Invisible pour le yeux 5



 

不意によく聞き馴染んだフレーズが耳に飛び込み、レーネが驚いて振り返ると、ダーヴィトと同じ目をした彼の母親が、すぐ傍で微笑んでいた。

「あの・・・」
「もう彼の作品が読めないなんて、残念よね」
「え?ええ、そうですね。あの・・・」

もちろんレーネにも、偵察機に乗ったまま消息を絶った作家を悼む気持ちはあったが、今この瞬間一番気になっているのはそのことではなかった。

「どうして・・・」
「あなたがあちらの人だって分かったか?それはね、あなたはHを発音する時、ちょっとためらうからよ」

またしても発音の不備を指摘され、正直ちょっと気落ちした。が、レーネより二周りくらい年上らしい、ふっくらした丸顔の女性は、明るく笑って言った。

「だいじょうぶ、ほとんど分からないわよ。私はね、大学であなたの国の文学を専攻したの。あちらに行ったこともあるのよ。発音はまだ錆付いてなかった?」
「あ、ええ、完璧です」
「よかった。読む方は今でもしょっちゅう読んでるから自信があるんだけど。戦争の間も本は手放さなかったのよ。焚書運動って知ってる?」

知っているかどうか以前に、言葉が聞き取れなかった。

「ふん・・・?」
「ふんしょ、うんどう。戦争中にね、たくさんの本が・・・特に外国の本が、集めて燃やされたの。有害図書っていうことでね。でも私は、自分の本を全部、屋根裏に隠しちゃったのよ。だって、夫がいなくて寂しい夜にこっそり読むのに、G.A.の詩集ほどいいものがある?」

茶目っ気たっぷりにウィンクされてレーネは赤面してしまい、過激な性描写で知られるその本を彼女もこっそり読んだことがあると知られてしまった。その人はころころと笑い、それからふと真面目な表情になった。

「あなたは私達を赦してくれる?」

驚きすぎたせいで、まともに言葉が出てこなかった。

「赦すだなんて、そんな・・・」

むしろダーヴィトの話を聞いた後では、自分の方が謝罪を要求されても当然と思っていた。しかしダーヴィトの母親はかすかに首を振った。

「確かに戦争を始めたのは一部の人達だったかもしれないけど、私達はそれに反対しなかったことで、加担してしまったのよ。でも、これは理解してもらいたいんだけれど、ダーヴィトには、あの戦争について、何の責任も無いの。あなたに責任が無いのと同じようにね」
「ええ・・・分かります」

ダーヴィトの母親は目元に漂っていた緊張を解き、明らかにほっとした表情になった。

「考えてみれば、あなたがここに来てくれたってことは、あなたはとっくに私達を赦してくれてるのよね」

レーネは少しためらったが、結局正直に言った。

「実を言うと私・・・そのことについては、あまり考えたことが無かったんです。不勉強だったとは思いますが・・・誰かを責めるっていうようなことも、考えてませんでした」
「それも当然ね。私達の年代にとってはついこの間のことでも、あなた達にとっては大昔のことなんですもの」

ダーヴィトの母親はうなずき、少し笑みを見せた。

「ダーヴィトがお世話をおかけして、ごめんなさいね」
「いえ、とんでもない!」

レーネは慌てて首を振った。

「私の方こそ、ダーヴィトと話せて良かったです。しっかりしてて、いいお子さんですね。真っ直ぐで、それに前向きで。きっと、温かい御家庭で育ったからでしょうね。ギムナジウムでも人気者なんじゃないかしら」
「ありがとう。あの子、年齢より小さいでしょう?実は学校も1年遅れてるんだけど、それでも最初はなかなか馴染めなくて、苦労したらしいの。本人はまったくそんなことは言わないんだけど。1年経って、やっと上手くやっていけるようになってきたみたい」

ということは、ダーヴィトは少なくとも12歳にはなっているということだ。ダーヴィトの見た目から、おそらく今年入学したばかりだろうと思っていたレーネは、そうではないことを知って少し驚いたが、それをちらとも表には出さなかった。レーネは、ザックスとアウグスティンの前でドリブルをして見せているダーヴィトを窓越しに見やって、微笑んだ。

「ダーヴィトは強い男の子ですもの。それに、こんなにみんなに好かれてるんですし。きっとどこに行っても、どんなことがあっても、しっかり自分の運命を切り開いていけるでしょう」

ダーヴィトの母親は嬉しそうにうなずいた。

「ヘルマンに出逢えたのは幸運だったわ。とても思いやりのある、いい子なのよ。ダーヴィトにもいろいろ、さりげなく気を配ってくれて。お兄さんが靴職人だからかしら、あの子が適当な靴を探すのに苦労してる、ってこともすぐに気づいてくれてね。ここを紹介してくれたのよ」

ザックスの弟さん・・・きっとザックスと同じように、心の温かな人に違いない・・・

「優しい人なんですね」
「ええ。それに学業も優秀らしいわ。もっとも本人に言わせると、小学校での成績はお兄さんの方がずっと良かったらしいけど」
「え?」

詮索する権利など無いことは分かっていたけれども、ついつい訊いていた。

「じゃあ、どうしてザックスは・・・」
「さあ。それ以上詳しい話は聞かなかったから」

目が勝手にザックスの姿を追っていることに、レーネ自身は気づいていなかった。

「おまけになかなかの男前なのよ。お兄さんとは違うタイプだけど」

ぎくりとして身構えると、ダーヴィトの母親が興味津々という顔で彼女を見ていた。そして目が合うと、澄んだ空色の瞳にいたずらっぽい表情を浮かべ、ザックスの方へちらっと意味ありげな視線を送った。

「ザックスって、とってもセクシーよね?」
「えっ?!あ、あの・・・」

ここで、そうですね、と言うわけにもいかないし、かと言って、あえて否定するのはよけい不自然な気がする。

「ええと・・・素敵な人だと思います」

無難な表現をしたつもりだったのに、口にした途端にかあっと頬が熱くなった。ダーヴィトの母親がくすくす笑った。

「あの、つまり、そうじゃなくて・・・」
「お母さん!レーネ!ほら見て!」

戸口から勢い良く入ってきたダーヴィトが、ボールを床に置くと左足で器用にすくい上げ―どうやったのかレーネには分からなかった―そのまま足の甲で放り上げて、額でバウンドさせた。ボールは跳ねてレーネと母親の方に飛んできたので、レーネは受け止めようと手を伸ばしたが、間に割って入ったザックスが先にそれを掴んだ。

「ナイス・シュート、ダーヴィト」

ザックスはレーネの方はちらりとも見ず、ボールをアウグスティンに投げて返した。

「上手だけど中でやっちゃダメよ、ダーヴィト」
「あっ・・・」

母親にたしなめられ、ダーヴィトは慌てておかみさんの方を見た。

「・・・ごめんなさい」
「かまやしないよ。大したもんがあるわけじゃなし。でも窓は割らないでおくれよね、これから寒くなるから」
「はーい」

ザックスがダーヴィトを手招きし、さっきの椅子に座らせて靴を履き替えさせた。

「今日はこんなところだな。来週には仕上げておくよ」
「うん!」

ダーヴィトは満面の笑みを湛えて元気よくうなずいたあと、ちらと母親の顔を窺い、澄ました表情をつくった。

「よろしくお願いします」
「ああ」

大きな手がふわふわの金髪をくしゃりと潰す。笑い合う二人を、レーネは微笑ましく見ていた。ダーヴィトがふとレーネを振り返った。

「ねぇ、レーネ」
「なに?ダーヴィト」

ダーヴィトはちょっとためらった後、真面目な顔で一気にまくしたてた。

「あのさ、僕、レーネが大好きだよ」
「ありがとう。私もダーヴィトが大好きよ」

心を籠めて答えたけれど、ダーヴィトはまだ何か物言いたげだった。

「あのさ・・・」
「なあに」
「その・・・もしレーネがザックスの彼女じゃないんだったら、僕の彼女になってくれないかな、と思って」

頬を染め、もじもじと服の裾をいじりながら、何気ない口調を作ろうとする様子が可愛らしくて、レーネは微笑まないようにするのに苦労した。

「そうね・・・もし5年経ってもまだそう思ってくれてたら、その時にまた訊いてみてくれる?」

ダーヴィトはがっかりした表情になった。

「5年?ずっと先だね・・・」
「そうでもないわよ。それに、それまでもずっとお友達でいられるんだし」
「うん・・・そうだね。分かった。きっとそうするよ!」

母親が口を挟んだ。

「さあ、もうそろそろ帰らないと、お父さんが首を長くして待ってるわよ」

ダーヴィトは元気良く立ち上がった。

「うん。じゃあね、レーネ!」
「さよなら、ダーヴィト」


 

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