In die Heimat 11



 
音楽の先生に育てられたんだから、素養が無いはずはないと思ったけれど、とりあえず黙ってうなずいておいた。ひんやりした夜気は、少し湿って、古い物語の世界にいるように神秘的に感じる。進むにつれ、森の匂いがしだいに濃く、深くなっていく。見知らぬ田舎町の暗い夜道を歩いているのに、魔法にでもかけられたように、足が勝手に動いた。素朴な木の橋が足元でぎしぎしと軋み、傍らの闇の中で、見えないせせらぎが優しい音楽を奏でる。橋を過ぎたところから家並みは徐々にまばらになり、黒い森の影が生き物のように広がってきたが、怖れは感じなかった。

「ここはとても素敵なところね」

充たされた笑みを浮かべてレーネは囁いた。

「初めて来たのに、なんだか・・・」

ふいに息が止まり、言葉も無く、それを見つめた。ザックスも足を止め、黙って並ぶ。

谷あいに広がる土地に沿って伸びる街道―今、二人が歩いてきた砂利道―から、右に少し逸れた小道の先に、その家は建っていた。自分の胸に湧き上がる感覚が何なのか、言葉では言い表せない。ただ、突然、熱いものが込み上げ、涙があふれ出した。

「えっ、お、おい、レーネ?」

慌てふためくザックスの気配がし、それから肩を強く掴まれたが、レーネは前方を向いたまま目をしばたたき、潤んだ目に何とかその小さな家を捉えていようとした。確かに、一般的には家とは呼べないような質素な平屋の建物は、強い風が吹けば壊れてしまいそうに粗末に見える。けれど、他の家々から離れて数本の雑木に囲まれ、かすかな星明りに浮かび上がる小さなシルエットは、レーネには、まるで夢の中の我が家が抜け出してそこに立っているように思えた。もちろん、建物の外観は全く違う・・・と思う。でも、その、つつましく穏やかなたたずまいの印象が、心の中の何かを呼び覚ます―まるで闇の中でその場所だけが内側から輝き、彼女に呼びかけているように・・・

・・・帰ってきた・・・やっと、帰ってきた・・・

胸の中で呼応して燃え上がった炎と、こぼれ落ちる涙で息が苦しくなり、レーネは思わずすすり泣いていた。

「そんなにひどいか?・・・そりゃそうだよな。お前がこれまで暮らしてきた所に比べれば・・・」

ザックスがおろおろと彼女の肩を抱いてさする。鼻をすすり上げ、何とか返事をしようとしたけれど、咽喉が詰まったみたいに声が出ない。

「中はそんなにひどくねぇと思うが・・・お前がどうしてもイヤなら・・・」
「私たちの家、なのね」

やっと声が出たが、かすれた声は自分の耳にもきつい口調に聞こえ、ザックスがびくりと身をこわばらせた。

「あのな。俺はお前を悲しませたくはねぇんだ。俺はお前を幸せにしてやりてぇ。だからもし、俺の考えたことがちょっとでもお前を不幸にするんだったら・・・」
「いいえ」

焦ったように体を抱き寄せようとする逞しい腕を、そっと片手で押さえる。反対側の手の甲で涙をぬぐい、身をよじって彼に向き直って、なんとか笑顔を浮かべようとした。

「ごめんなさい、心配させて。泣いたのは・・・なんだか感動しちゃったから。だって、私、今、信じられないくらい幸せなんだもの。私、こんなに幸せになってもいいの?この国のみんなが・・・あなたも、お母様も、私の国のことで、辛い思いをしたのに・・・私は、敵の娘なのに・・・」
「いいんだよ」

どきっとするほど荒っぽい口調でザックスが言い放つ。と同時に、ぐい、と広い胸に引き寄せられた。温かな腕にぎゅっと力を籠めて抱きしめられ、レーネはあえいだ。

「俺には分かる。お前は幸せになるべき・・・幸せにならなきゃならねぇんだ。お前が幸せになる時は、俺たちも幸せになる時だ。お前が幸せに生きられる世界が、みんなが幸せに生きられる世界なんだ」

背中に、大きな手の強い熱を感じる。揺るぎない腕の中、硬く分厚い胸板に掌と額を押し付け、深く息を吸い込む。ジャンパーの古い革の匂いに混じって、はだけた胸元から放たれる、熱く湿った男の匂いが香り、胸の奥へと沁み込んでいく。

「みんなが・・・幸せに・・・」
「ああ」
「・・・どんな壁も・・・心の中の壁も無く?」
「ああ、そうだ」

それがどれほど困難かは、彼自身、よく分かっているはず。現実には不可能な、夢物語の世界。それなのに彼が言うと、本当になりそうな気がする。

ああ、本当に、そうだったら。本当にそんなふうに、境界線へのこだわりを捨て、過去のわだかまりも越えて、誰もが自由に生きられるようになったなら。せめて、誰もが境界を越えて自由に行き来し、愛したい人を愛せるようになったなら。

「俺を信じろ。お前は必ず俺が守る。お前も、俺達の子供も。今度こそ、絶対に。そのために世界を変える必要があるなら、そうする」

その時、唐突に気がついた。自分にとっては、希望も、絶望も、彼と共に在るのだと。二人が出逢う前からそれは定められていて、無意識のうちに私はそれを感じていた。そして彼と出逢って私は、新たに生き始めた―本当の自分を。私の命そのものが、この人の存在と分かち難く結びついていて、決して切り離すことはできない。

私は何の力も無い、ただの一人の女に過ぎない。それでも彼がいれば、どんなことも怖れずに立ち向かうことができる。彼の想いが―彼への想いが、私に勇気を与え、私を強くしてくれる。

彼こそが私の、希望の光。

私達には、世界を変えることなどできないのかもしれない。それでも、敵同士に生まれついた私達が幸せになれば、それは、世界の片隅が、ほんの少し変わったことになるのかしら?そうして、もしかしたら・・・

急に空が晴れたように、自分が何をすべきか―何をしたいか、見えた気がした。あの父と母の娘として生まれた自分が、果たすべき使命・・・この人を心から愛する私が、人生を懸けて為すべきこと・・・

「ねぇザックス、私・・・」

けれど、言いかけた言葉は、勢いよく覆い被さってきた熱い唇に飲み込まれ、途中で消えた。強い両腕で腰を抱え上げられ、激しく息を貪られ、あっという間に何も考えられなくなる。

「あ、あ・・・」

夢中で抱擁とキスを返し、彼の体を体で感じているうちに、いつの間にか太い腕に抱き上げられ、家の扉をくぐっていた。そのまま一直線に奥の寝室に―そっちに寝室があることは考えなくても分かった―運ばれていく途中で、なんとか一瞬だけ室内に目を走らせる。居間とキッチンを兼ねた小さな部屋は、ザックスが言ったとおり、それなりに片付いていて―と言ってもたいして物が在るわけではなかったけど―居心地も悪くはなさそうだった。バタンっ、と、簡素な家を揺るがす勢いで、ザックスがドアをほぼ体当たりで叩き開け、次の瞬間、寝室の半分を占める大きなベッドの上に投げ出されていた。重厚な体にのしかかられ、せわしなくセーターを引っ張られながら、あえぐようにかすれた声をあげる。

「だめよ、ザックス・・・」

熱く力強い掌で、ひたむきに―けれど優しく―敏感な肌に触れられ、全身に悦びの波が走る。

「・・・お母様達のところに・・・帰らないと・・・今夜は、あちらで、って・・・」

快感の靄の中に溶けかけている理性に何とかしがみ付き、最後の抵抗を試みる。窓から入る薄い星明かりだけの闇の中、はあはあと苦しげに響く呼吸の合間に、切れ切れの答えが返ってきた。

「大丈夫・・・あいつらは分かってる・・・俺が、一度決めたことは、必ずやり抜く男だって・・・」

・・・きっと、そうね。納得し、抑制を手放して、押し寄せる情熱に身を任せた。喜びの泉が、体の中心から、あふれ出す。力強い大きな温もりにすっぽりと包み込まれ、まばゆい安堵感に満たされて、すべての枷から解き放たれる。心が、空をかける翼を得て、どこまでも高く、羽ばたいていく。魂の故郷へ―彼のもとへと。どっしりと強靭な躰で、獲物を取り押さえるように、私の上に屈み込む彼。射るように見つめてくる、強い、金褐色の眼差し。よみがえる、青空に映えて金色の光を帯びた、あの日の彼の姿・・・
 
 
 
 
  そう、物語は、再び、始まる。


 

 続き Fortsetzung

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