In die Heimat 2



 
ほぼ15分ごとにオートバイを停め、ザックスは、秋を迎えた野山の景色や、道沿いの可愛らしいたたずまいの田舎町を、レーネに見せた。彼女のためにわざわざ休憩を取ってくれているのは分かっていたし、きついガソリンの匂いも、彼の背中にずっと黙ってしがみついているのも、全く苦ではなかったけれど、爽やかな空気のもと、素晴らしい田園風景を眺めながら彼とゆっくり過ごせることが嬉しかったので、素直に好意に甘えた。

「きれい・・・!あれは何?あそこの、ほら・・・」

4回目の休憩の時、ヘルメットを脱いで、後れ毛を揺らすひんやりした風を感じながら見晴らしの良い高台に立ったレーネは、足元の丘を越えて伸びる道の先の、柔らかな陽射しに輝く川沿いの並木を指して振り返った。

「ザックス?」
「あ?ああ」

車道から丘へと上る小道の途中でしゃがみ込んでいたザックスがさっと立ち上がる。と、その手に握られている物に目が釘付けになった。ザックスが大股に坂道を登ってきて、ぐい、と無造作に腕を突き出した。

「これ、お前に」

かすかに風に揺れる、釣鐘状の小さな青い花をたくさんつけたひと掴みの野草を、レーネは雷に打たれたように呆然と見つめた。なぜかふいに体の奥から不思議な感覚が湧き上がり、胸の中で熱く渦巻く。

「その、前からお前に花を贈ろうと思ってたんだが、機会が無くて・・・ほんとはちゃんとしたヤツを渡すべきなんだろうが、今、なんとなくこいつが目に留まったもんだから・・・とりたてて珍しいもんでもねぇし、もらったって困るだけかもしれねぇが・・・別にいらなきゃ捨てちまっても・・・」
「とってもきれい」

次第に声が小さくなり、もぐもぐと口の中で不明瞭に呟くザックスをさえぎり、いそいそと両手で小さな花束を受け取った。

「嬉しいわ。ありがとう、ザックス」
「いや」

日焼けした頬をかすかに染めたザックスが、ヘルメットを持った手をぐっと天に突き上げるように伸びをしてから、先ほどレーネが指差していた方角に顔を向けた。

「で、何だって?」

素朴な花束をそっと胸に抱き、大きな体に寄り添った。

「あ、うん、あれ・・・あそこの樹は何かと思って。ほら、あの、赤く紅葉してる・・・」
「ああ。マリレンだ」

ヘルメットのせいでぺたんと寝た金褐色の髪に片手を差し入れ、さっと梳く様子に、胸がきゅんとする。

「マリーエン(聖母マリアの)?」
「マリレ。アプリコットのことだ。この辺じゃそう呼ぶ」
「へぇ・・・きれいな響きね」
「そうか?」

ピンとこない様子で顎の無精髭をこすっているザックスに、小さく微笑む。たぶん、普段当たり前に馴染んでいるものの美しさは、見つけにくいものなのだ。どこまでも広がる穏やかな丘陵地に再び目を戻し、花束を片手に持って両腕を広げ、澄んだ秋冷えの空気を深呼吸する。二人の周りで秋の野がひそやかにざわめく。見渡すと、同じ樹がちらほらと、そこかしこにあるのに気づいた。

「・・・この辺りの名産なの?」
「名産って言うほどじゃねぇと思うが、結構多いのは確かだな。ジャムにしたり、リキュールにしたり、よく使う。俺のおふくろも時々トルテを作ったりしてたな」
「ふうん。私にも作り方を教えてもらえるかしら。あなたはそのトルテが好きだったんでしょ?甘い物は嫌いじゃないものね?」
「俺?・・・俺は・・・まあ・・・」

珍しく答えを渋るように言葉を濁したので、本当は苦手なのかしら、といぶかりながら顔を逸らしかけた時、ザックスが咳払いした。

「あのな。お前には本当のことを言っとく」

改まった口調に、少し驚いて彼の顔を振り仰いだ。

「ガキの頃、俺んちは・・・色々と事情もあって、貧しかった。今だってそんなに裕福ってわけじゃねぇが、当時はもっと余裕がなかったんだ。弟や妹達も、ずいぶん色んなことで我慢させられてた。別に貧乏なのが苦痛だったってわけじゃなく、ただ、我がままをさせてやれるような状況じゃなかったんだ。服とか日用品とかだけじゃなく、食い物も」

野生的な金褐色の瞳が窺うように彼女をじっと見つめていた。レーネは慎重にうなずいた。

「親父がいた頃はまだ良かったが、その後は、ほんとに大変だった。俺はきょうだいの一番上で、責任があったし、少しでもおふくろの助けになりたかった。もちろんガキだからたいしたことができるはずもねぇが、何か、ほんのちっぽけなことでも、自分が役に立ってると思いたかったんだよな。それにたぶん、少なくともあいつらが生まれる前は、俺は色々と独り占めにできた時代があって、一番良い目を見てきたはずなんだ。だから、その分、我慢しなきゃならねぇと思ってた。だから俺は・・・」
「嫌いだ、って言ったのね。マリレのトルテは」

いかつい顔が、身構えるようにさっと緊張する。レーネの胸は、育ち盛りの少年の切ない気持ちを思って、ひどく痛んだ。彼女自身はこれまで、そういった不自由とは無縁にきたから、なおさら。精一杯の想いを込めてザックスを見つめると、彼は口の端を歪めて笑みを浮かべてみせた。

「ああ。そいつはほんとに小さな菓子だったから。つまらねぇことだが、当時の俺にはそれくらいしかできることが無かった。まぁ、とにかくそういうわけで、俺の家族は、俺は甘いもんは好きじゃねぇと思ってる。だからお前も、話を合わせといてくれねぇか?嘘をつかせるようで申し訳ねぇが」

ザックスはぶっきらぼうに頼んだ後、不安げに目を逸らしてしまった。レーネはその強張った顎を見つめて少し考えてから、ゆっくりと答えた。

「それは構わないけど、でも、本当のことを言ってもいいんじゃない?もう」

彼がぱっと顔を上げ、睨むように鋭い眼差しで振り返った。猛々しい金色の光を放つ瞳を、その強さに負けないように、しっかりと見返す。

「大人になれば嗜好が変わることだってよくあるし、それに・・・」

ザックスの母親が、きょうだい思いの健気な長男の不器用な嘘を見抜いてなかったとは思えない。けれどそれはあくまで推測に過ぎなかったので、口には出さないでおいた。

「せっかくお母様が作って下さるトルテを食べないなんて、むしろお母様に悪いわ。嘘をついてたことを告白するかどうかはともかく、今はもう、みんな大人なんだから、ちゃんと頂くべきじゃない?あなたも」

ザックスは口を開けて何か言いかけたが言葉にはせず、そのまま考え込むようにまじまじと彼女を見ていた。そしてしばらくして、表情を和らげてうなずいた。

「そうかもな。うん、お前の言うとおりだ」

ほっと息をついて再び彼に微笑みかける。だがザックスは笑みを返さず、地面に視線を落とした。

「俺は・・・」

片足で草むらの斜面の手前の砂利を蹴り、どう言うべきかと迷うようにしばし黙っていた後、彼は目を上げた。

「俺は今でも取り立てて金持ちなわけじゃねぇ。靴屋としてちゃんとやっていける目処はあるが、実際のところ、お前に今までのような優雅な暮らしをさせてやることはできねぇ。けど、俺や俺のきょうだい達がしてきたような不自由な思いは決してさせねぇと誓う。お前にも、子供達にも」

まだ生まれてもいない子供達のことまで、そんなに心配してくれてるなんて。思わず瞼が熱くなり、レーネはまばたきしながらうなずいた。

「うん、分かってる。ありがとう」

明るい声で答えて、花束を持っていない方の手で、無精髭に覆われた頬に触れる。彼だけに依存するつもりは毛頭無かったけれど、とりあえずは口をつぐんだ。そのことは、またそのうち話せばいい。彼が言いたかったのは、彼の『決意』なのだから。頑丈な手が彼女の手の甲に重なり、彼女の掌の下でざらざらの肌が擦れて、温かな唇が押し付けられた。

「そろそろ行くか。だいぶ遅くなった」
「まだかなりあるの?」
「いや、もうすぐ、あの山の向こうだ」
 
 
 
 
 

「・・・結構、にぎやかな町なのね」

町に入って3つ目の信号で、ぽつりと呟いた。

「あ?何だって?」

ハンドルを握ったまま首をのけぞらして分厚い肩の後ろを振り返り、ザックスが大声で尋ねる。アイドリング音に負けないよう、壁のような背越しに声を張り上げ、叫び返す。

「にぎやかな町ね、って言ったの!」

確か以前、『小さな町』って聞いたような気がするんだけど。

「そうか?まあ、それなりってとこか。昔からの街道沿いだし、規模は小せぇが、温泉もあるからな」
「・・・そうなの」

それで納得すればいいようなものなのに、なぜか、何かが違う、という気がしてならない。この町のことなんて知らないはずなんだから、こんな違和感を抱くのはおかしいんだけれど・・・

「この辺は新市街だ。もうちょっと降ったところに旧市街がある。おふくろん家はそっちなんだ」

おふくろん家?

彼の言い方に一瞬ひっかかりを覚えたけれど、信号が変わって再び彼が走り出し、レーネはまた、広い背中にぴたりと寄り添った。そのまましばらく道なりに進んで、三つ辻を曲がるその一瞬、同じ高さで並ぶ家々の狭間から、それが目に飛び込んできた。

「ザックス!」

ぎゅっと腕に力を入れてしがみつくと、ザックスが驚いて、素早くオートバイを道の端に寄せて停まった。

「どうした、いったい?」
「塔が・・・」
「塔?」

心臓がどきどきして、頭がくらくらする。何をどう言ったらいいのか分からない。

「見えたの。向こうに。たぶん・・・旧市街の中心の辺り?」
「ああ。教会の塔か」

合点したというようにうなずくザックスの落ち着いた様子とは裏腹に、焦りにも似た衝動が湧き上がる。

「歴史的な価値は分からねぇが、相当古いもんだ。教会の建物の中でも一番古くて、たぶん・・・」
「お願い、あそこへ連れて行って」
「は?!」

分厚い体をねじり、ザックスが完全に振り返った。

「教会へ?今か?」
「お願い。5分だけでいいから。どうしても・・・行かなきゃ」 ジャンパーの革地を握り締めてじっと見上げると、ザックスは数秒間だけ彼女の目を覗き込んだ後、あっという間に黒く大きな車体をUターンさせた。


 

 続き Fortsetzung

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