In die Heimat 3



 
「ここよ」

ひと気の無い小さな聖堂の中で、レーネはつないだ手にぎゅっと力を込めた。声がかすれ、背筋がぞくぞくしているのは、石造りの建物の冷気のせいだけではない。薄暗い身廊の奥、二人が立つ中央通路の先で、古めかしい、黒ずんだ銀の祭壇と緋色の敷布が、右壁の高い位置にある小さなステンドグラスから斜めに差し込む光を浴びて厳かに浮かび上がっている。

「ああ?」

ザックスがいつもと変わらない様子で首をかしげて彼女を見下ろす。と、途端に寒気が和らぎ、口が滑らかに動きだした。

「ここで結婚式を・・・するの。私達」

もう少しで、『した』の、と言いそうになったけれど、危ういところで言い繕った。ザックスは気づかなかったようで、そのままうなずきかけた。

「ああ・・・はあ?!ここで?!」

彼がぎょっとするのが意外な気がする。もちろん、二人がここで結婚した夢を見たのは彼女であって、彼のあずかり知らぬことだというのは分かっているけれども・・・

「お前、ここで式を挙げたいのか?」
「ええ」
「何でまた・・・そりゃ、ここは俺の家族の教会だから、ここが気に入ったっていうんならそれでもいいが、こんな田舎町のちっぽけな教会でなんて、お前の家族や友達が何て言うか・・・」

実を言えば、3つ並んだ細いアーチ型の窓のある塔と、祭壇の辺りのしつらえ以外には、見覚えのあるものは何もなかった。そもそも、あらためて思い返してみると、本当に『見覚えがある』のかどうかも怪しい。しょせん夢でしかないのだから、当然と言えば当然かもしれないけど・・・ただ、確かに、何か心揺さぶられるような、懐かしさに似た想いを感じる。たぶんこれがデジャヴュというものなんだろう・・・はっきりと言えるのは、この教会には、彼女を惹きつける強烈な力が働いているということ。そして彼女の直感が叫んでいる―間違いない、ここしかない・・・と。

「・・・せめて、今、お前が通ってる、街の大聖堂でやった方が良くねぇか?」

不満というよりは困惑げな口調のザックスにきっぱりと首を振り、握った手を、懇願するように自分の胸に引き寄せた。ジャンパーの革地の下で、太い腕が感電したようにピクっと引き攣った。

「いいえ。私はここから新しい人生を始めた・・・始めたいの。そして今度はそれを皆に見てもらいたい。だって私はここへ帰って・・・来ることになってたんだもの」

自分でも支離滅裂だとは思ったけれど、その言葉は、心の奥底からいつのまにか自然にほとばしり出ていた。彼は一言も返さず、考え込むように金褐色の太い眉をひそめ、じっと彼女を見つめている。堅固な確信がわずかに揺らぎ、レーネは手を下ろしかけた。

「・・・でも、ザックスがイヤなら・・・」
「イヤなわけねぇだろ」

力強い手がぐいと彼女の手を引き戻し、反対側の手でさっと腰を抱き寄せられる。

「俺は洗礼も堅信礼もここで受けたし、ガキの頃は毎週ここに通ってた。ここでお前を娶れるなら、それ以上のことはねぇ。それにここなら・・・うん、よし、決めたぞ!」
「えっ?ザ、ザックス?」

いきなり勢い良く歩き出した彼に抱えて運ばれる形になり、レーネは足をもつれさせながらもなんとか歩調を合わせた。信徒席の間を抜け、細い側廊からやはり細い回廊に出る木の扉を押し開けるザックスを見上げる。

「どこへ・・・」
「神父様んとこだ。土曜日のこの時間なら、隣の司祭館で捕まえられるはずだ」

『田舎町のちっぽけな教会』と言ってたわりには、司祭が常駐してるらしい。ということは、ここは小さいけれども由緒ある教会なんだろう。

「神父様・・・にご挨拶していくの?」

彼があきれたように目を剥き、きらっと金色の光が瞬いた。

「結婚式を頼みに行くに決まってるだろ」
「えっ?!い、今?」
「善は急げだ」

頑強な手は、きつくはないが決して抜けない程度にがっしりと彼女の手首を掴んでいて、レーネは、大股にどんどん進む彼について行くので精一杯だった。狭い回廊を東に向かい、端に近い右手の重そうな鉄の扉―ザックスは片手で支えてくれてるけど―から外に出た途端、午後の陽射しに目が眩み、階段を下りかけて立ち止まったザックスにぶつかった。

「あ、ごめんなさ・・・え、あの?」

抱えられるように数段の石段を下り、再びぐいぐいと左の方へ引っ張られながら首を横に向け、階段の正面にあった、こじんまりした2階建て家屋を振り返る。

「司祭館って、あれじゃないの?」
「そうだ。その前にお前に見せたいものがある。すぐそこだ」

ザックスは足取りを緩めず、聖堂のすぐ裏手の、生垣で隔てられた小さな庭園のような場所にずかずかと入って行った。そのまま植え込みの真ん中の道を突き進んで、周りの低い建物に囲い込まれた細長い庭の奥へと向う。レーネはほとんど小走りに従いながら、やや手入れが足りていないようではあるものの、素朴な安らぎの漂う空間をさっと見渡した。

「可愛らしいお庭・・・ハーブが多いのね」
「ああ。そういや春にカミツレがいっぱい咲いてたっけな」

足は止めることなく、視線だけをちらと向けてザックスが答えた。彼はいったい何を見せたいんだろう、といぶかりながらもレーネは辛抱強く続けた。

「そうね。今はサルビアがきれい。ほら、あそこのスグリの藪の向こう、トネリコとボダイジュが黄葉して・・・」

ザックスの返事は無かった。あるいは彼は何か言ったのかもしれないけど、聞いてなかった。

「・・・あ・・・」

突き当たりのレンガ壁の建物の手前、半分崩れた石塀に生い茂ったつるバラ―まだ幾つかの小さな赤い花が咲き残っている―の陰から、その像はふいに姿を現した。等身大よりは心もち小さめの、白い大理石の女性像。腰までの長いヴェイルをまとった慎ましやかな身なりで、おそらくは長い年月そこにたたずんでいたのだろう、細かな造作は不鮮明になってしまっているけれども、すらりとしたうつむき加減の立ち姿は、清楚な美しさを醸し出していた。

「・・・あれは?」

なぜか囁き声になっていた。

「聖マクダレーネだ」

低い声は、想いの籠もった、深い響きをたたえている。
じゃあ、これが、彼が私に見せたかったものなのね。

「マグダラのマリア?」
「いや、マクダレーネって名前の、大昔の聖女らしい。たぶん」
「たぶん?」
「はっきりしたことは分からねぇんだ。中世以前の人物で、娼婦だったが神の言葉を聞いたとか、石打ちにされてた娼婦をかばって犠牲になったとか、あるいは、薬草治療をしてたことで異端として処刑されたとか、色んな言い伝えがあるんだ。もしかしたら複数の人物の話が混ざってるのかもしれねぇな」

ザックスから離れてそっと石像に近づきながらよく見ると、彼女は、質素な衣装の襞からのぞく右手を、少し、前にかざしていた。まるで足元の何かを守ろうとしているかのように。

「マクダレーネ・・・レーネ・・・」

呟くレーネの隣にザックスが立ち、どっしりした腰に拳を当ててうなずいた。

「ああ。俺もついさっきまですっかり忘れてたんだが、この庭が目に入ったとたん、どうしてもお前に見せてぇって思ってな。その、お前がここに来たがったのも、そういう縁が有ったからじゃねぇかって気がして。自分の名前の聖人は、守護聖人みてぇなもんだから」

・・・そうなのかしら?この像はあまりに・・・印象が強すぎて、あっという間に心を占めてしまい、見覚えがあったのかどうか、もう分からない。そもそもレーネという名は本名ではなく、誰がどうしてそう呼び始めたのか、由来も分からない呼び名で・・・

「・・・それにここは俺のガキの頃の隠れ場所の一つで、思い出のある場所だったから、お前を連れて来てぇって気持ちもあったし」

珍しく気後れした様子で落ちつかなげに人差し指で額を掻くザックスの分厚い体に腕を回し、ふんわりと抱きしめた。

「ありがとう、ザックス。とても素敵なところね。きっと私にも、思い出の場所になるわ」

ザックスはすぐさま力強い腕でぎゅっと抱き返してきた。

「よし、他のとっておきの場所にも連れてってやる。お前も絶対気に入るはずだ」
「でも、ザックス・・・」
「お前と分かち合いてぇんだ」
「ザックス・・・」

温かな唇が近づいてきて、キスされる、と認識し、瞼を閉じて顔を仰向け、かすかに唇を開いたとたん、少し離れた場所からしわがれた声が聞こえてきた。

「ザックス?」

一瞬凍りついた後、慌てて離れようとする彼女の腕を、大きな強い手がぎゅっと掴んだ。

「くそっ。やっぱり見つかることになってるんだよな」

小声で悪態をつくザックスの壁のような体の脇から顔をのぞかせてみると、庭園の入り口のところで、神父服の高齢の男性がにこにこ笑いながら二人を見ていた。


 

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