Invisible pour le yeux 7



 

歩くほどに濃さを増していく闇と冷ややかになっていく風に急き立てられながら、けれどアパートが近づくにつれて、レーネの足は重くなっていった。ザックスは彼女に合わせてゆっくり歩いてくれてはいたものの、ちらとも彼女の方を見ようとはしなかった。沈黙に耐え切れなくなり、レーネは無理に口を開いた。

「明日のお祭りは・・・ザックスも行くの?」

彼の視線を一瞬だけ引き寄せることには成功した。

「ああ」

誰と?
と、気軽な調子で訊ければよかったけれど、そんな勇気は持ち合わせていなかった。

「明日からは・・・変わっていくのね。いろいろと・・・」

太い咽喉からは何かが詰まったような奇妙な音がしただけだった。

「でも私達・・・みんな、もう友達よね?明日からも、ずっと」

ザックスは急に何かに気を取られたように足元を睨んでから、彼女を見た。

「ああ。友達だ。フリッツやアウグスティンや、みんな。それにダーヴィトも」

異世界から来た王子様のような、新しい小さな友達の面影が、少し心を温めてくれた。ザックスが咳払いした。

「すまなかった」
「え?」
「ダーヴィトが来るのは分かってたんだが、お前の方も、これ以上先延ばしにしたくなかったから・・・」

それでどうしてザックスが謝るの?

「だってダーヴィトが先約だったんでしょう?少し待つくらいなんでもな・・・」
「そうじゃない。気まずい思いをさせた」

レーネは驚いた。

「いいえ。気まずいことなんて、何にも」

むしろダーヴィトの母親やザックス達に、たくさん気を遣わせてしまった気がする。

「ダーヴィトもダーヴィトのお母さんも、私のことを自然に受け入れて仲良くしてくれて、私の方が感謝したいくらい」

それまで強張っていたザックスの表情が和らいだ。

「ダーヴィトに優しくしてくれてありがとうな。お前も、あいつに自然に接してくれて、良かった」

自分の無神経な発言の数々を思い出し、顔が曇った。

「ちっとも良くなかったと思うけど・・・」

ザックスがゆっくり頭を振り、街灯に照らされた髪の縁が金色に光った。

「ダーヴィトは特別扱いされるのが嫌いだ。あの年頃の男の子はみんなそうだが。下手に気を使われたりすると、腹を立てるだろう」

そういうものなんだろうか。レーネには兄弟がいなかったし、親しいと言える男友達もいなかったので、よく分からなかった。少しためらってからレーネは訊いた。

「・・・私、ちゃんと言うべきだった?・・私の国が、『空襲』をしたんだって」
「どうかな。俺はそうは思わねぇが」

ザックスは通りを横断する前に立ち止まり、左右を見てからレーネに向って顎をしゃくった。

「たぶん今頃は、あいつの母親がちゃんと説明してくれてるだろう。あいつが理解できるように」

大きな体で庇われるように道を渡りながら、レーネは落ち込んだ。じゃあ今頃は、もしかしたらダーヴィトは私を嫌いになってるかも・・・

「それより・・・」

道を渡りきり、さらに少し待ったが、ザックスはその後の言葉を継がなかった。

「『それより』、何?」
「なんでもねぇ」

それでもレーネがザックスの顔に視線を留めたまま歩いていると、太い咽喉の奥で低く唸るような声がした。

「気を持たせるようなことを言うのは、あまり感心しねぇな」
「気を持たせるようなこと?」
「5年経ったら、って言っただろ」

5年後にはダーヴィトには可愛いガールフレンドができているとレーネは確信していたけれど、ザックスの言葉を頭ごなしに否定することはしなかった。

「・・・ダーヴィトも、もう、そんな気は無いんじゃないかしら。私がどこから来たかを聞いたら」
「それはない」

あまりにもきっぱりと断言され、面食らって言葉を見失った。

「えーと・・・そう?」
「ああ」

どうしてなのかという説明を聞きたかった。が、それはザックスの口から出てこなかった。

「とにかく、できない約束はするな。男ってのは、そういう言葉を真に受ける」

・・・今のはなんだか嫉妬みたいに聞こえたけど・・・ダーヴィトを傷つけるな、ってことなのよね?

「今度から気をつけます」
「そうしてくれ」

なんとなく釈然としない気分のまま、なだらかな坂道を歩き続けた。大通りを逸れて、住宅街へ向う小道に入る。しばらくしてザックスが―たぶん彼もなんとなく落ち着かない気分だったんだろう―とりなすように言った。

「それにしてもダーヴィトはずいぶんお前に懐いてたな。正直、あんなことまで話すなんて思ってなかったから、驚いた」
「そう?」
「ああ。初対面なのに親友みたいだったじゃないか」

わずかの間に交わしたたくさんの会話を思い、レーネは微笑んだ。

「それはダーヴィトが人懐っこくて、いい子だからよ。素直で、それに賢くて」
「まあ、それはそうだが・・・」

ザックスが片手でざらりとごつい顎を撫で、レーネの背筋がぞくりとした。

「お前には、他人に心を開かせるような何かがある。お前の前では、強がったり飾ったりしなくてもいいんだと思わせられる・・・たぶんお前自身が、周りに心を開いてるからなんだろうな」

先程とは違う衝撃が体を貫き、レーネは立ち止まった。そんなことを言われたのは初めてだった。実のところ、これまで褒め言葉は色々―ただのお追従から求愛の賛美まで―聞いたけれども、いつも、可愛らしい顔―らしい―のこととか、お金のかかっている―らしい―身なりのこととかばかりだった。彼は本当に私のことを、そんなふうに思ってくれてるの?だとしたら、これまでのどんな褒め言葉よりも―今のは別に褒め言葉ではなかったかもしれないけど―嬉しい。

ザックスも立ち止まり、レーネを振り返っていた。薄暗い街灯に照らされ、ザックスの顔にはくすんだ陰影が落ちていた。

「お前に会えたことは、ダーヴィトにとって良かったと思う。もちろん、俺たちみんなにとってもだが。こうやって、国境を越えて知り合うことができて・・・ほんとに良かった」

ちくりと、後ろめたさが胸を刺した。今日、ダーヴィトと話していた時からずっと心に引っ掛かっていたもやもやが、ますます胸の中で大きくなってくる。多分たいした問題にはならないだろうと思って話してなかったけど、やっぱり話しておいた方がいいのかもしれない。本当のことを・・・

「ザックス、実は私・・・」

申し訳なさそうに切り出そうとした途端、ザックスはまた顔を背けて歩き出した。慌てて後を追って歩き始めると、壁のような背中から、こもった声が響いた。

「ダーヴィトは・・・いろいろと学ばなきゃならねぇな・・・」

そこでいったん途切れた。しばらくして再びぼそりと続く。

「俺は・・・ダーヴィトの気持ちが分かる」

そしてまた沈黙。しびれを切らし、どういう意味か訊こうとした時、聞き取りにくいほど低く、抑えた口調で、彼が呟いた。

「お前を手に入れる男は幸せだ」

残酷なお世辞。

「・・・そう?」
「ああ」

・・・じゃあ、どうして、あなたがそうしてくれないの?

冗談めかして言ってしまおうかとも思ったけれど、すんでのところで思いとどまった。愚かな質問でザックスを困らせたいとは思ってないし、浅薄な女と軽蔑されたくもない。それにもしザックスが真面目に答えを返してきたら―たぶん彼はそうするだろうけど―その分かりきった答えを、彼の口から聞かなければならなくなる。そんなことにはとても耐えられそうにない。今でさえ、触れただけで悲鳴を上げそうに心がヒリヒリしているのに。その上、バカな質問をしたせいでせっかくの友情までぎくしゃくしてしまったら、どうするの?・・・運命に抗っても、ただ苦しみが続くだけ。運命を受け入れて、自分が手に入れられるものだけで満足すれば・・・

「・・・以前、『一番愛してる人とは結婚できない』って言葉を聞いたことが・・・」
「バカな!そんなわけあるか!!」

思いもよらぬ凄まじい剣幕でザックスが振り返り、レーネはショックを受けて口をつぐんだ。ザックスははっとして彼女を見つめ、落ち着きを取り戻そうとするかのように、手を拳に握り、もぞもぞとポケットに突っ込んだ。

「俺は、心から愛した女とだけ結婚する。そうでなければ、結婚したいとは思わねぇ」

ぶっきらぼうに放たれた言葉は、彼女の想いに死刑を告げる最終宣告だった。

「俺は・・・」
「じゃあ、どうもありがとうございました」

唐突に数歩走って、振り返った。ザックスは呆気にとられた表情で彼女を見つめていた。新しい靴の入った箱を、勇気を抱きしめるように、きつく胸に抱きしめた。

「本当に、色々とお世話になりました。また仕立てをお願いすることがあるかもしれませんけれど、その時はよろしく」

ザックスはしばし無言で彼女を見ていた後、低くくぐもった声で言った。

「・・・まだ、あと2ブロックある」
「ええ、でも、すぐそこだし、大丈夫」
「俺に送られたくない、ってことか?」

抑えた語調の中の不穏な響きを聴き取り、レーネは彼の機嫌を損ねたことに狼狽したが、鋼の自制心で表には出さなかった。今さら自分の気持ちを晒して、彼を煩わせられない。

「とんでもない。あなたには心から感謝してます。ここまで送って下さったことも、本当にありがとう。でももう大丈夫ですから、どうぞお店に戻って、残りのお仕事を片づけて下さい」

今や完全に無表情にザックスは突っ立っていたが、すっと目を細めると小さくうなずいて踵を返した。


 

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