Invisible pour le yeux 10



 

バンッ、と何かが吹き飛んだような音がとどろいたかと思うと、獰猛な―牙をむいて襲いかかる動物を思わせる―唸り声が空気を震わせた。と同時に、ふっ、と、のしかかっていた重みが消える。流れ込んできた新鮮な空気が冷やりと肌を刺し、身震いするかしないかのうちに、何かがガン、と車体にぶつかって車が大きく揺れた。ごき、という―たぶん骨が折れるような―鈍い音に続いて、大きなものがどさりと地面に落ちる。何が起きたのかと考える余裕も無かった。

「この野郎!」

前部座席から男が一人飛び出し、車外にそびえ立つ黒い影に飛びかかった。

「何しやがる!」
「てめえら絶対許さねぇ!!」

怒り狂う獣の咆哮。どん、とおなかに響く低音。応えたのはあまりに聞き覚えのある声で、レーネは再び凍りついた。

嘘。

「くそ!」

運転席の男が慌てて外に出てぐるっと車を回りきる前に、ドアの外で揉み合う音は、またしてもまたたく間に、何か重いものが勢いよく街路樹に激突した気配と共に止んでいた。レーネは身動きすることも―声を立てることすら―できないうちに、頑強な手でウエストの辺りを掴まれ、人形のようにぐいっと引っ張り出された。腰の上までめくれ上がったスカートがするりと滑り、脚を覆う。

「なぁ、落ち着けよ、兄弟」

運転席から出てきた男が両手を肩の高さに挙げ、なだめる口調で話しかけながら近づいてきたが、熊のような大男に一瞥されてぴたっと足を止めた。手かせと猿ぐつわから解放され、レーネは大きく息をつき、その途端、ふらっと体が傾ぐのを感じた。けれども、がっしりと彼女をつかんだ太い腕は、ほんのわずかも揺るぐことはなかった。心臓を激しく動悸させつつ、不規則な呼吸を繰り返し、おぼつかない手つきで支えをまさぐって、鋼のように硬く筋肉の張り詰めた体から身を起こす。彼の胸は、乱れたシャツ越しにもその熱を感じられるほど―まるで中で何かが燃えているみたい―熱い。対照的に、闇に浮かぶ彼の横顔は―暗くてよくは分からないけれど―岩に刻まれた彫像のように峻厳で、人を寄せつけない空気をまとっていた。張り出した眉骨が目の上で暗い影をつくり、瞳の表情をうかがうことができない。寄りかかっていた彼女がどうにか自立したのを確認してから、彼はそっと彼女の体を押し、小山のような自分の体と車の間に挟む形で立たせた。

「あんた、その女と知り合い・・・なわけないよな、どう見ても」

大柄な体には窮屈そうな、着古された上着と、擦り切れたデニムにちらっと目を走らせて、男はほくそ笑んだ。

「それとも使用人か何かか?まぁ何でもいいが。いや、それにしてもあんた、いい腕っ節だな。どうだい、一つ、もうけ話に乗らないかい?」

落ち着きなく足を踏み変えながら、男はへらへらとおもねるように薄ら笑いを浮かべた。彼はじっと男を睨んだまま、何も言わなかった。

「あんたが知ってるかどうか知らないが・・・知らなくても見りゃ分かるだろうが、その女、たいした家の御令嬢でな、どえらい金の成る木なのさ。いや、メスだから、金の卵を産むメンドリか?」

厚みのある肩がぴくりと動いた。その肩がいつもより高い位置にあり、自分がすっぽりと巨大な壁の陰に入っていることにレーネは気づいた。

「考えてもみな、そいつをちょっくら誘拐して奴らを脅してやるだけで、拝んだことも無いような大金ががっぽり転がり込んでくるんだぜ?なんたって、そんじょそこらのとは別格のお嬢さんだからな、身代金だって桁違いさ。それこそ一生遊んで暮らしてもまだ余る。あんただって、なんだかんだ言ったって、楽な暮らしがしたいだろ?正義の味方を気取るのもいいが、やっぱり現実の方が大事だからな。あんたが加勢してくれるんなら、あんたの取り分も上乗せして要求すりゃいいだけだ。いくら欲しい?」

地の底から響く厳かな声が答えた。

「・・・話はそれだけか」

彼の声が、これほどぞっとする響きを放ち得るということを、彼女は初めて知った。男はうろたえ、言葉に詰まったものの、それをとりつくろうようにせせら笑った。

「まあ、そう焦るなって。その女をよく見ろよ。もちろん、金が手に入るまでのお楽しみも極上ってわけさ。なんならあんたが一番に味見してもいいぜ」

爆発寸前の怒気が、限界でぎりぎり堰き止められているのがレーネには分かった。盛り上がった背中の筋肉がさらに膨らみ、きつそうな上着の生地がいっそう張り詰めた。じり、と音を立てて彼の足がにじり出て、男は半歩後ずさりながらも、なんとかひきつったあやふやな笑みを保ち、貧乏ゆすりのようにせわしなく体を揺らした。

「なあ、あんた、何も答えないってことは、本当はその女のことなんか全然知らないんだろ?」

その得意げな響きに、嫌な予感がした。

「・・・そいつは、この辺一帯を爆撃しやがった連合軍の司令官の娘なんだぜ!」

レーネはぐったりと目を閉じ、車にもたれかかった。これで、本当にもう、お終いなのね・・・

「ふん、下衆な悪党かと思ったら、ただのバカだったか」

吐き捨てるような口調に、はっと目を見開いた。

「何だと?」
「他に言いたいことはあるか?」

威圧的な体がゆっくりと足を踏み出し、男はじりじりと後ずさった。

「ま、待てよ、落ち着けったら・・・」

突然、パン、という破裂音がして、顔に生温かい液体が飛び散った。レーネは反射的に手を上げてそれを拭い、車の屋根に反射する鈍い明かりで、粘つく手を見つめた。

・・・血。

目の前の壁が急に動き、彼女の右に回りこむように向きを変えた。庇うようにかざされた逞しい右腕の、ピンと張ったカーキ色の生地に、みるみるうちに暗い染みが広がる。金属の擦れるような甲高い音が通りに鳴り響き、夜の静寂を引き裂いた。それが自分の悲鳴だと気づいたのは、それを耳にしてから数秒後だった。

「バカが!」

前方で話をしていた男が、街路樹の根方に座り込んでいる男に向かって罵り、あたふたと運転席に戻るのと、すっと滑るように移動した大きな人影が、その発砲した男の手から安っぽいピストルを蹴り飛ばし、男が再び―今度は完全に意識を失って―地面に沈むのを、レーネはただ悲鳴を上げ続けながら見ていた。みすぼらしい車が咳き込むような音を発し、エンジンがかかる。振り向いて、発車を阻止しようと取って返した彼の体がぐらりと揺れた。

「ザックス!」

倒れ掛かる大きく重い体を受け止めるには、レーネの体は頼りなさ過ぎた。もつれ合って路面に倒れこみ―それでもザックスは精一杯足を突っ張り、支えるというよりはしがみつく格好になったレーネに腕を回して、なんとか自力で自分と彼女を支えようとした―タイル状の石が規則的に敷き詰められた歩道の上で折り重なった。ザックスが最後まで踏ん張ろうとしてくれていたおかげで、完全に下敷きになることはなかったものの、胸に半分乗られた瞬間、うっと息が詰まった。ザックスは路面に体を打ちつけて短い呻き声を上げたきり、気を失ってしまったのか、そのまま動かない。慌てて、自分が下敷きにしてしまったザックスの右腕からどこうと身をよじった時、カーディガンのポケットの中で、小さく硬い物が腰に当たった。レーネははっと気づいて大急ぎでそれを掴み出し、口にくわえて、力の限り息を吹き込んだ。銀色の円い呼子笛のけたたましい音が、閑静な住宅街を包む闇に響き渡る中、車は周囲の人間を轢き殺さんばかりの勢いで急発進し、走り去った。

「・・・くそっ!」

ザックスが身じろいだかと思うと、彼女に左腕を乗せたままわずかに頭を起こして吼え、レーネは硬直した。

「一人逃がしちまった!」
「・・・ザッ・・・」

小さな呼子がぽろりと手から落ちた。ふいに涙が溢れ出す。泣いている場合ではないと分かっているのに、次から次に溢れて、どうしても止まらない。両手で顔を覆い、硬い歩道に転がったまま背をひねって、醜い泣き顔を隠そうとした。

「・・・おい・・・」

手首に温かい手が触れた。けれどすぐにその温もりは消え、寄り添っていた大きな体も離れた。立て続けに何種類かの悪態が背後で小さく聞こえ、はっと、彼が身を起こそうと悪戦苦闘しているのだと気がつき、手を貸さなくてはと思った次の瞬間には、上半身を抱き起こされ、震える背中を引き寄せられていた。

「大丈夫だ、レーネ」

少しかすれた深い響きが頭上から体を包み、存在感のある大きな手がそっと頭に置かれる。一瞬の間の後、その手がためらいがちに乱れた髪を梳いた。

「もう大丈夫だからな・・・」

堰が切れたように嗚咽を上げ、レーネは、分厚い温かな体を抱きしめた。


 

 続き Fortsetzung

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