎ足に店の扉を引き開けた。

「すみません、遅くなっちまって。今戻りました」
「ザックスってば、おっそーい!」

店の中から、甲高い声が応えた。

「何してたの?今日は・・・」

声の主は、ザックスの背後から入ってきた彼女を見て、澄んだ空色の目をくりっとさせた。

「・・・デート?」


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis