In die Heimat 7
「すっかり、ぞっこんね」
「えっ・・・?!」4-5人分を一度に淹れられそうな巨大なコーヒーフィルターをまじまじと見つめていたレーネは、はっと我に返り、と同時に、かあっと頬を火照らせた。
「え・・・え、はい、私・・・実はそうなんです」
どぎまぎしながら答えると、ヒルデはたっぷりのコーヒーの粉を缶から豪快に投入しながら、くすくすと笑い声を立てた。レーネの考えでは、コーヒーは挽きたての粉から一杯ずつ淹れるべきものだったけど、大家族では難しいだろうし、インスタントコーヒーでないだけ立派だと言えるだろう。
「25年近くあの子を見てきたけど、あんなあの子は初めてよ」
ああ・・・ザックスのこと。レーネはまたしても頬が熱くなるのを感じながら、テーブルの上の空のコーヒーカップを無意味に並べ替えた。
「そう・・・なんですか?」
「そうね」ヒルデが大げさなほど力強くうなずく。
「肩の力が抜けたって言うのかしら・・・あの子はね、長男だったせいか、子供の頃からいつも気を張って、身構えてるようなところがあったのよ。何もかも、自分が守らなきゃいけない、って思ってるみたいに」
「あの・・・それは今でも変わってないと思います。私もいつも守ってもらっちゃってますし・・・」彼女の窮地に二度までも彼が白馬の騎士のように飛び込んできて―実際は縄張りを主張する熊みたいだったとしても―救ってくれたことはもちろんだけど、それだけじゃなく、小さなことまで含めれば、何度彼に助けられたかしれない。道を歩いている時も、部屋で愛し合っている時でさえも、彼はいつも体を張って彼女を危険から守ろうとしてくれているように感じる。
「そうでしょうね。それがあの子の性分だから。でも・・・」
片手鍋に沸かしたお湯をヒルデが直接コーヒーの粉の上に注ぎ入れるのを見て、レーネは度肝を抜かれ、言葉を挟むどころではなかった。
「前よりは明らかに気持ちにゆとりができてるわ。自分の考えだけで事を運ぼうとせず、相手の意思を尊重することを覚えたみたいね。・・・あなたにはそうは思えないかもしれないけど」
そんなことありません、と言おうとしたが、動揺し過ぎていて一瞬間が空いた。
「あなたに逢う前のあの子はね、今よりもっと頑なだったわ。反抗的っていうんじゃないのよ。なぜかは分からないけど、まるで何か思い詰めて、焦ってるみたいに、いつも緊張して・・・たった一人で運命と闘おうとしてるようだった」
そういえばアウグスティンが、ザックスは以前はあまり自分のことを話さなかったと言ってたっけ。家族に対しても、そうだったのかしら・・・
「でも今は、前のような緊張を感じないの。きっと、本当に欲しかったものを、手に入れたのね」
見透かすような黄褐色の目がじっと注がれ、レーネはまばたきして、カップの取っ手のカーブを人差し指で撫でた。
「彼は・・・最初に逢った日に、私に御家族の話をしてくれました。私、それを聴いてて・・・彼が皆さんのことをとても愛してる、ってことをすごく強く感じたんです」
「まあ、そうなの」ヒルデはそう言ったが、それほど驚いてはいないようだった。
「最初に逢った日にね・・・そう」
いったん持ち上げた片手鍋を、ヒルデはまたこんろに戻した。
「父親のことは?何か聞いてる?」
はっとして、くすんだ金色の後れ毛のかかる横顔を注視したが、変わらない静かな表情からは何も窺えなかった。さりげない口調の中にかすかな懸念の影を感じたのは聞き間違いだったのかしら、と思いつつも、レーネは慎重に言葉を選んで答えた。
「彼が話してくれたのは、御家族はお母さんと妹さん達と弟さん、ということでした。・・・ずっと以前から」
あいまいにうなずいたヒルダが、再び鍋を持ち上げた。レーネは一瞬迷ったものの、勇気を出して尋ねてみた。
「もしかして・・・戦争で亡くなられたんですか?」
さっきヘルマン達が昔話を聞かせてくれた時、エルザとイゾルデはお父さんが生きていた頃のことをぼんやりと覚えているけれども、ヘルマンはほとんど覚えていないと言っていた。とすると、時期的にはその可能性は高い。そうでなければいいと祈りながらも、おそらく間違いないだろうとも思っていた。もしそうなら、あの時ザックスとヒルデが示した不自然な無表情もうなずける。そして今のヒルデの沈黙も。
「私・・・ごめんなさい、知らなかったんです。いえ、さっき初めて、そうかもしれないって気がついて・・・」
「生きているわ」
「はい?」首を傾げて見やると、ヒルデが片手に鍋を掴んだまま振り返った。
「『壁』の向こうにいるの。『東』側に」
一瞬考え、思わず、あっと声を上げた。ヒルデがうなずき、体をひねって鍋の湯をコーヒーフィルターに注いだ。
「あの、でも・・・」
「子供達は知らないのよ。もしかしたら、たぶん、ザックスは気づいているかもしれないけど。あなたには、父親は死んだとは言ってないのよね?」
「ええ、はい、でも、その・・・」これ以上詮索すべきではないという理性と、ちゃんと聞かなければという直感が、数秒間だけ交錯した。
「・・・教えて、いただけますか?どういうことなのか・・・」
少しためらった後、ヒルデはふっと溜息をつき、鍋を持っていない方の手でキッチンテーブルの椅子を示した。レーネは可愛らしい木製の椅子をテーブルの下から引き出して座り、ヒルデがお湯を更に少し注ぎ足してから斜め向かいに腰を下ろすのを見つめた。
「最初に言っておきたいんだけど、このことは、ザックスのあなたへの気持ちとは何も関わり無いのよ。このことで、あなたの態度が変わってしまうことも、あの子は決して望んでいないはずなの」
懸念に満ちたヒルデの瞳をまっすぐ見つめ返し、うなずいた。この問題―二つの国の複雑な歴史―がザックスとの絆をほんの少しも揺るがしたりしないということは、何度もザックスから言われたし、彼女自身もそう信じている。けれどそこに問題が在るということに―ただ在るという一言では片付けられないほど根深く絡み付いていることに―これからもずっと目をつぶって生きていくわけにはいかない。
「分かっています。でも私は・・・私達は、過去をきちんと受け止めようと決めたんです。皆さんが私を気遣って下さるのは本当にありがたいですけれど、私は、事実を知らずに自分だけ安穏と過ごすよりも、彼や皆さんと一緒に苦しむことを選びます」
ヒルデはまだ確信なさげにレーネの顔を窺いながら、テーブルの上で組んだ手の指をこすり合わせていたが、レーネの揺るがぬ眼差しに後押しされるように話し始めた。
「夫は、戦争が始まってしばらくして、志願して戦場に行ったの。それまではごく普通の、ただの家具職人だったわ。でも、党員だったし、そういう愛国主義的なところはあったんでしょうね・・・とにかく、それは当時としては別に珍しいことじゃなかった。私はずっと教師として働いていて、一人で小さな子供たちを育てるのは大変だったけど、それでも何とかなったわ。少なくとも初めのうちは、子守を頼めるくらいの経済的な余裕はあったし、そう、それにもちろん、ザックスも手伝ってくれたしね」
何かを思い出すようにヒルデは微笑んだ。
「あの子はまだ小学校に入ったばかりで、体もどちらかといえば小さい方だったんだけど。その頃はまだ夫とも連絡が取れていたし、たまに会うこともできたから、大変ではあっても、そんなものだと思っていたのよ。でも、そのうちだんだん戦況が厳しくなってきて、連絡も滞りがちになって・・・ザックスが小学校を卒業する年・・・」
ヒルデは言い辛そうに口ごもり、ちらとレーネを見た。
「ある場所で激しい戦闘があって、夫のいた部隊が潰滅したことを知ったの。しばらくして、戦死の通知が来たわ」
レーネはごくりと唾を飲んだ。
「その場所って・・・」
「ええ。あなたの国よ」何も言える言葉は無かった。
「当時ザックスはギムナジウムに進学するように勧められていて、私もどうにかしてそうさせてやりたかったんだけど、あの子はそれを断ってしまった。大学に行くことになんか全然興味は無いから、中学に進みたいって言い張って」
そのザックスの言い分はレーネには全く信じられなかったし、ヒルデもそうだったであろうことは聞かなくても分かった。無言でまばたきして視線を落としたレーネを見て、ヒルデはうなずいた。
「ええ、そう、少しでも早く仕事に就いて、家族を助けようと思ったんでしょうね。実際、あの子が中学を卒業する前だけど、敗戦後の一時期、夫が党員だったこともあって、私は教師の職を失ってしまったの。幸い私自身は政治的なことには関わってなかったし、科目も音楽だったから、すぐに復帰できたんだけど。それでも経済的にかなり難しい状態だったことは間違いなかったから、あの子が自立してくれただけでもとても助かったわ。その上あの子は1年も経たないうちに職人に昇格して、私達に仕送りまでしてくれるようになったのよ」
ザックスがどれほどの犠牲を払い―彼はきっとそれを犠牲だとは思ってないだろうけど―どれほどの努力を重ねて愛する人達を守ろうとしてきたのか、その気持ちが痛いほど身に沁みた。
「あの子には本当に申し訳ないことをしたわ。若者らしい夢や、やりたい事もあったでしょうに、全部あきらめて、体を張って私達のために尽くしてくれた。おかげで今はエルザもイゾルデも自分の道を歩んでいるし、ヘルマンも来年には自分の夢に向って巣立っていけるでしょう・・・だから今度は、あの子自身が幸せになる番だと思うの」
じっと見つめてくる黄褐色の瞳が何を求めているのか、レーネにも分かっていた。
「ええ。私も彼に幸せになって欲しいと思いますし、私にできる限りのことはするとお約束します」
きっぱりと答えると、ヒルデはほっとしたように溜息を漏らした。が、レーネは続けて言った。
「でも、私が知っている限り、彼はこれまでも、本当に自分がやりたいことをやってきたんだと思います。彼にとって一番大切だったのは、お母様や、妹さん達や、弟さんが幸せでいることで、そのために自分にできることがあるってことが、彼にとっても最大の喜びだった・・・と・・・思うんですけど・・・」
まじまじと凝視されて、次第に声が小さく、尻すぼみになってしまった。
「ええと、だからその・・・私も彼を守れたらすごく嬉しいと思いますし・・・でも、ちゃんと相談しろって言われてるんですけど・・・だから、あの・・・よけいなこと言ってすみません」
しばしの沈黙の後、はっと目が覚めたようにヒルデが頭を振った。
「ああ、そうそう、夫のことだったわね。彼はどうしたか、って話をしてたのよね」
話題が変わったのでほっとしながらレーネはうなずいた。
「さっき、お父様は生きてらっしゃるっておっしゃってましたけど・・・」