Am schönen Tage 3



 
「・・・ザックス。おい。しっかりしろ」

すぐ横の席からクンツがひそひそと呼びかけている声が耳に入り、はっとして、ぼんやりとレーネの姿を見つめていたのに気がついた。彼女は既にブーケを自分の側の付添い人―目の大きな赤毛の女性で、さっきダーヴィトと話してた女の子とよく似てる―に預けて俺の前に立ち、小首をかしげて俺を見ている。そうして怪訝そうな顔をしていても、こいつは息が止まりそうなほど美しい。一つ深呼吸し、気を取り直して手を差し出した。そっと重ねられた柔らかな手をぎゅっと握り締め、その繊細な温もりを確かに掴んだ瞬間、心がすっと落ち着き、めかし込んだ熊になったような心もとなさがきれいさっぱり消え去った。俺達の一挙手一投足に注視している大勢の客のことも、外の野次馬や記者連中のことも、一切気にならなくなった。運命に定められた女と―俺の魂の半分であるレーネと、しっかりと手をつないで祭壇の真ん前まで進み、用意された赤い膝敷きの上にひざまずく。神父様が前に立ち、ラテン語で典礼文を唱え始めた。ちょっと変わったやり方だが、レーネがそうしたいと言い、俺も別に異存は無かったのでそうなった。一節ごとに、双方の通訳が、それぞれの言葉で文章を繰り返す。それが終わって、神父様が俺に向かって誓いの言葉を促した。

「Ego Sachs, assumam vos mihi in uxorem Odile, ... (我ザックスは汝オディールを妻とし・・・)」

神父様の後について、そっくりそのまま復唱するだけだし、前もってちゃんと練習もしてたから、どうということはない。とっくに経験済みなような気さえするほどだ。ただ、あいつの名前を言うべきところで、本名のオディールではなく、レーネ、と言ってしまってからもう一度言い直したが、誰も―あいつ自身も―気にしてないようだったので、俺もそれでよしとした。

「...in aegritudinem et sanitatem, donec mors nos ex parte. (健やかなる時も病める時も、死が二人を分かつまで)」

結びの文言を口にしながら、心の中で、死んでもずっとだ、と誓う。神父様は次にレーネに向かい、同じようにレーネが宣誓を立てる。そして同じように最後の言葉を心の中で言い換えてるのが俺には分かった。さっと見交わした目が―本当はこの時点でそんなことをするのは手順としては間違いなんだが―多くの言葉をお互いに伝えていた。繋いでいた手を引き寄せ、昨日、昼間のうちにこいつから預かった指輪を―慣習だとか何だとかみんなに言われて、昨夜は別々に眠らされたんだ―元通り優美な指にはめ、彼女は指輪の代わりに自分のほっそりした手を俺のごつい手に絡ませ、ぎゅっと握り返した。

「Ego conjúngo vos in matrimónium. In nominee Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen. (我、汝らを夫婦となす。父と子と聖霊の御名において。アーメン)」

神父様が厳かに宣言して俺達の上で十字を切り終わるや、俺はレーネを引っぱるように立ち上がらせ、そのままぐいと手を引いた。あ、とかすかな声を上げて倒れ込んできた体を、がしりと抱きとめる。ふわりと、野の花の爽やかな甘い香りに包み込まれ、一瞬めまいがした。引き寄せたはずみで一度宙に浮いて再び結い髪の後ろの方に引っかかったヴェイルを片手で払い、昨夜の鬱憤を晴らすように口付ける。とたんに体の芯に熱い戦慄が走り、全身が燃え上がった。セクシーな背中にぴったりと沿ったボディスの、張りのある生地を片手で撫で回し、なめらかな肌との境目の部分をなぞる。と、腕の中の敏感な体がわずかに反り返り、羽根のように軽いヴェイルが俺の手の上にはらりと落ちかかった。唇に優しい吐息を、指先に華奢な体のかすかなふるえを感じ、理性が吹っ飛びそうになる。タキシードなんぞ着込んでるんでなけりゃ―こんな場所にいるんでなけりゃ、全身でこいつを包み、こいつに包まれて・・・

温かな口内に舌を突き入れることだけはどうにか堪え―それをやっちまったら、止められなくなる―舌先で唇の合わせ目をなぞるだけに留めたが、それでも結婚式の接吻としては少々やり過ぎだったらしく、背後で皆が息を呑む音が聞こえた。が、無論、気にはしなかった。やっとのことで再びこの腕に天国を取り戻したのに―こいつも確かに応えてくれてるのに―他の何を気にする必要がある?

全員で賛美歌が歌われてる間も俺は気もそぞろだったが、聖書の言葉を引いて祝福を授ける神父様の声は辛うじて耳に入っていた。

「Nunc autem manet fides, spes, caritas, tria haec; maior autem ex his est caritas. (このように、いつまでも存続するものは、信仰、希望、愛、この三つであり、このうち最も大いなるものは愛である)」

もちろんこの言葉はよく知ってるし、その意味してるところも、たぶん分かってる。だが、俺にとってはその三つは、同じ一つの存在だった。
 
 
 
 
 

浴びせられた拍手の音は、客の多さを差し引いても、ものすごく盛大だった。皆が次々に立ち上がり―これもまた、通例からは逸脱してる―笑顔であれこれ言葉をかけてくる。一種の狂躁状態に近い祝福の嵐の中を抜けて聖堂の扉を出た俺は、かなりぼうっとしていた。だから、それに気づいたのは、本当に幸運としか言いようが無かった。

「自分の国へ帰れ、魔女!」

間一髪でレーネの前に立ちはだかった俺の肩を石つぶてが直撃し、聖堂の入り口の階段に転がった。ごく小さなものだが、もしレーネに当たっていたら、間違いなく怪我をしていただろう。かっ、と怒りが燃え上がり、容赦無い脅しを込めて、聖堂前の群集の中の、一人の老婆を睨みつけた。見覚えはなく、明らかにこの町の人間ではない。老婆はもう一度枯れ枝のような腕を振り上げたが、駆け寄ったやけにガタイのいい男達―周到なシャルルがどうしてもと言い張って手配した、私服のボディガード達だ―に取り押さえられ、もがきながら俺を睨み返した。

「裏切り者!敵のあばずれにタマを抜かれたか!」

俺のことだけなら聞き流しても良かったが、レーネを侮辱するのは許せねぇ。憤然と一歩踏み出そうとした時、ばさっ、と腕の中に何か大きな塊が押し込まれ、と同時に、青と白の鳥が―そう、確かにその瞬間は鳥のように感じた―俺の脇をすり抜けて飛び出した。

「なっ・・・レーネ!!」

白く長い裾をひるがえして飛ぶように階段を駆け下りるあいつの後姿に向かって叫び、慌てて追いかけようとしたが、がっしりと両肩を掴まれ、痛みに呻いた。

「・・・っ・・・おい!離せ!!」

振り返ってわめきながら体を揺すって引き剥がそうとしたが、よけいにしっかりと抑え込まれただけだった。クンツと、こともあろうにシャルルが、両側から俺を取り押さえ―シャルルは御丁寧にも、さっき石がぶつかった箇所を的確に掴んでいる―クンツが首を横に振り、シャルルが落ち着いた声で言った。

「あの子に任せておけ」
「何言ってる?!あの女、レーネに危害を加えようとしたんだぞ!」

シャルルはもじゃもじゃの金髪のカツラの下からぴしりと言い返した。

「護衛達が対応する。君が出て行くと話がややこしくなるだけだ」

その時、俺の肩越しに前を見ていたクンツが気遣わしげに眉をひそめた。慌てて下の人込みの方へ目を向けると、真っ直ぐに老婆に歩み寄ったレーネが、ためらいもなくその足元にひざまずき、白く美しい顔を上げて、あの蒼銀の瞳で、老婆のしわくちゃの顔を覗き込んだ。

「ごめんなさい」

彼女は大声を出してはいなかったが、その凛とした透明な声は、興奮したざわめきの中でもよく通り、皆を静めさせる力を持っていた。

「私はきっと、あなたの気持ちを傷つけてしまったんでしょうね。ごめんなさい。心から謝ります。つらかったでしょう?」

老婆は唾でも吐きかけそうに憎憎しげな目でレーネを見下ろしていたが、さっき、小石が飛んでくる直前に感じた尖った敵意は、少しそがれたようだった。

「何をしても、あなたの悲しみが和らぐことはないでしょうけど・・・でも、もし私でよければ、どうぞあなたの悲しみをぶつけて下さい。あなたの悲しみを私に教えて。それを私にも分かち合わせて」

憎悪の表情がかすかに揺れ、皺だらけの歪めた顔に、何か違う感情が垣間見えた。

「あなたの悲しみがどれほどか、私に分かるとは言いません。ただ、あなたが、あなたの大切な人たちをとても愛してらしたことは分かります。私も・・・彼を愛しているから。自分の命よりも、ずっと」

硬く握り締めた、小さな骨ばった拳がぶるぶると震え始める。

「お怒りは当然です。でもどうかお願い、これだけは許して・・・私は、どうしようもなく、彼を愛してるんです。私は、彼と共に生き、彼の役に立ちたい。彼の幸せが、私の幸せだから。私がどこに生まれようと、それは変わらないし、変えられないの」

極限まで張りつめた糸が切れるように、老婆の脆そうな体ががくりとその場にしゃがみ込みかけるのを、レーネが腕を伸ばして抱き止める。いつのまにか傍に立っていた神父様がそっと二人に手を置き、司祭館の方へと促した。屈強なボディガード達の手を借りて、おぼつかない足取りで歩き出した老婆の腕に、レーネが優しく触れている。階段の上で呆然とそれを見送っていた俺の腕の中から、するりと何かが抜かれた。ふと見ると、様々な色合いのグリーンが混ざったパンツスーツに身を包んだイゾルデが―たとえ兄の結婚式であっても、こいつの自己主張は健在だ―レーネのヴェイルを腕に抱えて走って行った。彼らに追いついたイゾルデは、泥だらけのドレスに顔をしかめたものの、何も言わず、冷たい秋風にさらされているレーネの剥き出しの肩をヴェイルで包んだ。レーネは歩きながらイゾルデに花のような笑みを向け、一行は聖堂の角を曲がって姿を消した。

「・・・兄貴!こっちへ」

振り返ると、クレールやおふくろも皆そこに揃い、じっと俺を見ていた。ヘルマンが、回廊に繋がる脇扉を開け、早く、というように手招きする。まったく頭が働かないまま、クンツとシャルルに引きずられるようにして、俺は、再びこそこそと回廊の扉をくぐり、舞台から退場した。翌日の新聞には、タキシードを着込んだ熊のような大男が、花嫁のヴェイルとバラのブーケを抱えて呆けたように立ち尽くしている写真が載った。


 

 続き Fortsetzung

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