Invisible pour le yeux 9



 

私のバカ!

今度こそ、本当にまずい。乱暴に口を塞がれ、車に引きずり込まれながら、レーネは必死で悲鳴を上げようとした。なぜさっさと部屋に入らず、路上でぐずぐずしていたんだろう?なぜ、本名で呼ばれて振り返ってしまったんだろう?

「オディール・エスペラーンス・ド・シニュノワール?」

その名前は、彼女が何者であるかを示していた。この町では誰も知らないはずの、本当の姿。両親がここへの留学を渋った一番の理由・・・

「おとなしくしやがれ、このアマ!」

狭苦しい後部座席に突き飛ばされ、何か硬いものに肘をぶつけたはずみに、それまでしっかりと抱えていた靴の箱を落としてしまった。慌てて拾おうとしたけれど、すぐさま上にのしかかられ、両手を捻りあげられて、茨のように肌に刺さるボロボロの皮のシートに押し付けられた。教わった護身術の中で唯一思い出せたのは脚で相手を蹴り上げることだったが、限られた空間でぶざまにバタつかせた脚は、男の膝に当たっただけで、その報復として頬を思い切り張り倒された。口の中に広がる塩ょっぱさと鉄の味を感じながら、それでももがき続けたものの、さらに咽喉元を絞められ、次第に頭がふらつき、力が抜けていった。

「おい、大事な金ヅルなんだから殺すなよ」
「うるさい、さっさと車出せよ、何モタモタしてんだ!」
「分かってるさ、エンジンがかからねぇんだ!クソ、誰だよこんなポンコツかっぱらってきたの!」

声からすると少なくとも3人の男がいるらしい。つまりそれだけ、逃げるのは絶望的ということ・・・

「おい、こいつ、今犯っちまってもいいか?そうすりゃおとなしくなるだろ」

こうなった時に予想はできたけど、体が凍りついた。これは今までのわがままの報いなんだろうか。それともこれが、私の運命?

「なんでもいいから黙らせてろ。クソッ、このポンコツ、うんともすんとも言いやしねぇ!」
「さっさと犯っちまえよ、後がつかえてんだからな!」
「がっつくなって」

泣くつもりは無かったけれど、目に熱いものが滲んだ。手首に紐のようなものが食い込み、ごわついた嫌な匂いの布で猿ぐつわを噛まされて息が詰まる。ささくれた薄っぺらなシートの下から、硬いスプリングがごつごつと背中を苛んだ。のしかかる重さが一層増し、いよいよ自分の命運が尽きたのを悟った。

・・・ザックスを巻き込まなくて良かった・・・

もう抵抗する気力も無く、スカートに差し込まれる厭わしい手を少しでもよけようと、力無く身を捩った。
 
 
 
 
 

『あきらめないで!』

突然響き渡った大声にガツンと頭をはたかれた気がして、ザックスは思わず足を止めて辺りを見回した。

誰だ、いったい?

まったく聞き覚えの無い声だった。にもかかわらず、その声が自分に呼びかけていると、はっきり感じた。耳慣れないのにどこか懐かしさを覚える―それは決して美しい声とは言えず、むしろアヒルの喚き声を思わせる、甲高くしゃがれた叫び声で―その声がいきなり、時間と空間を飛び超えて、心に直接響いたような・・・

軽く頭を振って現実に戻る。宵闇の街を行き交う人々は、皆一様に上着の前を閉じ、急ぎ足で目的地へと向かっていた。彼も再び、店に向かって歩き始めようとした。だが足が動かなかった。

・・・いいのか?本当に、これで?

急に妙な焦燥感が湧き上がってきた。胸がざわざわと騒いだ。

・・・今あきらめたら、もう2度とチャンスはねぇ。

何の根拠も無いが、そう感じた。ここであきらめたら、これからもずっとあきらめることになる。運命など変えてみせると、決心したんじゃなかったのか?たかが2、3度拒まれたくらいで、尻尾を巻いて逃げ出すのか?ずっとレーネの隣を歩いていきたいと―歩いていくんだと決めたのに。そう思い至った時には、きびすを返して走り出していた。

あいつはとっくに部屋に入ってしまっただろう。だが、家は分かっているんだ。何としてでももう一度会って、俺の話を聞いてもらう。それまで一晩中でも・・・何日でも、玄関先で粘ってやる。

緩やかに傾斜した石畳の道を一気に駆け戻り、緑の多い閑静な通りに踏み込む。彼の暮らす路地よりはるかに広々として、明るく整備された―けれども今はアンティークな街灯が抑えた光を落としているだけの、静まり返った街路の中ほどに、洒落た近代装飾の建物がまどろむようにたたずんでいる。最上階には―少なくとも道路側の窓には、明かりは点いていない。足の速度を緩め、息を切らせてその玄関先に歩み寄った。

まだ部屋に戻ってないのか?それとも向こう側の部屋なのか?

インターコムを押すためにまっすぐ入り口の石段を登ろうとして、ふと何かが意識に引っ掛かった。もう一度建物の前の道に目を戻し、ざっと辺りを見渡す。菩提樹の並木が、控えめな街灯でぼんやりとした陰影を作る通りには、やはり何も動くものは無く、20mほど先の緑地の前の暗がりに、ぽつんと、この場所には不釣合いな、古びた国産車が止められているだけだ。ただその手前に、何か明るいオレンジ色の・・・

片方だけの、オープン・トゥのハイヒール。

頭が真っ白になった。


 

 続き Fortsetzung

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