In die Heimat 9



 
「おふくろと何を話し込んでたんだ?」

家族と離れ、宵闇の道を二人で歩き始めてから初めてザックスが尋ねた。

「ええと・・・いろいろよ。あなたが子供の頃のこととか・・・」

たとえザックスにではあっても、あまり詳しく話すつもりは無かった。ヒルデもそう望んでいるだろうし。ザックスは渋い顔をしている。

「なんだかおふくろの様子がいつもと・・・」
「あなたが兄弟の面倒をよく見てくれて助かった、って」

オートバイのタイヤが砂利道に軋む音に交じって、ふん、と鼻を鳴らす音がした。こんなに軽々とオートバイを押して歩く人を見たことがない。しかもこんなごついタイプのものを。

「おふくろの話は『ひいき目』なんだ。真に受けるなよ」

急速に深まっていく闇の中でこっそり微笑み、太い腕にすり寄った。彼がどれほど献身的に愛する者を守ろうとするか、あらためて指摘したりはしなかった。夕暮れ後の田舎町はほとんどひと気が無く、二人の足音と木々の葉が風で擦れる乾いた音の他には何も聞こえないけれど、不安はひとかけらも感じない。と、隣から低いうなり声が響いた。

「・・・そうか、お前に昔の話をしてたから、それで気分が若返って、いつもと違ってたんだな」

思わず溜息をついた。

「あなた達きょうだいがお母様を大事に思ってるのは分かるけど、お母様はまだお若いのよ。本人もおっしゃってたでしょう?」
 
 
 
 
 

レーネがダイニングに戻ると、兄弟たちはまだテーブルでにぎやかに小突き合っていた。ザックスがちらと眉を上げて尋ねる表情をしたので、にっこり笑ってトレイを掲げてみせた。

「とりあえず4人分よ。大家族だと大変ね。まだあと3人分淹れなきゃいけないんですもの」

トレイをテーブルに置きながら一瞬手が止まりかけたが、悩む間も無くザックスがカップを取り上げ、エルザとイゾルデとヘルマン、そしてレーネの前に置いた。

「へぇ、今日は兄貴達のぶんも淹れてるんだ。母さん、気合い入ってるなあ」
「そりゃ、ザックスも俺も、いつもみたいに夜中まで呑んでるわけにはいかないだろ」

ヘルマンの何気ない感想にちょっとどきりとしたが、クンツが軽く流してくれたのでほっとした。二人に微笑みかけながら再びザックスの隣の椅子を引くと、すかさずイゾルデが身を乗り出してきた。

「ねぇレーネ、本当にあそこの教会で結婚式をするつもりなの?確かに兄さんは強引だし、頑固だけど、何でも兄さんの言うとおりにしなくてもいいのよ」
「おい・・・」
「あら、違うわ」

コーヒーを一口味わい―風味は大味で、しかも若干冷めてはいたけれど、ヒルデの温かい心が感じられた―レーネは答えた。

「私が、あそこでやりたい、って言ったの。さっきこの家にくる途中であの教会を見かけて、一目惚れしちゃって」
「そう、小さいけど、ロマンチックで、いい雰囲気でしょ」

エルザが嬉しそうに言った。

「私もあそこで式を挙げたのよ。子供の頃からずっと、あそこで結婚式をするって決めてたの」

イゾルデが、ザックスがいつもやるのとそっくりに鼻を鳴らした。

「私は役所でやる式だけで十分だわ。もし万が一、結婚するようなことがあったとしてもね」

ああ、そういえばこの国では、そうする人も多いんだっけ。レーネがうなずくかうなずかないかのうちに、クンツがザックスに現実的な質問を投げかけた。

「それはそうと、新居は決まってるのか?」
「俺んちがあるだろ」

何を分かりきったことをと言わんばかりの口調でザックスが答えたとたん、再び、怒涛の騒ぎになった。

「ええっ?!もしかして兄貴が帰ってきた時に寝起きしてる、あそこのこと?」
「ちょっと兄さんたら、本気なの?あんな所にレーネを連れてくなんて!」
「二人とも街で暮らすんじゃないの?」
「お前、仕事どうすんだよ?レーネだって大学があるだろ」
「ええっと・・・」

騒ぎに負けないように精一杯声を張り上げると、ぴたりと皆が口をつぐんだ。レーネはぐるりとテーブルを見回して、自分の隣で止めた。

「『俺んち』って?」

みな黙ったまま、いっせいにレーネからザックスに視線を移した。ザックスは料理の中に何か気になるものでもあったかのように、空の皿をつついた。

「1年くらい前に、町外れに・・・ここから10分ばかしの所だが・・・家を買ったんだ」
「『家』と言うより、『小屋』よ」

イゾルデが辛辣に切り捨てた。

「廃屋で、タダ同然だったの」
「それにあそこは二部屋しかないよ」
「まともなキッチンも無いわ」
「まあ、新婚なんだから、ベッドルームさえあれば・・・イテて!」

テーブルの下でごつんという音がして、クンツがエルザの側の足を押さえた。ザックスが咳払いしてレーネに向き直った。

「遠いことは遠いが、街まで通えないわけじゃねぇ。家の方も、最初は不便だろうが、そのうち何とかするつもりだし、慣れればどうにか・・・」
「だから、どうしてそこまでしてこっちで暮らすのよ?」

唇を尖らせたイゾルデに、ザックスが厳しい表情を向けた。

「誰かがおふくろのそばにいてやらなきゃならねぇ。ヘルマンが大学に入ったら、そうしょっちゅうは帰って来れなくなるし、イゾルデだってそのうち街に出るつもりだろう?」

イゾルデは可愛らしい口許をへの字に曲げたが、エルザが猛然と反論した。

「何言ってるの、この町には私とクンツがいるでしょ」
「そうだぞ。俺達は家族なんだからな。妙な遠慮はするな」
「ありがてぇが・・・」
「あなた達!勝手に人を年寄り扱いするのはやめてちょうだい!」

キッチン側の戸口から鋭い声がして、両手に3つのマグカップを持ったヒルデがずかずかと入って来た。

「私はまだ45よ!あなた達が独立したら、これからの人生を自由に楽しむの!」

ドン、とテーブルの上にマグカップを置き、腰に手を当てて叱りつけるように睨み回す。弟妹達は首をすくめ、ザックスはカップの1つに手を伸ばしながら渋い表情で母親を見上げた。クンツがとりなすように両手を上げて言った。

「ま、そういうわけだから、ここは・・・」
「私のためなのね?」

唐突なレーネの一言に、皆がしんとなった。

「街にいると、いつまた襲われるかもしれないから・・・私を守るために。そうなんでしょ?」

ザックス以外の全員が、いっせいに息を呑んだ。ザックスは黙ってカップを唇に運んだ。ずっと、彼は彼女のことをどのくらい詳しく家族に話しているんだろうと思っていたけれど、この様子だと、ほぼ全てを打ち明けていたらしい。問うようにじっとザックスを見つめると―疑問符付きで尋ねはしたものの、ほぼ確信はあった―彼はコーヒーを一口すすってから横目でレーネを見返し、テーブルに置いたマグカップの取っ手を―普通のマグカップなんだけど、彼の手の中にあるとなんだか華奢に見える―ごつい親指で撫でた。

「・・・いや、そればかりじゃねぇが・・・ここはのどかな町だし、ほとんどみんな顔見知りだから、よそ者がいたらすぐ分かるし・・・お前もこっちの方が落ち着いて暮らせるんじゃねぇかと・・・」

ためらいがちな低い声が終わらないうちにレーネは体を投げ出し、無精髭の伸びた太い首に抱きついていた。

「ありがとう、ザックス」

力強い腕がぎゅっと背中を抱きしめて支えてくれる。

「じゃあ、いいな?」

耳元で、深く豊かな声が、気遣うように優しく響く。雄雄しく、懐かしい、匂いと温もり。ああ、ここはなんて居心地がいいんだろう・・・

「あなたを信じてる。愛してるわ、ザックス」
「ああ、俺も、愛してる・・・」

そっと触れ合った唇から、熱い想いが伝わってくる。ぐっ、と背中に回された腕に力が籠もり、口づけが深くなりかけた時、咳払いの音で我に返った。一瞬の沈黙がテーブルを包む。クンツが人差し指で額に垂れた前髪の辺りを掻いた。

「ま、今はそのくらいにしといて、続きは二人きりになってからにしたらどうだ?未成年もいることだし」
「僕のことは気にしなくていいよ、全然。どうぞそのまま続けて」
「ヘルマン!人をからかうのはやめなさい」

ヒルデに叱られてヘルマンは首をすくめたものの、興味津々という眼差しで二人を見つめている。ザックスが咽喉の奥で唸り、レーネの体を押し戻した。頬を染め、自分の椅子に座り直したレーネに、ヒルデが尋ねた。

「本当にいいの?とりあえずの色々な問題は別にしても、住む場所を選ぶことは、人生を選ぶことになるのよ」
「ええ」

まだ頬に熱を感じながら、呼吸を整えつつ、うなずいた。

「言われてみれば、私、ここに住むことが、すごく自然な気がするんです。ザックスに出逢えたことと同じくらい、私に定められていたことだ、って思えて。それに私はこの町が好きですし」

自然に口許がほころんだ。

「この辺りはハーブもよく育つみたいだし、ここでたくさん勉強して、この町のみなさんのお役に立てたら嬉しいわ」
「あら、レーネ、あれを見たの?」

エルザが笑顔を向けてきたが、レーネには意味が分からなかった。

「え?『あれ』って?」

全員が奇妙な表情で彼女を見つめ、レーネはおずおずと皆を見回した。

「ど、どうかした?私、何か変なこと・・・」
「別に」

ザックスが短く答えて、いきなり立ち上がった。

「じゃあ俺達はそろそろ家に帰るから。おふくろ、ごちそうさま。どれもうまかったよ」
「あ、でも、後片付けを・・・」

慌てて立ち上がりながら言いかけたレーネの言葉は、女性陣からの一斉反撃の声で掻き消された。

「何言ってるの、今日はここに泊まりなさい。そのつもりで準備もしたんだから」
「そうよ、私、今夜はレーネと語り明かすのよ」
「私も。レーネ、今日は私とイゾルデの部屋で寝ましょうよ」
「えっ、じゃあ俺は?」

情けない声を上げたクンツにエルザが冷たい一瞥をくれた。

「家に帰って一人で寝なさい」
「そんな。何とか言えよ、ザックス」
「とりあえず、こいつに家を見せる」

ザックスはレーネの腰に腕を回して引き寄せながら断固とした口調で言い切り、反論したそうな妹達の機先を制するように、間を置かずに続けた。

「これからずっと暮らす家だからな。夜の様子も見といてもらわねぇと」
「じゃあ、見るだけ見たら、またここにレーネを連れて帰ってきてよ?」
「兄さんはこっちに泊まらなくてもいいから」

それには返事せず、ザックスは大きな体を屈め、母親の頬に軽くキスした。

「これからしばらくおふくろも忙しくなると思う。悪ぃな」
「私は大歓迎よ」

微笑んだヒルデの揺るぎない眼差しは、真っ直ぐレーネに向けられていた。


 

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