In die Heimat 4
「間違いなく、忘れられない場所になったわ」教会前の小さな広場に停めたオートバイに向かって歩きながらレーネはぼやいた。
「教会の裏でキスしようとしてるところを神父様にみつかるなんて・・・」
「気にするな。俺はもっとまずい場面をみつかったこともある」ちらりと目を上げてザックスを睨んだが、彼はそれ以上何も言う気はなさそうだったので、溜息をついて、詮索はやめた。
「励ましてくれてありがとう」
「どういたしまして」ザックスは悪びれずに答え、ヘルメットを着けてオートバイにまたがった。巨大な車体が一瞬沈む。
「でも・・・神父様に対してこういう表現をするのはどうかと思うけど・・・素敵な方ね。お優しくて」
異議を示すようにザックスは鼻を鳴らしたが、口には出さなかった。口が悪いところもある彼だけど、礼儀はちゃんとわきまえているようで、妙に感心した。きっと御両親の教育の賜物だろう。先程の彼と神父とのやり取りを聞いていても、ざっくばらんな中にも、深い敬意と親愛の情が感じられた。ただ・・・
「あなた、どうやらこれまでずいぶん神父様を困らせてきたみたいね?」
「悪ガキだったからな」ごつい肩をすくめ、ザックスは後ろへ顎をしゃくった。再び彼の頼もしい背中に腕を回して落ち着きながら、レーネは、老神父の灰色の眉の下の、思慮深げな灰色の瞳を思い出していた。神父は初対面のレーネにも親しげに話しかけてくれて、彼女も神父に対して、まるでずっと知り合いだったかのような懐かしさを感じた。そういえば神父は、彼の手の甲に口付けてもぞもぞと挨拶したザックスに祝福を与えた後、同じように彼の皺深い手を取った彼女にもなぜかこう言ったのだ―『おかえり』と。あれはいったい何だったんだろう?神の家への歓迎?それとも、彼女がザックスの妻になると想像がついたから?・・・あの後すぐザックスが神父様に無理難題をふっかけたせいで、うやむやになってしまったけれど・・・
「着いた」
細く入り組んだ道を速度を落として縫うように走っていたかと思うと、ほんの1、2分でザックスは再びオートバイを停めた。慌てて心地良い背中から身を起こし、歪んだ石畳の路面に降り立つ。ヘルメットを取って辺りを見回すと、小さな2階建ての建物が道に沿って隙間無く立ち並んでいて、赤茶色の切妻屋根の連なりの向こうに、先ほどの教会の塔が望めた。何かが軋む音に気づいて振り返ると、すぐそばに小さな水路と石橋があり、橋の向こうで、古びた木造の水車が大儀そうに水を掻いていた。
「ここだ」
ザックスが太い親指を立て、家々の間に隠れるように少し奥まって立つ1軒を指し示した。
「ここがおふくろん家・・・」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、2階の木枠の窓がバタンと開き、ちらほらと咲き残る赤いベゴニアの鉢植えの向こうから、花と同じくらい真っ赤な髪の若い女性が頭を突き出した。どきりとしてレーネは一瞬言葉に詰まったが、挨拶の必要は無かった。
「きゃぁーっっ!!」
凄まじい悲鳴にぎょっとしてのけぞった体が、後ろでがしりと受け止められる。頭上で舌打ちの音がして、振り仰ぐと、ザックスは苦虫を噛み潰したような顔で窓を睨んでいた。
「くそっ、イゾルデめ・・・」
「もう、イゾルデったら、そんな叫び声を上げるなんて、はしたな・・・きゃぁーっっ!!」再び窓の方から声がして、もう一度そちらを見上げると、今度は、さっきと全く同じ顔だけれども、輝く黄金色の髪の女性がこちらを見下ろしていて、レーネの顔を見るなり、寸分たがわぬ悲鳴を上げた。
「ああ、当然、エルザもか・・・」
ザックスはあきらめたように首を振り、レーネの手首をぐいと掴むと、小さな玄関の扉の方へと引っ張った。
「ザ、ザ、ザックス?どどど、どうしよう、私、どこか、すごく、変?」
自分でも滑稽なほどうろたえ、凍り付いて動かない脚のまま、ずるずると引きずられて行く。やっぱり服装が場違いだったのかしら?それとも身なりがびっくりするほどメチャクチャになっちゃってる?あるいは、まだかすかに残ってる頬の怪我の痕が―化粧で隠したつもりだったけど―おそろしく目立ってるとか・・・
「そうじゃねぇ、あいつらは・・・」
扉の内側でバタバタと足音がして、まさにレーネとザックスが玄関の前に到着した瞬間、ばんっ、と大きな音を立てて扉が開いた。
「いらっしゃい!!!」
声の高さもタイミングも完璧に揃ったコーラスが響いたかと思うと、レーネが言葉を返す間も無く、ぎゅうっと4本の腕に抱きしめられた。身動きできないまま両側の頬に同時にキスされる。花のような優しい香りの温もりに押し包まれ、胸が詰まった。
「いい加減、彼女を放せ。窒息しちまう」
ぐいっ、と体が引き戻された。と思ったとたん、今度は横から伸びてきた手にさらわれた。
「そうだよ、僕にも挨拶させてよ」
チュっと音を立てて唇の真ん中にキスされ、面食らって口もきけないまま、まばたきして目の前のハンサムな金髪碧眼の若者―たぶん、私より一つ二つ年下?―をまじまじと見つめる。
「はじめまして義姉さん。あ、義姉さんって呼ぶのはまだちょっと気が早いか・・・」
「ずるいぞヘルマン、美人を独り占めするな」後ろからまた別の手が伸びてきてレーネの肩を捉え、ヘルマンの腕から引っ張り出して、くるりと反転させた。
「こんちは、お嬢さん。調子はどうだい?」
溌剌とした気さくな笑顔の、ザックスと同い年くらいの青年が彼女を抱きしめた。が、彼のキスは、ザックスに邪魔されたせいで、レーネの鼻に着地した。
「引っ込んでろクンツ、お前にはこいつで十分だ」
片手でレーネを抱き込みながら、もう一方の手でザックスはエルザをクンツの方に押しやった。
「ちょっと兄さん、『こいつ』って何よ?」
「まったくザックスときたら、ついこないだまで俺がエルザに近づこうもんならぎゃあぎゃあわめき立ててたくせに、自分が絶世の美女を手に入れたとたんにこの態度だからな」
「うるさい」
「クンツの言うとおりじゃない、兄さん」
「そうそう、僕もそう思う」
「お前らいいかげんに・・・」
「あの!」ぱっ、と、期待に満ちた視線が一斉に押し寄せ、レーネはたじろいだ。ザックスから非難の矛先を逸らしたくて口を開いたものの、何を言えばいいのか、全く思いつかない。
「・・・ありがとう。お褒めいただいて」
ああ、もう、私のバカ! けれど皆の顔にさっと明るい笑みが広がり、クンツが彫りの深い顔にえくぼを浮かべて言った。
「いや、ほんと、君みたいな美女には、生まれてこの方、お目にかかったことが無―うっ!」
エルザの肘鉄がみぞおちに入り、クンツは逞しい体を二つに折った。ヘルマンが見事なシルバー・ブロンドの頭を振りながら溜息をつき、ザックスがふんと鼻を鳴らした。
「自業自得だ。さてと、順序が狂っちまったが、一応紹介しとくな。これが妹のエルザ」
「こんにちは」明るい金色の巻き毛のかわいらしい女性がレーネの手を握り、にこっと笑った。
「あら、まだコートもお預かりしてなかったわね。どうぞこちらへ」
「ありがとう、お願いします」エルザの、どちらかと言うと力強い顔立ちは、ザックスと似てると言えなくもないけど、全体的に小柄なために、印象としてはだいぶ違っている。それでもまっすぐに彼女を見る濃い茶褐色の目の輝きは、ザックスの金褐色の瞳と同様、意志の強さを感じさせた。彼女のふっくらと優しい手に、脱いだコートを載せるか載せないかのうちに、ザックスが再びレーネの腰に大きな手を回して引き寄せた。
「・・・と、エルザの夫のクンツ。そうは見えないが、一応、医者だ」
「『一応』はよけいだ」クンツが腰に拳を当てて漆黒の目をむき、レーネは思わず微笑んだ。確かザックスは以前、この人のことを、『いい男なんだ』と言っていた。どうやら二人は、心置きなくけなし合える親友らしい。
「で、こっちがイゾルデ。見てのとおりイゾルデとエルザは双子だ。まあ、すぐ、見分けはつくと思うが。なりも違うが、中身もかなり違・・・」
ザックスを押しのけるように、真紅の髪の女性がレーネの両手を掴んだ。
「ねぇ、さっきはいきなり叫んじゃってごめんなさい。あなたがあんまりキレイだったから、びっくりしちゃって」
「えっ?」