LUX ÆTERNA 2



 
どうすりゃいいんだ。

キッチンのテーブルの向こうから、年増の美人が疑わしげな視線を向けてくる。無理もないのだが。

そうでなくとも、自分の見てくれが無骨で、洗練されているとは到底言い難いことは自覚している。その上、今はしわくちゃのシャツによれよれのズボン、頬から咽喉にかけては濃い無精髭が伸び放題になってるはずだ。一応、大慌てで服を探して身に付けはしたものの、当然ながらシャワーを浴びる暇など無かったし、髭も剃れなかった。さらに言えば、ショーツもはいてない。

レーネはこちらに背を向け、かちゃかちゃと小さな音を立てながらコーヒーを入れている。柔らかそうなコットンのローブの上で、ゆったりと束ねて垂らした髪の先が踊るように跳ねている。ミルク色のすらりとした足が、白いふわふわしたスリッパを履き、音も立てずにきびきびと動く。あの旨いコーヒーがまた飲めるのは嬉しいが、今は文字通り目の前の問題の方が気にかかる。

レーネはどうやら父親似らしい。彼の向かいに座っている母親は、やはり絵に描いたような美女ではあったが、レーネとはちょっとタイプが違っていた。腕の良い職人が丁寧に仕立てたと思しき辛子色のスーツに包まれた小柄な体は、線が細く、はかなげで、肩の上で斬新にカットされた白っぽい金髪はこまかくちぢれ、上品な面立ちをふわふわと縁取っている。いかにも、世間の荒波に晒されたことの無い、綺麗なお人形という印象だ。レーネが強烈に人を惹き付ける聖母かヴェーヌスとすれば、母親の方は無邪気な天使かエロース―多少、歳を食った天使ではあるが―といったところだ。ただ、レーネとは色が違うものの、やはり深く澄んだ琥珀色の瞳には、人をはっとさせるような、何か強い力が秘められていた。

かちゃ、と目の前にコーヒーが置かれ、芳ばしい香りに、一瞬気がかりを忘れた。レーネが隣の椅子を引き、やや遅めの動きでゆっくりと腰掛ける。壁と天井の境で弧を描く天窓の、光の加減で色合いを変えるガラスから、きらきらと複雑な輝きがテーブルを横切ってこぼれ落ちている。母親は、二人をかわるがわる見ながら黙っている。レーネも、テーブル上の小さな花瓶に挿さったセージの花を見つめて黙っている。そして彼も、優雅なカップとソーサーの青いアラベスク模様に見入ったまま黙っていた。

もちろんレーネの両親にはなるべく早く挨拶に行くつもりだったのだが、こういう展開は完全に予想外だった。この状況では、どうひいき目に見ても、彼は娘をたぶらかしたろくでなしにしか見えないだろう。しかも、事実、それに近い。二人がついさっきまで何をしていたか、たいして想像せずとも、一目瞭然のはずだ・・・しかも母親の頭上で。

レーネの母親は、また娘の顔からローブの合わせ目に目を遣り、それからまた何度目かに溜息をつきつつ首を振り、そしてまたお決まりの手順のように彼に鋭い視線を浴びせた。針のむしろとはこのことだ。・・・あるいはまな板の上の鯉か。レーネがドアを開けた途端、勢い良く入ってきた母親は、一気にしゃべり始めようとして彼に気づき、と同時に―さすが母親と言うべきなのだろう―レーネの胸元のキスマークに目を留めた。まあ、もしかししたらそれは、機先を制するために、レーネがわざと見せつけたのかもしれないが。

実際、母親は、冷ややかな堅苦しい挨拶を返した後、ぴたりと口を閉ざし、キッチンに向かう途中で、居間の赤いソファの陰にクリーム色の小さなシルクの布切れが落ちているのを見つけた時も、細い翼の形の眉をピクリと上げただけだった。さっき大慌てで服を拾い集めた時、よりによってそのちぎれたパンティ―というか、彼がちぎり捨てたパンティ―を見逃していたのだ。彼は凍りついたが、レーネは慌てることもなく、ハンカチでも拾うようにそれを拾い上げ、ローブのポケットに突っ込んだ。

レーネはゆったりとコーヒーをすすり、今度は、窓際で揺れるローズマリーの一群れを眺めている。母親も用心深そうにコーヒーをすすり、今までと変わらず、二人を見比べている。彼は唇からカップを離し、密かに溜息をついた。このままじゃ埒が明かねぇ。よし、ここは俺がはっきり・・・

「私、この人と結婚するわ」

いきなりの断定口調にぎょっとしてレーネの方を見たはずみに、ソーサーに下ろしかけていたカップからコーヒーがこぼれた。すかさずレーネが手近のナプキンを取り、かいがいしく彼の手やテーブルを拭く。母親は片手にカップを持ったままぽかんと口を開けて―上流の婦人にあるまじき様相で―娘を凝視し、彼同様に固まっていたが、ショックから立ち直ったのは彼より早かった。

「・・・あら、そう。でもそれにはまず、相手の同意がなくてはね。見たところ彼は、あなたの発言に衝撃を受けてるようだけど・・・」
「いや、俺は・・・」
「彼が申し込んでくれたの。昨日。もう誓約済みよ」

レーネの顔に、例の、一歩も引かない表情が浮かんでいる。母親は眉間と鼻に皺を寄せ、天使のように可憐な顔―まあ、目尻にも多少の皺はあるにしても―をしかめた。意外に表情豊かな女性だ。

「なあ、思うに・・・」
「そう、それは喜ばしいことね。でも、それほどの重大事をそんなに簡単に決めるなんて、もしかしたらあなたは、ちょっと衝動的になってるんじゃないかしら。昨日は大変なことがあったそうじゃない」
「それとこれとは関係ないわ。・・・まったく無くはないかもしれないけど、そのせいじゃない」

最後の言葉は確認するように彼の顔を見て発せられたので、彼は力強くうなずいた。

「ああ、俺は・・・」
「そういえば、怪我をしたんですって?私もシャルルも死ぬほど心配したのよ」

女同士の会話に口を挟むのは一苦労だというのは妹達で知っていたが、他の国でもそうだとは知らなかった。

「具合はどうなの?」
「ごめんなさい。でも、見てのとおり元気よ。彼のおかげで」

レーネが言外に滲ませた意味を母親は感じ取ったようだったが、さらりと流した。

「そのようね。本当に、心からお礼を申し上げます」

上質な琥珀のごとく透き通った瞳で、彼を射通すように真っ直ぐに見てから、母親は娘の頬と首の痣にちらりと不審げな目を走らせた。もしかしたら、彼が彼女に怪我を負わせたと疑われているのかもしれないと感じ―まあ、守りきれなかったという意味では確かにそうなのだが―一応、釈明しようとした時には、レーネが憤然と言い返していた。

「彼は銃で撃たれたのよ。お礼を言うだけじゃ足りないでしょう」
「いや、それは・・・」
「ええ、分かってますとも。本当に、どんなにお礼をしても足りないくらいね。・・・でも、感謝の気持ちからプロポーズを受けるというのは・・・」
「もちろん違うわよ。彼を愛してるからに決まってるでしょ。私は彼と一緒にいたいと願ってた。ずっと」

胸が熱くなり、テーブルの下で左手を伸ばし、レーネの膝をぎゅっと掴んだ。レーネがふっと口許をほころばせて微笑み返す。だが母親は感銘を受けた様子も無かった。

「あなたは、ここに来てからまだ・・・」
「時間は関係ない、って、ママ、言ってたわよね?正しい相手に出逢ったら分かるって。ママがパパと出逢った時みたいに」

母親が口の中で小さく舌打ちしたように聞こえ、ザックスは耳を疑って、まじまじと目の前の上流婦人を見つめた。だがレーネも母親も、特に気にした様子はない。空耳だったのかと考えかけた時、彼の向かいでコーヒーカップがかちりと音を立て、全く感情を伺わせない、心を失くした人のような声が響いた。

「それならなおさら、時間を置いて考えてみてもいいんじゃないかしら。お互いに、少し離れて、自分達の気持ちをしっかり確認するの。身の危険に迫られていない状態で、ゆっくりと、落ち着いてね。とりあえず、下に車を待たせてあるから、一緒に帰りましょう。これから、すぐ」
「えっ・・・」

思いもよらなかった痛烈な一撃を喰らい、言葉を失った彼とは対照的に、レーネは猛然と反発した。

「私は帰らないわ!ここで、この街で暮らすの。彼と。離れるなんてとんでもない!」
「こんな所で、何が起こるか分からない・・・」
「どこに居たって同じよ!人生なんて、何が起こるか分からない。だからこそ、一緒に居られる限りは一緒に居たい。ひと時だって、無駄にしたくないの!」
「なあ、落ち着・・・」
「また離れ離れになるなら、私が生きている意味なんて無い!彼と生きられないなら、死んだ方がましよ!」

一瞬おいて、涼やかに通る声が静寂を破った。

「あなたの気持ちは分かった。でもあなたは、自分のことをちゃんと彼に話したの?」

初めてレーネが怯み、軽く唇を噛んだ。彼はやっと助け舟を出す隙を掴んだ。

「親父さんのことなら・・・」
「私のことは?」
「あなたのこと?」

きらりと光った琥珀の瞳を、眉をひそめて見返してから、隣を向いてレーネを見た。レーネは後ろめたそうに長い睫を一度瞬かせたものの、しっかりした声で切り出した。

「母は結婚前まで・・・女優の名を借りた・・・」

そこでレーネはためらって言葉を切った。彼は、職業的偏見は無いことを告げようとしたが、レーネはすぐに言葉を続けた。

「・・・スパイだったの。それも二重スパイ。母は昔、祖父の仕事の都合で、長いことこっちで暮らしてて、それで、その時に例の組織に目をつけられて・・・向こうに帰ってから、こちらから送り込まれてたスパイが接触してきたの。こちらで親しかった人達の身が心配なら、向こうの将校を誘惑して、機密情報を探るようにって。母は友人達を守るために要求に従うフリをして、偽の情報を流したり、向こうで活動してるスパイを探したりしてたそうよ。父とはそれがきっかけで出会ったんですって。・・・すべて、あの不幸な戦争が始まる前の話よ」

思わず低い唸り声が漏れた。

「・・・なるほど」

向かいの女性が、ほら御覧なさい、という表情をしたので、きっぱりと言った。

「俺が言ったのは、あなた方が流暢に外国語を話す理由が分かったってことです。レーネはあなたから習ったんですね」

琥珀の瞳が虚を衝かれたように円くなり、それから訝しげに細まった。

「つまりあなたは、この子が、正真正銘、敵の娘でも気にしないと?」
「全然」

隣でレーネが息を漏らす気配を感じた。

「問題はそれだけですか?じゃあ・・・」
「じゃあ、この子自身のことは?何か聞いてる?」

つい、うんざりした口調になった。

「レーネもスパイだったんですか?」
「そんなわけないでしょう。この子は終戦の時、まだ10歳にも満たなかったのよ。しかも4歳の頃からずっと海の向こうに居た。父親にもほとんど会えずにね」

それを言うなら彼も、10歳の時からずっと父親には会ってない。だが、余計な話をするのは控えた。

「私はそれが普通だと思ってたわ」

レーネが唇を尖らせるのを横目で見ながら母親に尋ねた。

「それじゃあ、何が問題なんです?」

すっ、と、片手を上げて思わせぶりに横髪を耳に掛け、母親は巧みな女優のように―実際そうだったわけだが―優雅に首をかしげて見せた。

「そうね、それを問題と言うかどうかは、あなたの考え方次第ね。実はこの子は・・・」
「ママ。止めて」

聞いたこともないほど鋭い口調でレーネが割って入った。

「私はそんなつもりは無いんだから」
「どんなつもりが無いんだ?」

一瞬返事に詰まったレーネが、文字通り、まばたきした隙に、母親が答えた。

「伯爵位を継ぐの。御祖父様のあとにね」
「伯爵?」

思わず勢いよく隣を振り向いた。

「お前確か、自分は貴族じゃないって・・・」
「違うわ。今も違うし、この先も違う。爵位を継ぐ気は無いの」
「そんなことできるわけないでしょ。それに、あなたの生まれは、結局のところあなた自身なんだから、偽ることはできないのよ」
「それなら私は、過去もそのしがらみも全部捨てるわよ。喜んで」

母親がさっと口元に手を当ててくぐもった悲鳴を漏らし、悲愴な表情で絶句した。見開いた天使の瞳がじわじわと潤み、ザックスは古傷が疼くような心の痛みを覚えた。

「おい、レーネ、いくらなんでもそれは・・・」
「騙されないで、ザックス、母は・・・」
「ダメだ」

意図したより強い口調になってしまい、レーネだけでなくその母親までびくっとして動きを止めた。が、これだけは言わなきゃならねぇ。

「俺はお前に、家族との縁を切るようなマネは二度とさせねぇ」

二度と?

言った瞬間、疑問を感じたが、既に言葉は口から出ていた。レーネもその言葉を耳に留めたようだった。

「『二度と』?」
「いや、つまり・・・」

わずかに言いよどみ、とっさに頭に浮かんだことを口にした。

「お前はこっちで素性を隠して住んでただろ。それは親と縁を切ってたようなもんだ。俺はお前に、そんなふうに、自分を否定するようなことはさせたくねぇんだ」

何か違うような気はしたが、それが一番筋の通った説明に思えた。レーネも、あやふやながら納得したように口をつぐんだ。

「俺はお前が、あるがままのお前で、自信と誇りを持って暮らせるようにしてやりてぇ。何も恐れず、幸せに・・・希望に満ちて。そのために俺は力を尽くす。俺がお前を守る。今度こそ」

レーネが何かを言う前に、母親が薄い色の睫をまたたき、不思議そうな眼差しを向けてきた。

「あなたは本当に気にならないの?この子が何者でも?」
「彼女が何者かは知ってる。俺が心から愛し求め、生涯を共にする女性だ。それだけ知ってりゃ、俺には充分だ」

様々な想いが複雑に交錯した奇妙な沈黙が落ちた。ふいに透き通った琥珀の瞳が彼から離れ、娘を見た。

「・・・なんとまあ。本当に見つけたのね」
「だから、そう言ったでしょ」
「ええ、そうね」

唐突に、輝くシルバー・ブロンドの髪を揺らして母親が立ち上がった。

「じゃあ、これで失礼するわ」
「えっ?」
「もう帰るの?」

レーネが驚いた様子で腰を浮かせた。彼も慌てて立ち上がった。レディが立つ時にはそうするものだというくらいの常識はある。

「用は済んだし、それにお邪魔でしょ?」

彼を見る、冷たいほどに澄んだ瞳には、いたずらっぽい、温かな光が煌いている。

「あの・・・」
「また今度、改めて御挨拶しましょう。今度は不意打ち無しで・・・ちゃんと下着を付けてる時にね」

かあっと顔が火照った。

「ママ!お行儀良くして!」

そうか。彼もやはり、この女性の可憐な見かけにすっかり騙されていたわけだ。何と言ってもレーネの母親だ。当たり前の女のはずはなかったのだ。

「そうそう、もちろん、娘を助けていただいたお礼もしなくては」

ごほ、と咳き込み、乾いて貼りついた咽喉から、どうにか言葉を引っ張り出した。

「いや、その、そんなことは・・・」

ひらひらと手を振って行きかけた母親が、急に足を止めて振り返った。

「ああ、そう言えば、あなた・・・」

来た。
ザックスははっと気を引き締めて続きの言葉を待った。ここまで彼自身の素性については全くと言っていいほど詮索されなかったので、むしろ奇妙に思っていたのだ。

「すっかり訊くのを忘れてたけど、御職業は?」

普通、忘れるようなことか?警戒しつつも、胸を張って答えた。

「靴屋です」
「職人?」
「ええ。今は雇われてますが、近いうちにマイスター試験を受けて独立したいと思ってます」

母親は溜息をつき、それから―意外にも―満足そうにうなずいた。

「そう。自立した仕事ね。悪くないわ」

難癖をつけられることを覚悟して身構えていた彼は、拍子抜けして呟いた。

「・・・それはどうも・・・お母さん」
「クレールと呼んで」
「クレール?」
「そうよ。家族なんだから、名前で呼んで」

真っ直ぐな眼差しに、素直にうなずき返した。

「わかりました、クレール。じゃあ俺のことはザックスと」

はっとするほどレーネに似た、屈託の無い笑みが返ってきた。

「シャルルにも―この子の父親にも、なるべく早く会いに来て。私から今日の話を聞いたら、きっと大爆発するわよ。ああ、楽しみ」

そんなことを楽しみにされても・・・

「そうね、一つ忠告するとすれば、攻め込んでこられる前に打って出た方がいいわ」
「そのつもりです」

間髪をいれずに答えると、クレールは、大丈夫かしらと言わんばかりに、大きな目をくるりと回した。

「あの人は一筋縄じゃいかないわよ。きっと、あなたを滅多打ちにしようと、手ぐすね引いて待ってるわ」
「ママ、いい加減、彼を脅すのはやめて・・・」
「覚悟してます」

レーネの肩にごつい腕を回して引き寄せ、きっぱりと言い切ると、形の良い可愛らしい唇から、ふふっと、愉快そうな笑い声が漏れた。

「頼もしいじゃない。・・・ああ、それからもう一つ・・・」

つかつかとハイヒールの音を立てて戻ってくると、クレールはすらりと細い人差し指を、テーブル越しに彼の胸に突きつけた。

「やるのは構わないけど、節度を持ってなさい。ウェディングドレスのデコルテがアザだらけというのは、いかがなものかと思うわ」

彼はレーネの肩をがっちり掴んだまま再び赤面して言葉を失ったが、レーネはローブの腕を組み、たじろぎもせず言い返した。

「ただのキスマークじゃない」

実際には指で掴んだ跡や、髭ですり傷もつけてしまっているが、そういう問題でもない。彼は恥じ入り、大きな体を縮こまらせたが、レーネのユニークな母親は、キュートなウィンクを一つ投げて寄越すと、踵を返した。


 

 続き Fortsetzung

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