Glanz des Gold, Strahl des Silber 4
しょんぼりと、ひどく意気消沈しているレーネ―ウェディング・シューズを失くしてしまったんだから無理もない―は可哀想ではあったが、正直なところ、ザックスはほっとしていた。それは、他の男との結婚を援けるようなことをしてしまったという割り切れなさから解放されたからではなく―無論、そうした気持ちを全く感じなかったといえば嘘になるが―失われたのがレーネの靴で、レーネ自身ではなかったからだ。まるで、彼の作った靴が、彼女の身代わりになったようで―こんなことを考えるのはバカげていると思うし、それを口にする気もないが―彼女を守りたいと思う彼の強い気持ちが、ぎりぎりで運命の歯車を変えたような気がして、むしろ嬉しかった。もちろん、彼女をこんな目に遭わせてしまった己の責任を、それで免れるとは思ってない。だが、少なくとも、最悪の事態は避けられた・・・そう思えるだけの心の余裕が生まれていた。
しかしその余裕も、アパートに近づくにつれて彼女の体が小刻みに震え始めたのに気づくまでだった。現場の通りに足を踏み入れたレーネは、それとは分からないほどかすかに怯み、ためらうような歩調になった。だが彼女は気丈にも足を止めることなく、顔を上げ、まっすぐ前を見て、瀟洒な建物の玄関先に歩み寄った。その気概は見上げたものだとは思ったが、同時に痛々しくも感じた。できることなら腕の中の華奢な肩を強く抱き締め、何も心配要らないと言ってやりたかった。凛とした美しい顔がちらりと彼を見上げ、しなやかな手が彼の胸を押すようにして二人の体を離した。
「ありがとう・・・ザックス」
「いや・・・」静穏な夜の空気が、急に冷たく感じられた。できれば最上階にあるという彼女の部屋まで送っていきたかったが、許可されるのはここまでということらしい。今夜、想いの丈を告白するという計画も、あまりにもタイミングが悪すぎる。また後日にせざるをえないだろう・・・未練がましく掴んでいた細い腕を、しぶしぶ手離す。あとは、おやすみを言って、彼女が扉の内に消えるのを見届けるだけだ。だが、花のつぼみの形をした洒落た門灯の淡い光に照らし出された顔が、あまりに青白く、頼りなく見え、ザックスは思わず尋ねていた。
「大丈夫か?」
レーネはわずかにためらった後、こくんと首が折れるようにうなずいた。よけいに不安が増し、もう一度確認しようとしかけた時、ささやくようなか細い声が聞こえた。
「ザックスは?大丈夫?」
一瞬、何のことかと思ったが、すぐに右腕に注がれた視線に気づいた。
「ああ、こんなのたいしたことねぇ」
実際、以前にも喧嘩でこれくらいの怪我はしたことがある。仕事にもほとんど支障は来さないだろう。
「熊だからな。すぐ直るさ」
なおも気掛かりそうな彼女を安心させようと思い切り腕を振り上げると、ずきりと肩まで痛みが走った。だが、眉をひそめるだけでこらえた。
「ごめんなさい・・・」
「だから、大丈夫だって」レーネはうなだれ、力なく首を振った。
「こんなことになってしまって、本当に申し訳なく思ってます。私のことも、ちゃんとお話ししてなくて、ごめんなさい・・・」
「だから俺はそんなこと興味ねぇって」まあ、厳密には正しくない。レーネのことは何でも知りたかったし、話してくれてもよかったのにとは思う。だが、結局、そんなことはどうでもいいことだった。事情を知っても知らなくても、彼女に寄せる想いも、彼女を守り続ける決意も、変わりはしないのだから。
「・・・ええ・・・ごめんなさい・・・」
レーネの頬からいっそう血の気が引き、頬に当てられたガーゼと変わらないくらい真っ白に青ざめてしまった。心配でたまらなくなり、つい口が滑った。
「ほんとに一人で大丈夫か?誰か頼れる人とか・・・」
まるで平手打ちされたようにレーネが目を見開いて凍りつき、ザックスは、はっ、と内心で舌打ちした。彼女の脳裏に浮かんだのが誰か、想像はできたが、考えたくなかった。そもそもなぜ、『誰か』なんて言ってしまったんだ?なぜ、他のヤツに譲ってやらなきゃならない?俺は今ここにいて、こいつを守ることができるのに。こいつだって、俺のことを「一番信頼している」って言ってたじゃないか。『誰か』が必要なら―共に重荷を分かち、運命に立ち向かう誰かにいてほしいなら、俺がずっと傍にいてやる・・・!
くそっ、何考えてんだ、俺は!
ほとんど消え失せかけてる常識に照らし合わせるまでもなく、結婚を間近に控えた―ちくしょう―女性の部屋に上がりこんで二人っきりで一夜を過ごすなんて、許されるはずもねぇ。ましてや、これほどまでに求め、欲している女の傍らで、己の自制心の限界を試すようなことは・・・
なぜいけない?こいつはまだ動揺してる。こんな夜に一人になるのは怖いだろう。傍に誰かがいれば、それだけで心強いはずだ。なぜ、それが、俺じゃいけない?
そうだ、それに、逃げた犯人が捕まるまでは、危険が去ったとはとても言えない。しかも、いつまた同じような輩が現れないとも限らない。彼女の事情を知った今では、その可能性がひどく現実味を帯びて見える。つまり、俺が今夜こいつと一緒にいることは、どこから見ても理に叶っている。だから、もし・・・
「もし・・・その・・・もしも、お前が・・・」
緊張で声がかすれた。ごくりと唾を呑み込み、唇を舌で湿らせて言い直そうとした時、それまでずっとギリシャ彫刻のように静まり返っていたレーネの唇が震えた。
「一緒に、いてくれる?」
空耳が聞こえたのかと思った。あまりにそのことを願っていたので。そう思ってしまうくらい、小さくかすかな声だった。真っ直ぐに見上げてくる深い瞳を―辺りが暗いので、今はほとんど真夜中の空の色に見える―まじまじと見つめ返す。
「なん・・・何だって?」
今度は、レーネの声は揺るがなかった。
「本当は、一人になりたくないの。ザックスが一緒にいてくれれば・・・」
「俺・・・俺?」こわばった小さな白い顔が、視線を合わせたままでうなずく。
「お前の・・・部屋で?」
長い睫に縁取られた美しい双眸が一瞬怯んだようにまばたきした後、痛々しく包帯の巻かれた細い首が再びぎこちなく折れた。
「・・・ええ」
自分の目が―自分の耳が、信じられない。出逢った日からずっと、心密かに期待し続けていた誘い・・・おそらく現実になることはないだろうと半ば思っていた、その言葉を耳にして、体の中で何かが弾け跳んだ。欲望に押された妄想が、制止する間もなく勝手に膨らみだす。望ましくない場所に血液が集まり始めたのに気づかないわけにはいかなかったが、懸命に脳味噌に戻そうと努力はした。・・・たいして効果は無かったようだが。
「あ・・・朝、まで?」
レーネが心もとなげに首をかしげ、捩れた黒髪の一房が頬にかかった。
「ダメ?」
もうダメだ。弾丸が、今度こそ心臓を貫いた。こんな、風に揺れる花のような儚げな風情を見せられて、抵抗できるはずがない―したいとも思わないが。即座に応諾しようとしたが、どういうわけか舌がふくらんだみたいに上顎に貼りつき、声が出ない。しぐさで伝えようにも、全身の筋肉が固まってしまって動けない。何とか意思表示しようと、必死で彼女を見つめる。
「それならとりあえず、コーヒーはいかが?私が、本物のコーヒーを淹れてあげる」
そう、コーヒーを飲みながら、朝まで話をするだけだ・・・信頼できる、友達として。俺がずっと妄想し続けてきたような不埒な展開なんて、レーネはこれっぽっちも頭にないだろう。落ち着いて、紳士的に振舞うんだ・・・何をどうするのが紳士的だったか、さっぱり思い出せないにしても。コーヒーでも飲んで頭をすっきりさせとけば、寝ずの番をしていても、妙な気を起こすことも無いだろう?
うん、と言え!「良かったら、フェンネルシード入りのビスケットも焼くから・・・」
さっきあれ程出血したというのに、たぎる血の気はまだ余っていたらしい。どくどくと駆け巡る血流のせいで、怪我をした腕が燃えるように疼く。だがその痛みも、欲情を鎮めるどころか、いっそう煽り立てるだけだった。おまけに、さっき暴れたせいでアドレナリンが無駄に放出されっぱなしになっているらしく、興奮は治まる気配を見せない。血が沸き立ち、体が反応して、妄想が一気に走り出しそうになるのを必死で押し止めた。待ち望んできた機会が、今やっと転がり込んできたのは、何か運命の力が働いたに違いない。運命を紡ぐ者がいかに気まぐれかはよく分かってる。慎重に、細心の注意を払って、事を運ばなければ・・・焦って何もかもぶち壊しにしてしまわないように・・・絶対に軽々しく彼女に触れたり、腕に抱いて体を押し付けたり、唇を・・・
「もし、あなたがそれを欲しいなら・・・」
欲しい!!
と叫ばなかったのは、単に声が出せなかったからだ。彼女が別のものを指して言ったことに気づいたのは、その後だった。情けないことに彼の体はすっかりその気で、ズボンの前がきつくて身動きもできない。彼女が気づいていないのが―頼む、気づかないでくれ―救いだったが、この状態でのこのこ部屋について行ったりしたら・・・だが、このチャンスを逃せばもう後が・・・
自分でもじれったいほどの時間が過ぎ、彼女の気が変わってしまうのではないかという恐怖に駆られ始めた頃、やっとのことで頭が動いた。