In die Heimat 8



 
「ええ。でもそれが分かったのは去年のことなの。・・・彼から手紙が来たのよ。暗号みたいに遠まわしに書いてあって、長い手紙だったけど、かいつまんで言うと、戦場で瀕死の状態で見つかった彼は、最終的に首都の陸軍病院に運ばれて、そこで意識を取り戻したらしいの。でも完全に記憶を失くしていて・・・認識票や、身元が分かるようなものも何も残ってなくて。頼れる人もなく、たった独りで、まったく新しい人間として生き直すしかなかった。・・・退院した後も戦場に戻れるような状態ではなかったから、軍関係の施設で雑用係をしてたそうよ。終戦後も、他に帰る所も無かったから、そのままあの街で、ぼつぼつと色んな仕事をしながら生活して・・・」

ヒルデは感情を交えず訥々と語っていたけれど、彼女の胸の内を思うと、胸が締め付けられるようだった。たとえ亡くなっていなかったとしても、彼女の夫も、それにヒルデ自身も、戦争の犠牲者には違いなく、もしザックスがそんな目に遭ったらと考えるだけでも耐えられなかった。

「そして偶然、彼が住んでいた地域は『東』だった。だから私達は、知らないうちに国境に隔てられてしまっていたの。・・・ところが去年、向こうの新聞にこの辺りの地方に関する記事が載って・・・彼はそれを読んで、いちどきに何もかも思い出したそうよ」

ヒルデは疲れた様子で首を振った。

「でもその時にはもう『壁』ができていて、自由に行き来することもできなくなってしまっていた。彼はもう二度と、ここに帰ってくることはないのよ」

ヒルデはただ小さく溜息をついただけで、泣きも喚きもしなかったけれど、そのまま気力を失くしてしまった人のようにぼんやりと座り込んでいた。そして、ふとレーネがそこにいることに気づいたように、目を上げてすまなそうに微笑んだ。

「ごめんなさい。繰り言を聞かせるつもりじゃなかったのに。あなたの国を非難してるわけでもないのよ。なぜかしらね、あなたにはつい、胸に溜めていた事まで話してしまうわ・・・」

レーネはそっと首を振った。

「だから・・・ザックス達に話さなかったんですか?また家族と引き裂かれる苦しみを味わわせるくらいなら、亡くなったと思っているままにしておいた方がいいと・・・」
「そんな単純なことではないの」

学校の先生が生徒をたしなめるような、ややきつい口調でヒルデがさえぎった。

「もちろん特別許可を取れば私達が彼に会いに行くことはできるし、無理をすれば、向こうへ移住することだって不可能ではないわ。でも、私はともかく、子供達にはそれを押し付けられないし、それに正直言って、そうさせたくなかったのよ。分かるでしょう?」

確かに今の政治情勢では、あちらに行くことはそれだけで少なからぬリスクを伴うし、こちらの生活を捨てて向こうで暮らすことなど、さらに考え難い。ザックスやイゾルデの仕事には明らかにこちらの世界の方が適しているし、ヘルマンにしても自由に勉強ができるだろう。そしてエルザは・・・エルザは、例え二度と家族と会えなくなるとしても、クンツの傍に居ることを選んだに違いない。

「ザックスはともかく、他の子達にとっては、初めから父親はいなかったも同然なのよ。今さら彼が生きてると分かったからって、どうしようもないわ。私だって、子供達と離れることなどできない。十余年という歳月は、短くはないのよ・・・」
「そう、ですね・・・」

視線を落として、うなずくしかなかった。少ししてふいにヒルデは立ち上がり、レーネに背を向けて、こんろのあるカウンターに手を伸ばした。物思いにふけっているようなやや鈍い動きで片手鍋を掴む。コーヒーフィルターの上に湯の落ちる音がした―と思ったとたんに音が止んだ。

「実を言うとね・・・一度だけ彼に会いに行ったのよ。私一人で」
「ええ・・・えっ?」

何気なくうなずきかけた首をぱっと上げる。ヒルデがゆっくりと振り向いた。

「手紙を受け取ってすぐ、仕事上の理由を付けて入国を申請して・・・いくらか揉めたあげく、数ヶ月かかって許可が下りたわ。私は直ぐに出かけた。子供達には、表向きどおり、仕事のための旅行だと偽って。4日間だけだったけど、娘達だけで家に残したくなかったから、ザックスに休みを取って帰ってきてもらって」

つまり、たぶんザックスはその時に、お父さんが生きて『東』にいることに勘付いたんだろう。彼は洞察力があるし、頭もいい。お母さんの言葉や様子のちょっとした断片からその結論を導き出すのは、きっと難しくなかったに違いない。

「向こうでの行動はかなり厳しく制限されていたけど、何とか抜け出して彼に会ったわ。私達は話し合って・・・」

淡々とした声が消え入るように途切れた。レーネは黙って待った。ほんの数秒でヒルデは再び話し始めた。

「・・・それで、このまま別々の人生を送ることに決めたの。彼も私と同じ意見だったし、彼のためにもその方が良かったのよ」
「そう・・・なんですか?」

疑義をはさんだつもりは無かったけれど、ヒルデは唇の端を引き上げて、ひきつったような笑みを浮かべた。

「言ったでしょう。離れ離れになってから、もう、十年以上経ってしまっているのよ。・・・彼にだって、その間に大事な人ができてて当然よ」

思わずまじまじとヒルデの顔を見つめてしまい、はっと気づいて慌てて顔を背けようとしたが、ヒルデは真っ直ぐにレーネの視線を捉えて目を逸らさせなかった。

「直接話をしていて、それが分かったの。彼は、それまでは自分の過去が分からなかったから、相手と関係を築くのをためらっていたみたいね。でも、こうしてきちんとけじめをつけられたから、もう、ちゃんと新しい人生に踏み出せるって・・・」
「お父様が?そうおっしゃったんですか?」
「ええ」

肩をすくめ、何でもないことのようにヒルデは短く答えた。けれどその刹那、彼女の口元に張り付いた奇妙に静かな笑みが、一瞬揺らいだように見えた。激しい胸の痛みを感じ、思わず片手で咽喉元を押さえる。ザックスの両親には彼らの考えがあり、自分が口をはさめることではないのは分かっている。それでも、以前、ザックスに恋人がいると思った時の、心が張り裂けそうな気持ちを思い起こさずにいられなかった。

「あの・・・」

声がかすれて途切れた。ヒルデがいぶかしげに眉を上げてレーネを見る。軽く咳払いして唾を飲み、咽喉を湿らせてから再び口を開いた。

「・・・ごめんなさい。つらいお話だったのに、話して下さって、ありがとうございました。私が謝ったところでどうにもならないのは分かっていますし、過去を消すことはできませんけど、それでも・・・私達の国の間に戦争がなかったら良かったのにと思います。心から、お気の毒に思います」

ヒルデの薄い色の睫が小さくまたたき、首がわずかに左右に振れた。

「あの戦争で夫を失くしたのは私だけじゃないんですもの・・・この国でも、あなたの国でも、それに、世界中のたくさんの国で」

だからといってヒルデの悲しみや苦しみが減るわけではないに違いない。レーネは声に出してそう言ったわけではなかったが、ヒルデはレーネの沈黙から察したようだった。

「それを認識することで、楽になりはしないとしても、耐えやすくはなるのよ」

静かな、穏やかな声だった。少なくとも、表面上は。・・・これ以上何も言うべきじゃない。そう分かっていたのに、気がつけばまた、口から勝手に言葉が出ていた。

「あの・・・こんなこと私が言うのは、おこがましいと思われるでしょうけど・・・」

膝の上で両手を強く組み合わせ、鋭い黄褐色の瞳を見つめ返しながら、頭の中に散らばる想いを懸命に組み立てる。

「私は・・・思うんです。『壁』は、いつまでも人々を隔ててはおけない、って・・・『壁』で創り出された世界は、誰が、どんな目的で創り出したものだろうと、いつまでも閉じ込められたままではいなくて・・・人の想いは、本当はとても強いものだから、きっといつか『壁』を乗り越えて、つながって・・・」

ヒルデは厳しい表情を崩さず、ただじっとレーネを凝視している。レーネは唇を噛み、言葉を切った。確かに、実際に『壁』を越えようとして何人もが命を落とした現実の前では、自分の言葉は白々しい絵空事としか聞こえないだろう。それでも・・・ ぎゅっと両手を握り締め、必死に言葉を捜し続けた。

「だから・・・失ってしまったものは戻らないけれど・・・希望は決して無くならないから・・・本当の自分の、本当の気持ちは、つらかったことも全部、きっと大切な、意味のある・・・」

最後まで言い切ることはできなかった。きゅっと結ばれた薄い唇が震え、凛とした瞳にみるみるうちに涙が盛り上がったかと思うと、ヒルデがいきなり両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏して堰が切れたようにむせび泣き始めた。レーネはぎょっとしてはじかれたように立ち上がり、うろたえながらテーブルを廻って走り寄った。

「ご、ごめんなさい、私、よけいなことを・・・」

遠慮がちにそっと肩に手をかけると、ヒルデが家族のように自然に身を預けてきた。

「いいえ・・・いえ、そうじゃないの・・・そうなのよ・・・」

レーネの二の腕をがっちりと掴み、額を押し付けて、否定と肯定の言葉を交互に呟きながらヒルデがしゃくり上げる。その震える肩をしっかりと抱きしめる以外、できることは何もなかった。やがて年上の女性の慟哭は、徐々に静かなすすり泣きへと変わり、呼吸も少しずつ落ち着いてきた。レーネはまだ途方に暮れていたが、ヒルデはレーネの腕を掴んだままゆっくりと体を起こし、すすり上げながら呟いた。

「・・・エスペラーンス(希望)・・・」
「・・・はい?」

唐突に本名で呼ばれて一瞬戸惑いながらも返事を返すと、ヒルデはうつむき加減に首を振って溜息をつき、顔を上げてレーネを見つめた。黄褐色の瞳で、ザックスと同じ金色の光がきらりと瞬いた。

「彼がこの世界のどこかで生きていると知って、私は本当に嬉しかったの。それがたとえ、世界の向こう側でも」
「はい」

レーネがうなずくと、ヒルデはいったん唇をきゅっと引き結んでから、その先を一気に続けた。

「でも本当は、彼がここに、家族と一緒にいてくれればいいのにと思わずにはいられないのよ」

それは真実の言葉だった。誰にも―夫にも子供達にも明かしたことの無い、嘘偽りの無いヒルデの心。今はまだ赤の他人も同然のレーネに、それを明かした気持ちに打たれ、レーネは黙ってうつむいた。細いが力強い手が彼女の顎を捉えて持ち上げ、怜悧な虎目石の瞳が真正面から覗き込んで来た。

「あなたは・・・たとえどれほど望みが少なくても、努力し続けることを、恐れない人なのね」
「えっ・・・え、と、私・・・」

曖昧に言葉を濁しかけたとたん、胸がどきりとした。そういえば私、永遠にザックスとお別れだと思ったあの時・・・

「私・・・よく分かりませんけど・・・でも、それがもし、本当に大切なものだったとしたら、つらいのはむしろ・・・」

消え入るように途切れた言葉の後を、ヒルデが引き取った。

「あきらめること?」
「はい。・・・と、思うんですけど・・・」

ヒルデは泣き笑いのようにクスクスと声を立ててかすかに肩を揺らし、それから鋭い視線をひたとレーネに据えた。

「やっぱりウチの息子は賢いわね。あなたはあの子にぴったりよ」
「え?!・・・あ、あの・・・」

まるでレーネが慰められていたかのように、ヒルデはレーネの背をぽんぽんと叩くと、立ち上がってこんろの方に向き直り、とっくに落ち切っていたコーヒーをカップに注ぎ分けた。見たこともないほどなみなみとコーヒーの入った4つのカップが、トレイに載せられてレーネの前に置かれる。まごついて見返すレーネに、ヒルデは肩をすくめた。

「それを持って行ってちょうだい。私はあと3人分淹れてから行くわ」
「あ、は、はい」

こぼさないようにそっと持ち上げ、ダイニング側の出入り口に向かって数歩進んだ時、後ろから声を掛けられた。

「ありがとう・・・レーネ」

カップの中の液体を揺らさないように気をつけて振り返り、微笑んだ。

「どういたしまして。これくらい、お安い御用です」

ヒルデはくすりと笑ってから、真剣な面持ちで首を横に振った。

「あなたは、あなたが思うよりたくさんのことを、私達にしてくれたのよ」

レーネはトレイを掲げた姿勢のまま、困惑して首をかしげた。が、ヒルデはさっと笑顔に戻ると、きびきびとこんろの方に向き直った。

「さあ、冷めないうちに、早く」

義理の母の小さくとも力強い後姿をしばし見つめてから、レーネは静かに部屋を出た。


 

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