In die Heimat 10



 
まだ宵の口ながらも、こちらの空気は街よりもやはり冷たく感じる。湿った森の匂いに交じって、何処からか野生のセージの香りが漂ってくる。指を丸め、ひんやりした皮のジャンパーの袖をぎゅっと掴んだ。

「ねぇ、ザックス?」
「ん?」
「さっきのあれって、何だったの?」
「『あれ』?」

見上げなくても、声の響きの違いで、彼がこちらに顔を向けたのが分かる。

「うん、ほら、私がここに住みたいって言った時にエルザが・・・」
「ああ、あれか」

巨大なオートバイを押しながら、ザックスは逞しい肩をすくめた。

「たいしたことじゃねぇ。例の教会の壁にあるんだ。そういう言葉が」
「えっ?」
「側廊の壁に一枚だけ、古い文字の書かれた石があってな。たしか、『草を知り、以て献身す』だっけな。完全な文章は失われてて、由来も、正確な意味も分からねぇが、聖マグダレーネと関係あるんじゃねぇかって言われてる」
「そうなの・・・」

その文字を見た覚えはない・・・と思う。夢の中でも。それとも無意識に視界に入っていたの?

「考えてみればおもしろい偶然だよな。お前はハーブの勉強のためにわざわざこっちに来た。おかげで俺はお前を見つけられた。ハーブがお前を引き寄せてくれたんだ」

・・・ハーブの勉強をしに来たのは本当だけど、でもそれよりも、なぜだか分からないけど行かなきゃいけない、って気持ちに急き立てられて、居ても立ってもいられなくて、来ちゃったんだけど。それも、聖マグダレーネとハーブに招ばれた、ってことになるのかしら・・・

「たとえ俺がこいつで一生走り回ったとしても、それだけじゃあ、きっとお前を見つけることはできなかっただろう」

押しているオートバイのハンドルを片手で軽く叩いてザックスが言う。そういえば、ザックスは休みのたびにどこかに出かける、って、アウグスティン達が話してたっけ。あれは、オートバイでツーリングをしてたのね。

「・・・私、あなたがオートバイ好きだったなんて、全然知らなかった」

何気なく呟くと、ザックスがきらりと目を輝かせ、がぜん勢い込んで話し始めた。

「走るものならたいてい好きだ。ただ、やっぱりオートバイは便利だからな。こいつは、ほとんどタダ同然で譲ってもらったし。こいつでずいぶんあちこち回った。国中、それから国境も越えて、時間の許す限り、行けるとこまで。俺はずっと捜して・・・」

声が消え入るように途切れ、沈黙が続いた。レーネは首をかしげて彼を仰ぎ見た。

「何を?」
「いや、何でもねぇ」

・・・なんだか物思いに沈むような声。何なんだろう?何か言いたくない理由が―あるいは言いにくい理由があるのかしら?でも、彼が言うまいと考えることを無理に聞き出さなくてもいい。話せる時が来たら、話してくれるだろうから。レーネはザックスの気分を引き立てるように、明るい声で言った。

「あなたの靴屋でオートバイも売るといいかもね。それとも、ガソリンスタンドでも併設する?そうすれば『走るもの』がたくさん来てくれるわ」
「いい考えだ」

彼の楽しそうな笑い声が胸にずしんと響く。頑丈な腕に頬を摺り寄せて彼の匂いを深く吸い込み、体全体を包み込むような大きな温もりを感じながら、幸福感に胸をふくらませる。しばらくして、ザックスが低く呟いた。

「あっちの歌なのか?」
「え?」

きょとんと隣を見上げると、ザックスがちらりと視線を寄越した。

「今、歌ってたヤツ」

いつの間にか鼻歌を歌っていたらしい。暗くて、顔が赤くなったのがたぶん分からないであろうことを感謝しながら、レーネは小さく首を振った。

「いいえ。自分で勝手に作ったの」
「・・・そうか」

ザックスの声には、どこか淀みがあった。何か遠いものを想っているような、記憶の中に何かを探しているような・・・?

「変よね。ごめんなさい」
「いや。歌っててくれ。お前の声をずっと聴いていたい」

ああ、もう、どうしてザックスってば、こんなドキドキする言葉を、こんなにさりげなく言っちゃうの?

「ありがとう。私も、あなたの声を、ずっと聴いてたいな」

腕の中で、彼の太い腕にきゅっと力が入って、より太く硬くなった。その時、ふと気づいた。

「そういえばザックスが歌うのって、今まで聴いたことがないような気がするけど・・・歌わないの?どうして?」

月の無い、星明りの闇の中で見上げた顔は、やや困惑しているように見えた。

「どうして、って言われてもな・・・歌うようなこともねぇし」

でも、この間の秋祭りの時も、フリッツやアウグスティン達はバンドの音楽に合わせて歌っていたけど、ザックスはただ黙って飲んでいた。

「子供の頃は、時々歌ってた気もするが・・・何だろうな、俺の歌とは違うような気がして・・・何て説明すりゃいいのか、よく分からねぇが」
「そう・・・」

『俺の歌』というのが何なのかは分からないけれど、たぶん、歌った時に自分の心にしっくりくるかどうかっていうことなんだろう。黙ってしまった彼女を、ザックスがちらっと見下ろした。

「聴きてぇのか?俺なんかの歌を?」

思い切り力強くうなずくと、ザックスは足を止め、困ったように片手で頭を掻いた。

「あー・・・どうしても?」
「ダメ?」

ザックスは深々と溜息をつき―彼の溜息は、それだけで彼女をうっとりとさせる音楽のようだけど―ためらいがちに言った。

「分かった。じゃあ、いつか、そのうちにな」
「約束よ」

右手を上げて人差し指と中指で十字架を作ると、ザックスも同様に応える。

「ああ。ただし期待するな。俺は、お前やおふくろと違って、音楽の素養が無いんだから」


 

 続き Fortsetzung

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