Invisible pour le yeux 4



 

10歳くらいだろうか。布張りの袖付き椅子にちょこんと腰掛けた小柄な少年は、おそらく好奇心で訊いたのだろうが、店内には親方やおかみさん達もいる。ザックスが仕事をサボっていたと思われてはいけないと考え、レーネは慌ててザックスの手を振り払った。

「いいえ、全然、そんなんじゃないの。私、ザックスに靴を作ってもらっていてね、お店に来なきゃいけなかったのにずっと来なかったから、彼が心配して迎えに来てくれたのよ」
「ふうん。そっか」

ザックスは彼女の方を振り返りもせず、上着を脱ぎながら荒い足取りで奥の作業場まで行き、木製の椅子の背にその擦り切れたカーキ色の布の塊を放り投げた。

「悪かったな、ダーヴィト。ずいぶん待たせたか?」
「うーん、そうでもない。ずっとアウグスティンやフリッツとおしゃべりしてたし」

ダーヴィトという名前らしい少年が賢そうな顔を左右に振ると、童話の挿絵の王子様のような明るいプラチナブロンドの巻き毛が揺れた。隣に立ったアウグスティンが腰に手を当てて胸を張る。

「おう、俺様のマル秘サッカーテクを教授してやってたんだぜ」
「うん、アウグスティンはあんまりよく分かってないってことが分かったよ」
「なんだとー!」

少年を後ろから羽交い絞めにしてげんこつで頭をぐりぐりするアウグスティンと、きゃっきゃと歓声を上げるダーヴィトは、まるでたいして歳が離れていないように見えた。奥の机でフリッツが作業しながらバカにしたように鼻を鳴らし、窓際でおかみさんと話していたダーヴィトの母親らしい女性が温かく微笑んだ。

「ほら、これだ、ダーヴィト」

ザックスは奥の保管棚から箱を一つ取り出し、店の方に戻ってきた。そしてダーヴィトの前に片膝をつきながら、レーネの方を見もせずに言った。

「どっかその辺で待っててくれ」

その口調は、素っ気ない態度以上になげやりで、レーネは一瞬たじろいだ。が、すぐに笑みを浮かべてうなずいた。

「はい」
「あっ、ねえねえレーネ、例の・・・」
「アウグスティン!!」

ダーヴィトとザックスの脇を回ってレーネの方に来ようとしていたアウグスティンは、奥の作業場から飛んできた親方の鋭い一喝にびくっと背筋を伸ばし、気をつけの姿勢になった。

「はいっ、分かりました!」

素早くレーネに走り寄り、こっそり耳打ちする。

「後でね、レーネ」
「さっさとしろ!」
「はいいっ!」

あたふたと作業場に戻るアウグスティンの後姿をくすくすと笑って見送り、店の奥寄りに置かれた小さな木の椅子に歩み寄りながら、目は自然にダーヴィトとザックスの方へと戻っていった。

「わあ!」

差し出されたつややかなダークブラウンの革靴を見て、ダーヴィトが目を輝かせた。

「すごいや!カッコイイね!」
「履いてみてくれ」
「うん!」

レーネはちょっと意外に思いながら少年が手に取った靴を見ていた。ザックスが作るのはシンプルでオーソドックスなものだと思っていたのに、その靴は、形こそ当たり前の学校用の靴だったけれども、足首の内側についたジッパーで斜めに大きく開くようになっており、飾りバンドの留め金はブロンズのサッカーボールだった。そして、少年が新しい靴を試そうと、履いている靴を脱いだ時、レーネは息を呑まないように唇を噛んだ。

少年の右足は木だった。

「これいいね。すごく履きやすいし、ぴったりだ。それにこのサッカーボール、超イケてる。絶対ギムナジウムのみんなが羨ましがるよ」
「フリッツとアウグスティンに言ってやってくれ。あいつらからアイディアをもらったんだ」
「フリッツ、アウグスティン、ありがと!」

ダーヴィトが奥の作業場に向かって手を振ると、フリッツは皮を縫う手を止めずに顔を上げてニヤっと笑い、アウグスティンは右手の拳を挙げてガッツポーズをしてみせた。作業場から目を戻す途中で、ダーヴィトの視線はレーネを捉え、しばしためらうように留まった。レーネがにっこり微笑むと、ダーヴィトはちょっと気恥ずかしげに頬を染めた。

「えっと、お姉さん・・・レーネさん?」
「レーネでいいわ」

ダーヴィトが力づけられたように大きくうなずいた。

「うん、ねぇ、レーネ、僕の靴どう?似合ってる?」
「そうねぇ・・・」

おもむろに立ち上がって近づき、批評家のように真面目な表情で彼の足元を覗き込んだ。すぐ脇で靴のはまり具合をチェックしているザックスの大きな体を見ないようにするのは難しかったけれど、極力気にしないようにして、厳しく品定めするように角度を変えてためつすがめつした後、にこやかな笑みを浮かべた。

「と−っても。お洒落で洗練されたギムナジウムの生徒に見えるわ」

ダーヴィトは誇らしげに靴を眺め、手を伸ばして、鈍く光るサッカーボールの留め金に触れた。

「サッカーが好きなの?」

口にしてしまってから、レーネは自分の失言に舌を噛み切りたくなった。義足の子になんてことを!けれどダーヴィトはぱっと顔を上げて、勢いよくしゃべりだした。

「うん、そうなんだ!僕、昔っからずっとサッカーが大好きで、試合にもよく連れてってもらってたんだよ。だって、見てるとワクワクするんだもん。それでね、去年初めてチームに入ったんだよ!ヘルマンが、僕みたいな子でもプレーできるチームを教えてくれたんだ」

興奮して早口にまくしたてるダーヴィトの言葉をちゃんと聞き取れたかどうか、レーネには自信が無かった。

「ヘルマン?」
「うん、ほら、ザックスの弟の。知ってるでしょ?」

ついザックスの方へ目が向いてしまったが、彼は無言でダーヴィトの足と靴の隙間を調べていた。

「いいえ、残念だけど。ヘルマンはダーヴィトのお友達なのね?」
「ギムナジウムの先輩。寮で一緒になったんだ」
「えっ、そうなの?」

驚くべきではなかったのだろうけど、ザックスの弟が、大学への進学コースであるギムナジウムの生徒だというのは少し意外な気がした。弟がいるという話を聞いた時、なんとなくザックスと同じような職人か、あるいは職人を目指す職業訓練校に通う生徒のようなイメージを勝手に抱いていたので。

「・・・ええと、じゃあ、ヘルマンがここに連れてきてくれたのね」
「ううん。だってほら、僕もヘルマンも週末は家に帰るじゃない?ヘルマンの家はちょっと遠いんだよ」
「ああ・・・そう」

それは知っている、と言うのはやめておいた。

「でも試合がある時は、時々応援に来てくれるよ。ヘルマンは自分ではサッカーやらないんだ。運動は苦手なんだって。変だよね、あんなに楽しいのにさ」
「ちっとも変じゃないわよ。人それぞれ、個性があるんだもの」
「僕の脚みたいに?」

レーネは内心で自分の発言を呪いながらも、あくまでさりげない調子で答えた。

「そうね、それも個性よね」
「そっか。じゃあしょうがないね」

ダーヴィトがこれほど素直ないい子で良かった。ほっとしたせいで、レーネは自分でも思いもよらないことを口にしていた。

「自分の個性は不利だと思う?」

神様、私の口を閉じてください。

「うーん、そうでもない。チームには全然歩けない子もいるけど、ちゃんとプレーしてるしね。それに僕、慣れてるから。僕、ずっと小さい頃に・・・」

ふいにザックスが上体を起こし、ダーヴィトから離れるように体を引いた。

「ダーヴィト、立ってみてくれ」

えっ、と思ったけれど、ダーヴィトはためらいもなく両手を椅子の肘掛につくと、勢いをつけて難無く立ち上がった。その足元にザックスは再び屈み込んだ。ダーヴィトはおとなしくその場に立ったまま、レーネを見上げた。

「ええっと・・・そう、僕がまだ小さかった頃、『空襲』があったんだよ。僕の脚はその時ダメになっちゃったんだって。僕は覚えてないんだけど」

鋭い刃が胸を刺した。けれどその瞬間、大人達がはっと息を呑んだのを耳にしていたレーネは、強いて落ち着いた口調を保った。

「そうなの。大変なことがあったのに、頑張ってるのね・・・偉いわ」
「そうかな?」

ダーヴィトは少しはにかんだように首をかしげ、何も違和感は持たなかったようだった。レーネはほっとした。ダーヴィトが顔を上げて胸を張り、きっぱりと言った。

「でも、僕は頑張らなきゃいけないんだよ。僕のお祖母さんのぶんまで。お祖母さんは、その時僕をかばって、死んじゃったんだって」

胸が抉られ、息が苦しかった。けれどもレーネは、目に称賛の色を湛えてダーヴィトに微笑んだ。

「立派ね。私はあなたを尊敬するわ」
「今度はちょっと歩いてみてくれるか、ダーヴィト?」

急にザックスが立ち上がり、レーネは慌てて一歩下がった。少し右足を引きずりながら、けれどもしっかりとした足取りで歩き出したダーヴィトと、腰に手を当ててじっとその様子を見ているザックスを、レーネは黙って見守った。

「うん、歩きやすいよ。それにすごく軽いね。このままボールだって蹴れそうだ」
「あっ、俺、休憩室にボール置いて・・・」

アウグスティンが大きな声を上げかけ、慌てて親方の方を見た。が、親方は作成中の足型から目も上げなかった。

「・・・るから、取ってこようか?」

うかがうようにザックスを仰ぎ見たダーヴィトに、ザックスはニヤっと笑った。

「蹴ってみるか?」
「いいの?!」

ザックスはアウグスティンに向って言った。

「表にいるから、持ってきてくれ」
「了解!すぐ行くよ」
「やったあ!」

はしゃいだ様子で戸口に向うダーヴィトの少し後ろを、ザックスが護衛の騎士のようについていく。ダーヴィトは自分で扉を開けて表に出た。ザックスは手を出さなかった。すぐにアウグスティンも飛び出していった。自分も行くべきかどうかと、レーネはしばし迷った。

「『L'essentiel est invisible pour le yeux. (大切なことは目に見えないのよ)』」


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis