In die Heimat 1



 
えーと。

アパートの建物の扉を出て、石段の上に突っ立ったまま、レーネは言うべき言葉を考えた。

「・・・いいお天気ね」
「ああ。そうだな」

ほぼ雲一つなく澄み渡った空を振り仰ぎ、ザックスが目を細める。無造作に乱れた髪を爽やかな秋風が揺らし、午後の陽射しを金色に反射する。

「・・・晴れて良かったわね?」

1泊分の荷物を詰めた鞄のベルトを肩の上で掛け直し、慎重に石段を下り始めた。情けないことに、動揺で足元が少しふらついている。今日は低めのヒール―6cm―のブーツで助かった。・・・もっとも最近は、ザックスにしつこく言われたせいで、あまり踵の高い靴を履くことはなくなってるけど。

「まぁこの季節は、そんなに雨は降らねぇから」

逞しい筋肉が、少々窮屈そうな年代物の黒い革のジャンパーの肩でひょいと動き、心臓がどきりと跳ねる。レーネはゆっくりと階段を降りきると、荒削りないかつい顔に目を据え、深く息を吸い込んだ。

「これから・・・御実家に連れてってくれるのよね。あなたの」

金褐色の太い眉を片方だけ上げ、ザックスがいぶかしげな目つきで彼女を見た。

「ああ」

そう、そういう話だった。初めて婚約者の家族に会うのはものすごく緊張するけれども、ワクワクしてもいる。厳しく品定めされる覚悟もできている。・・・けれどそこに行くのに、オートバイに乗って行く、ということまでは覚悟してなかった。彼の故郷まで100kmくらいという話だったから、向こうに着く頃には髪も服も・・・ううん、想像するのはよそう。

今朝、彼が『スカートはダメだ』と言った時に、すぐに理由を尋ねなかったことが悔やまれる。・・・彼が仕事に出るギリギリまで愛を交わしていて、そんな余裕は無かったにしても。あるいは、その後にでも、彼の言葉の意味をちゃんと考えていれば気づいてたかもしれない。・・・まあ、たぶんムリだったとは思うけど、でも、もしかしたら。『心を開いて、あらゆる可能性に目を向けるように』と、ママもパパもいつも言ってたじゃない?

「どうした?」

鋭い眼の上で、男らしい眉が気遣わしげに寄った。

「やっぱり止めてぇのか?」
「え、ううん、まさか。そういうわけじゃ・・・」

慌てて首を振り、路肩に停めた巨大な黒い二輪車にまたがってじっと待っているザックスに、急いで歩み寄った。着古した黒っぽい革の上下に身を包んだ彼は、オートバイと一体となってまるで闇色の小山のようで、すごくワイルドで近寄りがたくて―ステキだった。ザックスが女性にモテるって話を疑ったことはなかったけど、彼がこの格好でうろついてたら、女の子はみんな一目散に飛びつくに決まってる。朝、部屋を出た時とは違う格好なので―というか、間違いなく初めて見た格好なので―たぶん仕事の後、『足』を取りに行ったついでに、自分の部屋に寄って着替えてきたんだろう。

そう、あれ以来ザックスは、夜は必ず彼女の部屋に泊まってくれていた。時々、彼女自身も遅くなるような時は、店でザックスの仕事が終わるのを待たせてもらい、一緒に帰ったりもした。一度だけ、荷物を取りに行く彼にくっついて、彼の部屋に連れて行ってもらったけど、それ以来、二度と連れて行ってくれたことはない。彼が心配するほど、ひどい場所でも治安が悪そうでもなかったのに・・・もしかしたら、あそこで彼を誘惑してしまったのがまずかったのかもしれない。確かに、部屋ギリギリに詰め込まれたベッドはかなり軋み音を立てたし、外に喘ぎ声が漏れないように抑えるのはすごく大変だったけど。

「ええと、あの・・・今日の仕事は片付いた?午後は休んでも大丈夫?」
「ああ、まあ。休んだ分は、他の日に頑張って取り戻すさ」

ザックスは軽い口調で言うけれど、これ以上頑張るなんて、それこそ大丈夫なのかしらと思う。一緒に暮らし始めてあらためて思い知らされたけれど、ザックスは本当に毎日、朝から夜まで働き詰めなのだ。今日は土曜日で、店が開いているのは午前中だけなのだけど、いつもの土曜なら、ザックスは午後もずっと仕事していた。

「先週も休んじゃったものね・・・」
「しょうがない。恋人の親に結婚の許可をもらいに行くなんて、そうしょっちゅうあることじゃねぇからな。親方だって分かってくれるさ」

ザックスが厚い口角を引き上げ、ニヤリと笑う。そう、先週の土曜は半日どころか丸1日の休みをもらい、金曜の夜から夜行列車に乗って、彼女の両親のところに向かった。両親は―たぶん彼への嫌がらせとしか思えないのだけど―街中の自宅ではなく、祖父母の暮らす郊外の屋敷で待っていた。そこは、仰々しい門から古びた石造りの本館まで車で5分もかかり、広大な後庭では実際にレーネが子供のころ迷子になったようなところだった。けれど、彼はそんなこけ脅しにも全く臆することはなく、まるで宮殿さえしょっちゅう出入りしていたとでもいうように、終始堂々と落ち着き払っていた。

帰りの電車の中で彼女がそのことに触れると、彼は、親方に借りたスーツと、おかみさんに貰ったネクタイと、お前がアイロンをかけてくれたシャツのおかげだと笑った。それから意味ありげに眉を上げてみせた。

『一番重要なのは、足に合った靴を履くことだ』

「・・・それに最近はフリッツとアウグスティンがかなり力をつけてきたからな。俺がいなくても、店にはそんなに迷惑かけずに済む。あいつらにとってはチャンスだろう。俺にとっては、うかうかしてられねぇが」

フリッツとアウグスティンには、母親の次に、婚約を報告することになった。お昼までもう時間が無いという頃になってやっと、半分恍惚としたまま、なんとか大急ぎで身支度を整え―結局、出かける前に食事を摂る余裕は無かったけど、その後の騒ぎを思えば、食べなくて正解だったかもしれない―約束の時間ちょうどに待ち合わせの場所に駆けつけると、眩暈がするほどのすごい人出だった。思わずザックスの太い腕にしがみつき、彼らを見つけられるかしらと不安になったものの、目ざといアウグスティンの方があっという間に彼女達を見つけてくれた。彼女の怪我に気づいて驚く彼らに―時間が足りなくて、痣を化粧で隠し切れなかった―順を追って事情を説明しようとしたレーネを、今度はザックスが遮っていきなり宣言した。

『俺と彼女は結婚する』

フリッツもアウグスティンも目を丸くして一瞬黙り込み、それからアウグスティンは蜂の巣をつついたように大騒ぎし始め、フリッツはにやりと笑って、なんだ、早かったな、と言った。アウグスティンはひとしきり悔しがったり喜んだりした後、約束だからと言ってその日のレーネのエスコート役を主張し、ザックスもしぶしぶながら認めた。意気揚々とレーネの腕を取って祭りに乗り込んだアウグスティンは、会う人ごとに―親方とおかみさんに、店の得意客、職人仲間、コンラートやレーネの学友達、それにダーヴィトとその家族にも―なぜか得意げにレーネとザックスの婚約を触れ回り、いつの間にか祭りの会場で、皆を巻き込んでの婚約パーティーが始まっていた。呆然としたコンラートとは1曲だけ、大人びた表情で肩をすくめて『ザックスならいいよ』と言ってくれたダーヴィトとは3曲ほど、一緒に踊った。結局その日ザックスと手をつないで踊れたのは1曲だけだった。おまけに通りすがりの見知らぬ人達からまで祝福されて気恥ずかしい思いをする羽目になったけれど、次から次にたくさんの人と踊りながらレーネは、沸き立つような幸福感と、深い感謝に包まれていた。

「よし、じゃあ、行くか」

ザックスが彼女の頭のてっぺんから爪先まで眺め下ろして満足そうにうなずき、レーネは少しほっとした。今朝、急に『スカートはダメだ』と言われて―その時は、おそらく、女っぽい感じよりもきびきびとした印象のものがいい、ということかしら、くらいに考えていた―昨夜までにさんざん迷って決めてあった楓色のウールのAライン・ワンピースを再びしまい込み、午前中いっぱいを服装を決め直すのに費やした。今日は講義が休みなので図書館に行くつもりだったのだけど、どちらにしても気もそぞろできっと調べ物など手に付かなかったと思うから、それは別にかまわない。問題なのは、こんな大事な時に着て行く服を、そんな短時間で決めなければならないということだった。

彼女のワードローブにはパンタロンやキュロットスカートの類はそれほど豊富というわけではなく―まあ、どちらかといえば活動的な方なので、たぶん多い方だとは思うけど―かと言って、店が開いてから買いに行っていたのでは間に合わない。限られた中から、『婚約者の家族に会いに行く』場面で使えそうなものをいくつか選び出し―そもそもこの時点で無理がある―どうすれば、派手過ぎず地味過ぎず、あまり堅苦しくなくくだけ過ぎでもなく、好ましく思ってもらえる服装にできるか、吐きそうになるほど悩み抜いた末、結局、普段とたいして変わらない格好になってしまった。

柔らかく下半身のラインに馴染む上品なチャコールグレーのスエードのパンツに、同じく濃いグレーで、折り返しの部分が黒に近い色合いのブーツ。上には優しいローズクォーツ色の薄手のリブ編みのセーター―この色を着ると、暗い目の色が少しは明るく見える気がする―を合わせた。V字の襟元にくすんだ薔薇色のスカーフをねじって巻き込みながら、この前、このスカーフでザックスとしたことを思い出し、頬を染める。指輪に合うシンプルなシルバーのピアスをつけ、粗い織りが曇り空のような濃淡の模様を描く、襟無しの軽いウールジャケットを羽織り、革の肩掛け鞄を手に取ってから、もしかしたら彼の実家の辺りは寒いかもしれないと思いつき、ミルクホワイトのショートコートを引っ張り出した。ウエストから広がるドレスタイプで、温かくて動きやすく、それに、この素っ気ない格好に多少は優雅さを加えられるかもしれない、と期待して。結果的に、この選択は正しかった・・・この季節にオートバイで1時間も走るのであれば。

「ほら」

いつの間にかザックスはヘルメットを被って頭まで黒ずくめになり、大きな右手を―上腕の怪我は彼が言ったとおり1週間ほどでふさがり、痕は残っているものの、もうほとんど痛みは無いらしい―彼女の方に突き出していた。彼の手が掴んでいる小さめの銀色のヘルメットを、ちょっと感動しながら見る。この国では法律で義務付けられてるのかもしれないけど、彼がちゃんと安全に注意を払っているのが『意外でない』、ということが嬉しかった。

「ありがとう」

受け取ろうと手を伸ばしかけて、また引っ込めた。

「ちょっと待って」

ふんわりと自然なウェーブをつけて背中に下ろしていた髪を肩から前に垂らし、ざっと三つに分けて手早く編む。先端を脇に挟んでおき、首からスカーフを外してそれできつく結わえた。あまり見栄えは良くないけれど、ぐしゃぐしゃになるよりはマシだろう。顔を上げ、ザックスの方に向き直ると、ゴーグル越しの視線が薔薇色のスカーフに釘付けになっていた。軽く咳払いして呼びかける。

「・・・ザックス?」
「あ、ああ」

そそくさと渡されたヘルメットを受け取って着けながら、何気なく訊ねる。

「よく誰かを乗せてるの?」

聞きようによっては嫉妬めいて聞こえることに、口にしてから気がつき、少し慌てたけれど、ザックスは気にしたふうも無かった。

「そうしょっちゅうじゃねぇが、たまに弟や妹達をな」

それで小さめのヘルメットを持っているのね。うなずいて話を終わらせたつもりだったが、ザックスはさらに話し続けた。

「家族以外を乗せる気にはならねぇな。こいつに乗ってる間は、なんていうか・・・無防備になっちまうから」
「そう」

彼の言葉に胸をときめかせながら脇に近づき、ふと足を止めた。ザックスは目ざとく彼女の躊躇いに目を留めた。

「なんだ?乗ったことねぇのか?」
「いえ、そんなことはないけど・・・」

実際には二輪車の免許も持っている。ただし、今、目の前にあるのは、たぶん元は軍用だったとおぼしき、ごつくて巨大な機械で、彼女の免許では運転できなさそうな代物だった。明らかに改造が為されているようだったけれど、合法なものなのかどうかを尋ねるのはやめておいた。

「あの・・・すごく・・・立派ね」

ザックスが初めてちらっと自慢そうな表情を浮かべ、あら、と思った。彼の、こういう、少年のような表情に弱い。

「以前店にいた兄弟子から、何年か前に譲り受けたんだ。最新型とはいかねぇが、馬力はあるし、まだ、充分以上の働きをしてくれるぜ。なにしろエンジンが・・・」

ああ、そういえば、Y染色体を持つ人々は『乗り物』に尋常でない興味を示すんだっけ。彼女の父親もその1人だったけど、この人もそうなのね・・・なにげない口調を保とうとしてるけども、『エンジンで走るもの』に寄せる彼の情熱は、推し量るまでもなくよく分かった。あきらめの境地で、恐る恐る、年季の入ったごつい車体に触れた。

「別に怖いことはないぞ。マメに手入れしてるから故障する心配は無ぇし、それに、ちゃんと安全運転で行くからな」

怖くはない。全く。彼が信頼するものなら、無条件で信頼できる。それに、確かに、彼の並外れて逞しい体躯には、これぐらいのがっしりした車体でないと見合わないだろう。レーネはひらりと彼の後ろにまたがり、太い腰に腕を回して、頑丈な太腿の裏に自分の脚を押し付けた。一瞬の間があって、腕の中の分厚い体から低く野太い声が響く。

「行くぞ」

返事の替わりに大きな背中に頭を摺り寄せ、古い革と彼の香りを吸い込んだ。


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis