Glanz des Gold, Strahl des Silber 5



 

・・・何してるんだろう、私・・・

コーヒーミルのハンドルに手をかけたまま、ケトルの底を舐めて揺れる青い炎をぼんやりと見つめた。

・・・こんなことしても、意味無い・・・

意味が無いばかりか、こうやってぐずぐずと別れの時を遅らせれば、それだけ苦しみを長引かせることになる。それは分かってる。そして、それでも彼を引きとめようとしてしまうことも分かっていた・・・

・・・「一番信頼している」なんて・・・言わなければ良かった・・・

渋る警官達を説得しようと必死になっていて―自分でも無茶な要求をしていることは自覚していたので―深く考えもせず口にしてしまい、口から出た瞬間、胸がぎゅっと痛んだ・・・それが、まぎれもない真実だったから。責任感の強いザックスは、あれを聞いて、追い詰められてしまったのかもしれない。彼女が動揺を見せるたびに気遣い、心から心配してくれて・・・その優しさに甘えずにいることが、彼女にはできなかった。結局彼は、彼女の無理な頼みを断りきれず、ここに居ることを承諾してくれた。あんなにためらって、二の足を踏んでいたのに・・・

・・・それが・・・ザックスだから・・・

彼が躊躇するのも当然だ。もし、もしも自分がザックスの恋人だったら―そう仮定するだけで胸が軋む―どんな事情があったにせよ、彼が他の女性の部屋で一夜を明かしたと聞けば、心穏やかではいられないだろう・・・彼に限って、何も間違いは無いと分かってはいても。ザックスは他人の気持ちを思いやることのできる人だ。きっと、私への同情と、恋人への忠誠の板挟みになっていたに違いない。そして最終的に、義務感から、目の前の私の苦しみに手を差し伸べてくれた。その苦渋の選択を思うと、申し訳なさに身がすくむ・・・それなのに心の奥底ではまだ、かすかな声が聞こえる。

・・・このままずっと、傍にいて・・・

しゅーしゅーという音に気づいて目を上げると、コーヒー用のケトルの細い注ぎ口から、勢いよく湯気が上がっていた。挽き終わったミルを押しやり、のろのろと手を伸ばして火を消す。習慣になった一連の動作で、木製の取っ手を掴んで大理石のカウンターの上に移し、少し冷ますためにフタをずらした。ガラスのポットに陶器のフィルターホルダーとフィルターを乗せ、挽きたてのコーヒーの粉を移す。

こんな騒ぎになってしまったからには、明日の朝一番で両親のところに知らせが届くだろう。もしかしたら、もう、届いているかもしれない。そうすればすぐにも迎えが来て、連れ戻されることになる。やっと色々なしがらみから解き放たれて、自由な生活を送れるはずだったのに、1ヶ月も経たないうちに終わり。ずっとやりたかった、大好きなハーブの勉強も。そして・・・

レーネは首を振って不毛な思考を否定した。彼の血を見た時の衝撃を思い起こす。あの時、自分の間違いを思い知らされた。自分がどれほど身勝手だったか、そのせいで周囲にどれほど迷惑をかけたか。私は、彼と一緒にいるべきじゃなかった。二人は一緒になれる運命じゃなかった・・・

苦く、胸につかえる事実だった。それを飲み込むのは一苦労だったけど、やっと―遅蒔きながら―辛うじて受け入れる気持ちになった。・・・たぶん、ダーヴィトに話しかけるザックスの穏やかな笑顔を見た時から、分かっていたような気もする。彼は皆から愛される、素晴らしい人だった。彼女などには手の届かない人だった。最初から叶わぬ恋だったんだ。一目惚れして舞い上がった愚かな彼女が知らなかっただけで・・・

ぼんやりして時間を忘れていたことに気づき、慌ててケトルを取り上げた。お湯が冷め過ぎてしまったかもしれないと懸念しながら、細か目に挽いたコーヒーの上に回し注ぐ。ふわりと粉が盛り上がって、淡い褐色のクリーム状の泡が立ち、芳ばしい香りが漂った。手に当たる蒸気はまだ熱く、お湯は思ったほど冷めてはいなかった。

明日になれば、再び彼とは遠く離れてしまい、もう二度と会うこともない。

・・・これでお終い・・・これが決められた運命、決められた結末・・・

<でも、だとしたら、何をためらってるの?もう何も失うものなど無いのに、どうして?>

突然、声が胸を射抜いて鳴り響き、体が凍りついた。視界の片隅でちらりと赤い光が瞬いた気がした。

今のは私の声?消しきれない本当の心?私は、まだ、抗おうとしているの?とっくにあきらめたはずなのに・・・あきらめていなければならないのに。

強いて手を動かしてお湯を注ぎ足し、作業に集中することでその声を無視しようとした。けれど、その響きの衝撃は体から消えず、胸の傷口から噴き出した闇色の流れは徐々に勢いを増して、熱を帯びた渦の中に彼女を引きずり込んでいった。

・・・私は・・・

彼の大切な誰かから彼を奪おうなんて―奪うことができるなんて思ってない。彼だって、私のことには興味が無いと、はっきり言い切っていた。何度も。

・・・でも、もし・・・もし、一晩だけでも彼に愛してもらえるなら・・・例えそれが体だけだったとしても・・・

官能的とも言える力強い芳香の中に立ちつくし、透明な器の中に滴り落ちてゆく濃い褐色の液体をじっと見つめた。
 
 
 
 
 
 
 
 

最上階、というのは聞いていた。だが、3階部分が全て、彼女の部屋だとは思わなかった。

彼がどうにかこうにかうなずいたのを、彼女はちゃんと見たのかどうか、くるりと踵を返して、さっさと入り口の階段を上がっていった。慌てて追いかけ、薄明るい門灯に照らし出された5段ほどの石段を急ぎ足で登る。逸る気持ちに足が追いつかず、足元がもつれるように感じた。鞄から鍵を取り出して開けている彼女にぶつかりそうになって急ブレーキをかけ、直後に、振り返りもせず入っていくすらりとした背中に貼り付くように、そそくさと続いた。目を上げて周囲を見回した途端、自分がとてつもなく場違いな場所にいるのに気づいた。

落ち着いた色調の広い玄関ホール―彼のささやかな自宅がすっぽり入りそうな―は、淡い色彩の高いドーム天井で覆われ、周囲に取り付けられた睡蓮の形の照明器具が、複雑で柔らかな明かりを投げ掛けていた。正面のオークル壁の大きなアルコーブには、植物の彫刻に縁取られて中世風の衣装の娘が立ち、白く滑らかな石の手に持った石の花を見つめて微笑んでいる。その、どことなくレーネに似た面立ちについ見入っている間に、レーネは、御影石の床に敷かれた、藍を基調として色とりどりの繊細な異国風模様に彩られた絨毯を踏んで、さっさと右手の階段の方に向っていた。玄関ホールに面した広く明るい階段は、つる草を模した上品な装飾でまとめられていて―たしかユーゲントシュティールとかいうんじゃなかったろうか?―緩やかな半円の螺旋を描いて、天に向って伸びている。なんだか自分がどこかの宮殿に迷い込んだ熊のような気がしてきて、思わずレーネを窺い見たが、彼女はやはり振り返らず、まっすぐ階段を上っていった。ザックスはためらいがちに、彼の年収くらいは―もしくはそれ以上の―値が張りそうな絨毯に足をかけ、彼女の優雅なお尻を―いや、背中を見つめて、階段を上り始めた。
 
 
 

実を言えば、彼の部屋も最上階にあった。一度に一人しか通れない、今にも崩れ落ちそうな暗い階段を上がり切ると傾いた踊り場があり、彼が立つと少しばかり窮屈なそのスペースを隔てて、彼の部屋のドアと隣人の部屋のドア―彼よりかなり年上の、自称詩人が住んでいる―が顔を突き合わせている。中は、雨の浸み込む斜めの小窓が一つきりの狭苦しい空間で―その窓とて別に眺めが良いわけでもなく、剥き出しの梁に何度か頭をぶつけたこともある―歪んだテーブルと脚の取れる椅子とうるさく軋むベッドが詰め込まれた、屋根裏か、物置と言った方が正確なくらいの場所だった。
 
 
 

だが、ここはまるで別世界だ。彼は今、高級家具屋のディスプレイのようなしつらいの中で、独りぽつんと手持ち無沙汰に座っていた。聖域とも言うべき彼女の部屋に初めて踏み込んだ―そのことは考えるな!―というだけでも気が引けるのに、傷一つ無いガラスのテーブルや、しっとりした深紅色の丸みを帯びたスエードのソファや、その他、上品な焦茶色で統一された、見るからに上質で使い心地の良さそうな家具の数々―そのいずれもが、優美で、しなやかで、アシンメトリーなシルエットがどこかエキゾチックな風合いを醸していた―に囲まれていると、どうにも奇妙な気分になった。樅の林を思わせる灰褐色の壁には、適度な間隔を置いて百合型のブロンズの壁灯が取り付けられ、それとは別に、紙を張った木製の細長いランプが床に置かれて、柔らかな光を広げている。天井には、波か、あるいは雲のような渦巻きの形が彫刻されていて、まるで屋外にいるような不思議な印象を受けた。・・・彼はどんな時でも、どんな場所でも、緊張したり怖気づいたりすることは滅多に無かったが、正直に白状すると・・・萎えた。

不適切かつ不面目な肉体的反応が治まったのは喜ぶべきことなのだろうが、こんな所でぼんやり座っているために来たわけではないし、彼女の姿が見えないのはイヤだった。レーネに早く戻ってきて欲しい。腿に肘をついて、開いた膝の間に垂らした手を組み、所在無げに親指を擦り合わせた。

彼女が戻ってきたら、まず、注意深く様子を確認しよう。落ち着いたようだったら、最初に今日のことを詫びて、彼女が赦してくれたら―たぶん赦してくれるだろうが―何か世間話でもしながらコーヒーを飲む。そしてそれから・・・それからどうする?

悩むほどの事でもない。向かい合ってゆっくり打ち解けた話をするのでもいいし―考えてみれば、彼女が結婚のことをどう思っているのか、きちんと話を聞いたこともなかった―もし彼女の不安が和らいで、眠ることができるようなら、寝顔をずっと見守っていてもいい。必要なら、肩でも膝でも貸してやる・・・いや、さすがに膝はまずいか・・・

身じろぎして、どっしりと沈むソファに深く座りなおした。適度に弾力のある背もたれに背中を預けて、斜め後ろを振り返り、彼女の消えた方を見やる。窓際に近い壁の手前に置いてある、黒い三連の木枠に張られた、複雑な光沢のあるパールグレーの大きな布の向こうには、おそらくキッチンがあるのだろう。先程までは何か物音がしていたのだが、今は静まり返っている。たぶん、もうすぐ戻ってきてくれるに違いない。

再び彼女の居間に目を戻し、もう何度目かに、部屋の中を見回した。隙間風など決して入り込めそうもない、しっかりした大きな窓は、先程レーネがどっしりした朽葉色のカーテンを下ろしていったので今は隠れているが、昼間はきっと陽の光がいっぱいに降り注ぐのだろう。意外にと言うべきか、絵や置物といった飾り物の類はほとんど無く、全てがシンプルで、洗練されていて、高級そうだった。ただ、小さな陶器の鉢やガラスの器に生けられた植物―ハーブか?―がいくつか飾られていて、ほっと和ませられる。居心地だって、決して悪いわけではない。総じて快適だし、見慣れればむしろくつろげる部屋だと分かる。ただ、やはり、あまりにも綺麗で、繊細で・・・官能的だった。いや、そう感じるのは、彼女と二人きりでここにいると分かっているからか・・・

思考がまずい方へさまよって行きそうになったので、彼は軽く咳払いし、足元に目を落とした。磨き込まれたつややかなチョコレート色の硬い樫材の床―もちろん歪みも無ければ軋みもしない―の上には、足首まで埋まりそうな、毛足の長い淡いグレーのラグが敷いてある。ソファの色のせいか、濃密な毛の先がほんのりと艶めいたサーモンピンクがかっているように見える。柔らかくて、温かそうだ。これならベッドまで行かなくても、この上ででも・・・

背後で物音がして、ぎくりと正気に戻った。ゆっくりと振り返ると、東洋風の折り畳み式の衝立の陰から、トレイを手にしたレーネが現れた。


 

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