LUX ÆTERNA 3



 
「ありがとう、ザックス」

吹き抜けの明るい螺旋階段を意気揚々と下りていく母親を見送り、レーネが振り返った。

「は?」

彼女の感謝の言葉を聞くと、なぜかいまだに緊張する。ドアを押さえて彼女を先に通しながら、腕に力が入った。ローブ姿の襟元から、甘い匂いが香る。強いて意識をドアに振り向け、鍵を確認してから部屋の方に向き直ると、レーネはすぐ傍に立って彼を見上げていた。ヒールの有る靴を履いていてもレーネの身長は彼の目の下くらいまでしかないが、ヒールが無いと、ようやく顎に届くかというところだ。だが、真っ直ぐに見つめてくる蒼い瞳の力は強大で、彼の方が彼女の中に吸い込まれて溺れてしまいそうな気がする。かがみ込んでピンク色の唇に唇を合わせたいという衝動に身を任せようとした瞬間、ふんわりした唇がややためらいがちに囁いた。

「母に私のことを・・・『愛する女性』って・・・」
「ああ・・・」

そういや昨夜は―今朝も―切望に押されてなしくずし的に体の関係に雪崩れ込んでしまったせいで、まだちゃんとレーネに告白してなかった気がする。たぶん彼女は自分の想いを分かってくれてるとは思うが、こういうことはきちんとしとかなきゃならねぇもんだろう。特に女にとっては。彼は己の欲望をいったん引っ込め、ゆっくりと身を引いて、彼女の足元に片膝をついた。

「えっ、ザッ、ザックス?」

レーネがうろたえ、彼の肩に触れようと手を伸ばしてくる。その手をがしりと掴み、両手で包んで、低く真剣な声で告げた。

「レーネ。お前を愛してる。生涯・・・いや、この命が終わっても、永遠に、俺はお前だけを求め続ける。ずっとお前を愛し敬い、お前の信頼に応え、お前を守る。この心は決して変わらない・・・変えることはできない。何者にも」

話しているうちに気持ちが昂ぶって声がかすれた。彼女の手を強く掴んで引き寄せているせいで、求愛というよりは脅迫みたいになってしまっているが、手を緩めることができない。

「頼む。どうか俺を信じ、俺を受け入れて欲しい。俺にもう一度チャンスをくれ。お前も俺を必要としてくれてると・・・お前を探し続けてた俺を待ってたと言ってくれ」

黙って目をしばたたいているレーネの、感情を押し殺した顔を見つめるうち、ザックスの心に不安が募った。何かもっと説得力のあることを言わなきゃならねぇだろうか?何か強く心を動かせるようなことを。だが、口下手ゆえに、これ以上はどう言っていいか分からない・・・

「ザックス・・・一つだけ約束してくれる?」

ふいにレーネがかすれた声で囁き、ザックスははっとした。

「なんだ?」

レーネは舌先で軽く唇を舐め―そそられている場合ではないと分かってるのに、彼の体は勝手に反応する―頭の固い分からず屋にゆっくりと言い含めるように話し始めた。

「あなたが私を守りたいと思ってくれてるのと同じように、私はあなたを守りたい。傷ついたり苦しんだりして欲しくないの・・・できる限り。だからあなたは、私を大切にしてくれるのと同じように、あなた自身のことも大切にして?私を守るために無茶なことをしたりしないで?そしてもし・・・万一、私に何かあったとしても、そのことで自分を責めて自暴自棄になったりしないで」

ザックスはしばし考えてから、厳かに呟いた。

「・・・分かった」
「私のために銃で撃たれるようなことも、二度としないでね?」

それは何とも言えない。ザックスは低く呻いて黙り込んだ。できることなら、何でも彼女の言う通りにすると言ってやりたいところだが、嘘はつきたくない。もしまた昨夜と同じようなことがあったら、彼はためらわず盾になるだろう。だが、それで彼女が辛い思いをするとしたら、彼にとっても辛い。

「ザックス?」
「・・・お前を悲しませないように、努力する」
「それじゃ・・・」
「それ以上は保証できねぇ。なぜなら、それが俺だからだ」

はっと息を呑む音が聞こえた。見開かれた夜明け前の蒼を、真っ直ぐにじっと覗き込む。視線が絡み合い、互いに、互いの心の奥底にある想いを見た。やがてレーネは小さく咽喉を鳴らし、承諾の印にそっと頷いた。

「よし、じゃあ、お前も約束してくれ」
「私が?」
「そうだ。お前も、俺のために自分を犠牲にしようとしたりするな。お前がこれまで生きてきた過去、培ってきた全て・・・それからお前自身の命も、簡単に手放しちゃならねぇ。もし、どうしても、どうにもならねぇって思った時は・・・」
「思った時は?」
「・・・俺に相談しろ」

掴んだ小さな手からふっと緊張が消え、鈴のように軽やかにレーネは笑いだした。

「俺は本気だぞ」
「ええ、分かってる。・・・相談するわ」

まだクスクスと笑っている彼女―やっぱり、笑っている彼女は最高にきれいだ―を軽く睨んで、念を押す。

「あっちのことが恋しいとか、やっぱり実家に帰りてぇって思ったりした時も、黙ってないでちゃんと教えろよ」
「はい、そうします。もし、そんなことがあったら」

レーネは小さく肩をすくめたが、それでも真面目な口調で答えた。

「約束だ」
「約束ね」

食い入るように見上げる彼の上に、レーネがそっとかがみ込んできた。問い詰める形に突き出した彼の唇に、優しい唇がそっと触れて、離れる。甘い幸福感がふんわりと体中に広がり、漂った。

「良かった。じゃあ、これで正式に婚約は成立だな?・・・あっ、クソ、ちくしょう!!」

またしても肝心なところで不適切な悪態を吐いてしまい、ザックスは自分で自分を蹴り飛ばしたくなった。レーネが彼に手を掴まれたまま、怪訝そうに優美な眉をひそめる。

「ええと、その・・・俺、まだ、指輪を用意してねぇんだ。こんな急にこんなことになるとは思ってなかったから・・・」

というか、レーネが振り向いてくれるかどうかも分からなかったんだから、そんな状態で指輪を用意するのは傲慢というものだろう。とはいえ、絶対に彼女を得る決意だったことを思えば、指輪を買うための準備をする―あるいはせめてそのことを考えておく―くらいしておいても良かったはずだ。だが実際のところ、どういうわけか、そんなことは全く頭に浮かばなかった。これっぽっちも。

「すまねぇ。やっぱりプロポーズには指輪が必要だよな。なるべく早く用意するから。まったく、俺ときたら、順序がメチャクチャ・・・」
「あるわ」

自分への怒りと落胆の混じった思いを、穏やかな声が遮った。

「は?」
「指輪はあります。ここに」

意味ありげに微笑み、レーネは左手を―彼に掴まれていない方の手を、彼に差し出した。先端の方がほんのり色づいた、白くしなやかな指には、あの古めかしい銀の指輪がしっとりと輝いていた。

「え?でもそれは俺のじゃ・・・」
「あなたのよ」

リンとベルを鳴らすように答えて、レーネは手をかざした。天窓から深く射し込んでいる朝の陽射しを受けて、指輪がきらりと光る。美しい唇が、声を立てずに動いた。

"LUX AETERNA LUCEAT EIS"―永遠の光を、彼らの上に。

「・・・この指輪は、私があなたと幸せになれるように、神様が下さったものだと思うの」

レーネは彼の髭だらけの頬にその手を軽く触れさせてから、彼女のもう一方の手を握るごつい手に重ね、その指輪にまつわる不思議な由来を語った。彼は彼女の前にひざまずいて鈍く光る表面の消えかかった文字に見入ったまま、じっと彼女の声に耳を傾けた。

「・・・この指輪のおかげで、私はいつかあなたに逢えることを、無意識のうちに感じ取ることができた。運命を、奇跡を、信じることができた。あなた自身が、これを私に持たせてくれたような気さえするの。だから私、私達の婚約指輪として・・・結婚指輪としても、これ以上にふさわしいものは無いと思う。そうじゃない?」

訴えかけるような蒼銀の瞳から、銀の指輪に目を戻す。そう言われてよくよく見てみると、なぜか懐かしく・・・見覚えがあるようにすら思えてくる。少なくとも、この指輪が彼に対して放っている気配が、冷たい拒絶ではなく、厳粛ながらも温かく親密な歓迎であることを感じることができる。初めてこの指輪を見た時、どうして気づかなかったんだ?もし、思い込みで盲目的な嫉妬に取り憑かれてなけりゃ、その後だって気づいたはず・・・

「分かった。お前がそう言うなら」

口許をほころばせたレーネにぎこちなく微笑み返し、ほっと息を吐く。その時、わずかに緩んだ彼の手の隙間から、彼女がするりと自分の手を引っこめ、彼は一瞬うろたえた。だが、言うべき言葉を思いつく前に、彼女は素早く左手の薬指からあの指輪を抜き取ると、宙に浮いた彼の手を取った。

「え?えーと・・・」

ころんと、分厚い掌の上に載っている、小さな銀の輪を見つめる。時の流れを感じさせる鈍い輝きとわずかに歪んだシルエット、そして掌に覚えのある重み・・・

「ザックス」

目の前にそっと差し出された右手を見て、彼ははっと理解した。

「・・・ああ」

遠く小鳥のさえずりが聞こえるだけの静寂。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。厳かに、慎重に、神聖な行為を執り行う武骨な手を、天上から降り注ぐ一条の光が静かに照らし出す。輝く輪が優しい指にぴたりとはまった瞬間、心に重くのしかかっていた目に見えない鎖が―そこにあるとも気づかないほど深く食い込んでいた鎖が―揺らいで消え、歯車が繋がった。運命は、正しい者の手で、正しい場所におさめられた。

「不思議・・・」

嬉しそうに右手の薬指を撫でながらレーネが呟く。

「この指輪がこんなに綺麗だって、今まで気がつかなかった・・・とても素敵・・・」

ふっと笑みをこぼしながら膝に両手をつき、ゆっくりと立ち上がりかけると、レーネが慌てて手を差し出してきた。

「あなたの指輪も用意しなくちゃね。私、なるべく早く・・・」
「俺のはいい」
「えっ?」

戸惑うレーネの両手を両手でぎゅっと握り締め、ザックスは立ち上がった。

「仕事の時に傷つけちまうかもしれねぇし、そもそも、この指輪に見合うような指輪は、たぶん見つからねぇだろう。それに、そんなもん無くとも、俺はずっとお前のもんだ。これまでも、これからも。俺自身が、お前への忠誠の証だ」

レーネが瞼をしばたたかせ、小さくうなずいた。彼女が疑問一つはさまずに納得したことを意外に思ってもいいはずだが、そうは思わなかった。たぶん、きっと彼女も同じように感じてくれるという予感があったのだろう。潤んだ深い蒼の湖が煌き、はにかむように可愛らしく首が傾ぐ。すらりとした首筋が襟元からくっきりと映え、しっとりとした色気が立ち上った。切望が溢れ出し、何を考える間も無く、素早くかがんでふっくらした唇に触れていた。

「あ・・・ザックス・・・」

柔らかな体がうっとりと彼にもたれかかり、華奢な腕が背に絡まってくる。甘い唇を舐るようについばみながら、ローブの背を強く抱き寄せると、彼女がその下に何もつけてないことが否応なく思い出された。

「レーネ・・・」

芳しい石鹸のような香りの中に、先ほどの行為の匂いが混じり込んでいる。一気に臨戦態勢が復活した。片腕で抱き寄せて唇を貪りつつ、片手でローブの腰紐と格闘する。

「ザックス・・・仕事に・・・遅れ・・・」

キスの合間に喘ぎながらの囁きを、分厚い唇で覆って飲み込み、さらに、なめらかな咽喉を下へと滑り降りていく。

「いいんだ・・・大丈夫・・・今日は、日曜日だ・・・」
「・・・日曜日・・・」

朦朧と呟いたレーネの魅惑的な胸に顔を埋めようとした瞬間、彼女が不意にぱっと身を離した。

「えっ、日曜日?!やだ、もう!」

標的を失ってつんのめった彼にお構いなく、レーネはさっとはだけたローブの胸元を掻き寄せ、パタパタと走り出した。

「レーネ・・・?いったいどうし・・・」

後を追いかけながら尋ねた彼を、一瞬だけ振り返る。

「だって今日は日曜日よ!」
「ああ・・・そうだな」

俺がそう言ったんだが。

「もう!忘れちゃったの?お祭りよ!今日は秋祭りの日なの!!」

ドレッシング・ルーム―たぶんこれがそういうものなんだろう―の扉を開け、じれったそうに彼を睨んでから駆け込んでいく。

「ああ・・・そうか」

そういや、フリッツ達にも同じように責められたな。だが、だからといって、二人がこれからしようとしていたコト―正確に言えば、彼がそう望んでいたコト―を中止する理由になるとは思えない。他の部屋より一層場違いに感じる領域に足を踏み入れ、所在無く、いくつもの立派なワードローブを眺め回す。ふと、部屋の奥の、見事な装飾の額に嵌め込まれた大きな鏡に映る姿が目に入り、思わず髪に手を入れて後ろに撫で付けるように梳いた。無論、ほとんど意味は無かったが。

「なあ、レーネ、祭りなんて別に・・・」
「ダメよ。行くって約束したんだから。アウグスティンに」

クソっ、そう言えばそうだった。あのお調子者め、今度会ったら締め上げてやる。

声に出して言ってしまったらしく、レーネがワードローブに突っ込んでいた頭をいったん出してちらりと彼の方を見たが、聞かなかったことにしてくれたようだ。

「分かった、行くのは構わねぇが、そんなに急ぐ必要はねぇだろ?祭りが始まるのは正午だ」
「これからシャワーを浴びて、食事をして、支度しなきゃいけないのよ?ぼやぼやしてる暇は無いわ。それに、まず、着て行く服を決めないと・・・」
「服?」

レーネなら、服なんて何を着ててもいい―何も着てなければもっといい―と思ったが、あえて口をつぐんだ。女の服について口を出すのは、妹達で懲りている。

「昔の人の格好をしなきゃいけないんでしょ?どうしよう、他の事で頭がいっぱいで、すっかり忘れてた・・・手持ちの服でどうにかできるかしら・・・?」

別に必ずそういう格好をしなきゃならないって決まりがあるわけじゃないが、それを言ってもムダだろう。次々にワードローブの扉を開け、手際よくいくつかの衣類や小物を選び出しては並べているレーネは真剣そのもので、完璧に集中しているように見える。つまり、すっかり昂ってる彼の方は、当分おあずけ―少なくとも夜までは―ってことだ。祭りに懸けるアウグスティン達の熱意を思えば、その夜もいつになることか。

がっくりと頭を垂れ、手近のソファに座り込んだ。別に、ヤれないことがそこまで口惜しいってわけじゃない。・・・まあ、多少・・・かなり、がっかりはしたが、さかりのついた動物みたいに、ずっとベッドで―あるいはそれ以外の場所で―もつれ合ってたいってわけじゃない。たとえ、どれほど彼女の体に飢えていたとしても。ただ、せっかくやっと心が通じ合って、きちんと神聖な約束も交わして、さあこれから、って時に、二人でゆっくり『喜びを分かち合う』ことができない状況が恨めしいだけだ。

知らず知らず膝に肘をつき、手の甲でざらざらの顎を支えて溜息をついていた。が、何かの拍子に、視界の隅にふわふわのスリッパを認めた。顔を上げると、薔薇色のスカーフを手にしたレーネが目の前に立っていた。

「どうした?」

赤い布をふわりと床に落とし、真面目な表情でじっと彼を見つめながら、ゆっくりと距離を詰めて彼の足元に膝をつく。

「あなたを愛してるわ」
「ん?ああ」

何度聞いてもドキドキして、気の利かない返事をしちまう。しなやかな手が―銀の指輪が誇らしげに輝く―ごつい膝にそっと乗せられた。

「レー・・・」
「いつも、あなたのことを、一番に、愛してる」

一言ずつ区切られた言葉が、彼女の唇から発されるごとに、晴れやかな鐘の音のように胸に響き渡る。気づいた時には、心地よい肌触りの生地に包まれた、最高の手触りの体を、高鳴る胸に抱きしめていた。

「・・・ザックス・・・」
「・・・うん?」

レーネが身じろぎしたので、うなじに埋めた顔はそのまま、腕の力を少しだけ緩めた。

「ちょっとだけよ・・・」

その言葉の意味を問う必要は無かった。はらりと落ちたローブの腰紐には、しばしの休息がもたらされた。


 

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