Invisible pour le yeux 6



 

ダーヴィトが帰ってしまうと、とたんにザックスは無愛想になってしまった。さっさと奥の保管棚に向かい、ダーヴィトの靴を丁寧にしまった後、並びの棚から彼女の靴を取り出す。すぐに踵を返して店の方へ戻って来たが、むっつりとしたその表情からは、どんな感情も読み取れなかった。手間暇かけた靴がやっと出来上がったのに、嬉しくないの?

四角い小さな木の腰掛に掛けた彼女の前に、シンプルな美しい靴が揃えて置かれる。ぱっと見た目には4日前と何も変わっていないように見えるけれど、細かなところで調整が施されているのが直感で分かった。片方ずつ両手で包んで引き寄せ、どきどきしながら足を入れる。

「ぴったり」

それを見るのは辛いだろうと思っていたのに、実際に目の前にすると、なんとも言えない温もりがこみ上げてきた。それほど、その靴には、ザックス自身の本質が籠められていた。

これがあれば生きていける。これからも、一人ぼっちでも・・・

「・・・ありがとう」
「立って」
「え?」
「歩いてみてくれ」
「あ、はい」

前回かなりしっかりチェックをしたので、今日は最終確認をして受け取るだけだろうと思っていたのだけれど、ザックスには、そんなふうにあっさり済ますつもりは毛頭無かったらしい。彼は意外に完璧主義だったのかもしれない・・・もしかしたら前回以上に、足を上げたり下げたり、店の中を歩き回らされたり、果ては坂道を模した斜めの板の上を歩かされた。アウグスティンまで大騒ぎして、板を持ってうろうろし、親方に怒鳴られていた。そんな騒ぎもザックスは別段気にならないらしく、ただ厳しい眼差しでレーネの足元を注視していた。たぶん、靴屋として恥ずかしくないものしか外には出せない、ということなのだろうけど、もしかしたら丹精込めた靴を手放したくないのかも・・・などという妙な考えまで浮かんだ。自分の足を無遠慮に見つめられ―時々靴の上から触れられたりして―レーネは落ち着かない気分だった。

やっと彼が納得して、最後に靴を磨き上げ、店の名の入った化粧箱にしまう頃には、親方はもちろん、フリッツもアウグスティンも仕事を上がって帰ってしまっていた。もっともアウグスティンは、帰る前にちゃっかり明日の秋祭りの約束を取り付けて行ったけれど。おかみさんが最後の片付けに出たり入ったりしているだけになってしまった店の中で、ザックスがやっとレーネに向かい合った。

「今確認できることは全てしたが、もし使っていて何か不都合があったら・・・」

ザックスは品物を渡す時のお決まりの文句をすらすらと言いかけ、なぜかそこで一瞬言いよどんだ。けれどもすぐに気を取り直したらしく、紺のビロードの紐を掛けたダーク・ブラウンの紙箱を彼女に突きつけながら、後を続けた。

「・・・またいつでも持って来てくれ」
「ありがとう。あの、おいくら・・・」
「いらない」

思った通り、取り付く島も無い口調だったが、一応食い下がってみた。

「でもこれは・・・」
「これは」

ザックスが強い口調で遮る。奥の休憩室へ続く戸口を出ようとしていたおかみさんが、ちらりと彼らの方を見てから姿を消した。

「これは贈り物だ」
「え?」

贈り物をもらうような理由はないと思うけど・・・あのことはザックスは知らないはずだし・・・

「作らせてもらって感謝してる」

それは前にも聞いたけど、どこか筋が通らないような気がする。さっさと引っ込められたごつい手は、威嚇するように腰に当てられ、感謝している人の態度には見えない。納得はできなかったものの、これ以上訊いても説明してもらえそうもなかった。本来、ここで引き下がるような彼女ではないのだが、彼がたぶん支払いを拒むであろうということは予想していたので、妥当と思われる額―けっして不充分ではなく、かといって相手に気まずい思いをさせるほどでもない―の小切手を送る用意はしてあった・・・店宛に。

「・・・どうもありがとう。本当に、いろいろと・・・」
「どういたしまして」
「じゃあ・・・」

後ろ髪引かれる思いを振り切り、立ち去ろうとした時、後ろから声がした。

「ザックス、遅くなっちゃったからレーネを送って行ってあげな。荷物もあるし」
「え?」

ぎょっとして振り向くと、ザックスも顔をひきつらせ、奥の戸口から顔を覗かせたおかみさんを見ていた。

「いえ、私は大丈・・・」
「ダーヴィトの相手をしてた間、ずいぶん待たせちゃったからね、外はもう暗いよ」
「でも・・・」

それはザックスのせいじゃない。どちらかと言うと、私がぐずぐずしてたせいで・・・

「もう店は閉めたし、明日は休みなんだから、残りの仕事は戻ってきてからゆっくりやればいいだろ、ザックス?」
「分かった。そうします」

言うなりザックスは立ち上がり、椅子の背にかけてあった上着を取ってすたすたと―レーネの横を素通りして―店の表口に向かった。扉を押し開け、重い戸板を片手で押さえたまま立ち止まって、憮然とした表情で振り返っている。レーネは慌てて戸口に走り寄った。

「ありがとう・・・」

張りつめた太い上腕をぴくりとひきつらせたザックスから顔を逸らし、もう一度店の奥に目を向ける。

「それじゃあ、おかみさん。色々ありがとうございました」
「どういたしまして。必ずまたいらっしゃいな」

返事は口にせず、ただ微笑みを浮かべて踵を返し、戸口を半分ふさいだザックスの体の前をすり抜けた。彼の温もりを感じて体がぞくりと震え、そしてすぐに悲しくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 

まったく、どうかしてるぞ。こんな基本的なマナーすら、おろそかにしちまうとは。ガキじゃあるまいし、彼女のもっともな態度に、こんなふうに腹を立てるなんて。

女性に対する礼儀は、母親から厳しく叩き込まれたおかげで、ちょっと古風過ぎるくらい身についていたはずだった。それなのにレーネを相手にすると、理性も常識も何もかも吹っ飛んでしまう。湧き上がる感情が強すぎて、やたら馴れ馴れしく接してしまったり、極端によそよそしくしてしまったり・・・おかみさんに言われなければ、夜道を一人で帰らせてしまうところだった。これまでは、これほど遅くならなかった日でも、暗くなりそうな時にはちゃんと送っていたのに。

率直に認めてしまえば、レーネに、自分達が『靴屋と客』という関係に過ぎないことを出会う相手ごとに何度も強調されて、いじけていたのだ。彼女にしてみればそうするのが至極当然だというのは、頭では理解できる。だが、絶対に誰にも渡すものかと勢い込んで大学まで乗り込んだところをあっさり拒絶された反動も手伝って―完全に八つ当たりだ―『靴屋』としての範疇を超えないよう、ことさら冷淡にふるまってしまった。・・・獲物のように彼女を抱え上げて店に戻ったのは別として。だが、あれは、急いでいたんだから仕方がない。彼女の柔らかなクリームイエローのカーディガンは、よく見ると細かな羽毛のような織柄が入っていて、まるで脆い鳥の雛を腕に捕らえているような気がしたのは確かだが・・・

とにかく、その間も、注意深くレーネを見てはいた。ダーヴィトと話している間は楽しそうだったが―誰とでもすぐに打ち解けてしまう才能はたいしたものだ―その後はめっきり元気が無くなった。いつもと変わらないように見せかけようとしてたが、俺には分かる。俺が彼女の靴を出してきた時には、明らかに緊張していた―この間はまったくそんな素振りは見せなかったのに。

だが箱を開いてそれを見せた途端、美しい顔が輝いた。俺が事務的に差し出したその靴を、まるで宝物のように丁重に扱う手つき・・・かすかに興奮して息をつめ、そっと足を入れる様子・・・そして蒼銀の瞳に広がる温かなきらめき・・・

間違いない。この靴を見る時、ずっと彼女の瞳に見え隠れしていたのは、やはり、愛だったんだ。
 
 

ここにきて、ほとんど初めて、レーネの立場で彼女の気持ちを考えさせられた。彼女の人生に強引に割り込むことに、正直、かすかな躊躇いを覚え始めている。道義的な問題はさておき、果たしてそれは、あいつにとって、いいことなんだろうか?

ヤツが・・・彼女の婚約者―くそっ―がどんな男であれ、彼女への愛の深さで自分が負けているとは思わない。自分ができるように、生涯、彼女を愛し、守り続けられる男が他にいるはずもない。だが・・・

レーネはヤツを愛している。もし俺が、己の望みのままに行動してしまったら、レーネを悲しませずには済まないだろう。あいつを傷つけるのは、自分が苦しむより辛い。しかし、だからと言ってあきらめることができるか?

出口が無かった。周囲を見えない壁で囲まれた世界に閉じ込められ、終わりの無い残酷な喜劇で道化役を演じさせられているような気がする。さっきだって、俺をあからさまに警戒してる彼女をさらに逃げ腰にさせるだけなのに、しつこく靴のチェックをさせ―現時点で出来うる限り完璧に仕上げてあったから、まず問題が無いことは分かっていた―未練がましく、靴を渡すのを引き延ばしたりして。他の人間にはともかく、親方には気づかれてしまっただろう・・・俺のみじめな悪あがきを。

ちくしょう。結局、俺には何もできないのか?ただ見てるだけしか・・・あくまで、『靴屋』として。


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis