Tiefblau als früher Tagesanbruch 5



 

ショックで呆然としていたのはせいぜい5分ぐらいで、自分でも驚くほどあっという間に立ち直った。

・・・あいつは俺のものだ。必ず手に入れる・・・

ぐっと、太腿の脇で握った拳に爪が食い込む。

・・・たとえ決まった相手がいようと、構うものか!!

火のついた闘争本能が、炎の竜巻となって身の内を焼き、脳を焦がす。赤い靄がかかった思考のスクリーンに、すべらかな手の映像がちらついた。清楚で繊細なその指に、厳粛な約束を示すように重々しく輝いていた、打ちのめされるほどに美しい、銀の指輪・・・

もしかしたら部屋に誘ってくれるのではないかと―そんなことあるはずもないのに―ぐずぐずと甘い妄想に耽ってたら、ものの見事に現実にしっぺ返しを喰らった。別れ際まで気づかなかったとは、まったく間抜けもいいところだが、とはいえもっと早くに気づいていたとしても、問い質すことができたとは思えない。実際、思い返すだけでまともにものが考えられなくなって、口を開けば何を口走るか・・・それにもし礼儀正しく訊けたとしても―こんなことを訊くのに礼儀正しい訊き方なんてものがあるとすればだが―初対面でそこまで詮索するのは立ち入りすぎだろう。けど彼女は、初対面の俺に、親しげに自分のことをいろいろ話してくれた。まるでずっと昔からよく知り合っている仲ででもあるかのように・・・

はっ、とまばたきして、もう一度よく思い返す。

そうだ。さっき、まるで以前からそうしてきたかのように並んで歩きながら、家族のことを話してくれた時、『夫』のことは話してなかった。ということは、結婚はしていないかもしれない・・・まだ。シンプルだがずっしりといかめしい銀の指輪は―滑らかな曲面に何か文字のようなものが刻まれていて、たぶんアンティークだろうが、よく磨きこまれた上品な輝きを湛えていた―結婚指輪みたいに見えたが、おそらく婚約指輪なんだろう。俺にはとうてい贈れない高価そうな指輪を贈れる男からの・・・高級住宅街の洒落たアパートの最上階に住む彼女にふさわしい男からの・・・

知らず識らず獰猛な唸り声を上げてしまったらしく、周りにいた人間が揃ってぎょっと身を引いた。苦々しく顔を歪めたまま、足早に歩き続ける。

誰かは知らないが、その男はよくあいつを一人で外国に出せたものだ。それとも近くに居るのか?まさか一緒に・・・

何かを殴りつけそうになる衝動は辛うじてこらえたものの、たぎり立つ胸の内は鎮めようが無かった。今日会ったばかりの相手にこんな気持ちを抱くなどおかしいということは分かっている。自分がこんな激しい一目惚れに陥るなど、思ってもみなかった。それでも、火傷しそうに過熱する想いを止められず、こみ上げる独占欲は―彼にはそんな権利は無かったにもかかわらず―彼女との間を阻むものをことごとく焼き尽くそうと炎を吐いた。

よく親が出してくれたな、と訊いた時、あいつは何も答えなかった。あれはもしかして、許可する立場にあったのが親ではなく、夫だったから?そこまで俺に話そうとは思わなかったから?

ちくしょう、だったらどうだっていうんだ!あきらめることができるとでも?いや、到底無理だ。あいつこそ俺の女だ。間違いない。姿を目にした時には気づかなかったとしても、声を聴いた瞬間に分かった・・・彼女だ―と。
 
 
 

いつものように配達から戻って裏口にまわり、色褪せたドアを開けて中に入ろうとした時だった。
悲鳴が聞こえた瞬間、体が勝手に動いていた。数メートル先の路地を急カーブで曲がり―なぜか場所が正確に分かっていた―その光景を目にした途端、理性が吹っ飛んだ。野生の獣のように飛びついて、ナイフを振りかざした男の手を掴む。そのまま軽く捻り上げて揺さぶっただけで、男は反対側の路肩の廃材置き場まで飛んでいった。それでもまだゴミの山の中で何事かぎゃあぎゃあと喚いていたが、所詮は身の程も知らないチンピラだ。地べたにのすまでにさほど手こずらされもしなかった。

そして背後で気配がした。振り返って、助け起こすために手を差し出そうと屈みかけた、その時。

『ありがとう』

と、まるで愛を囁くようなその声が―実のところは襲われたショックで声がかすれていただけだとしても―胸の芯を直撃し、息もできなくなった。天から降ってきた鈴の音のように、奇跡を告げる、澄んだ音色。なすすべも無く愚か者のように立ち尽くし、振り向けられた美貌を呆然と見つめ・・・

・・・彼女だ!彼女だ!見つけた・・・!!

どうしてなのか、自分でも説明できない。けれども全身の細胞が、『彼女』だ、と叫んでいた。それが誰なのか、自分にとって何なのかも、分からない。だがその瞬間、頭のてっぺんから爪先まで電流が駆け抜け、とどろく胸に高々とのろしの炎が上がった―心の奥底で、時の流れに揺らめきながらも、決して消えることなく永らえてきた種火が。

・・・帰ってきた・・・!

頭ではなく、魂でそう感じた。何かが終わった―あるいは始まったのだと。強烈な衝撃の後ろから、安堵感が広がる。

・・・もう彷徨わなくていい・・・

そうだ。物心ついて以来、いつも何かが足りないという気がしていた。別に、自分に与えられた境遇に不満があるわけじゃない。ただ心の一部に、どうしても埋めることのできない―けれど無視することもできない―欠落があるようで、それを思うたびに、居ても立ってもいられない気分になった。まるで遥かな記憶をたぐるようにずっと捜し求め続けてきたその『何か』は、はっきりそれと認めるには遠すぎ、けれどもすっかり忘れてしまうには強すぎて・・・その飢餓感と焦燥は大人になっても薄れることはなく、むしろ歳を経るごとに増し続け、いまや、感覚的には、気の遠くなりそうな果てしない渇望のように感じられた。たかだか20年かそこらしか生きていないのに、まるで何百年も捜し続けているかのような・・・

・・・やっと、辿り着いたんだ・・・

すっかり存在を忘れ去っていたあの許しがたいクソ野郎がこそこそ逃げ出さなければ、あのままあの場で彼女を抱きしめていただろう。そういえばあの野郎め、見かけない顔だったが、今度うろついていたら必ず締め上げてやる!いや、徹底的にぶちのめしてやる!!俺の女に怖い思いをさせただけじゃなく、怪我までさせやがって!!!そもそも彼女の様子がおかしいと気づかなければ、ヤツを逃がしはしなかった。たぶん痕は残らないだろうが、かわいそうに、あんなきれいな肌に傷がついちまって・・・そう、まるで、俺の故郷の山に積もる雪のように、白く滑らかな肌だった・・・いつまでも触っていたくなるような・・・

体の別の場所がかっと熱くなって、ズボンがやけに歩きにくくなり、ごほ、と咳払いする。自分の武骨な手に吸い付くようだったすべらかな肌の感触を思い出さないように―腕にしっくり馴染む重みと、そそられる柔らかさと、眩暈のするような甘い匂いを―やめろ!―思い出さないように、なけなしの紳士的精神を引っ張り出す。

とにかくギリギリでも間に合って良かった。一番大切なのはあいつを守ることだからな。本当に幸運な偶然だった・・・いや、それとも、それこそが運命だったのか?
 
 
 

店の数ブロック手前で角を曲がり、細い路地を裏通りへと向かう。しばらく歩いて、そのまま、店の裏口の色の剥げた扉の前を通り過ぎた。何の意味も無いのは分かっていたが、もう一度その場所を見に行かずにはいられなかった。
 
 

彼女を抱いてこの道を戻り、傷の手当をしながら―それ自体には別に下心は無かった、と思う―どうにかしてもう一度、いや何度でも、会える口実はないかとずっと考えていた。『何かお礼を』と言われ、なぜかとっさに、靴を作らせてくれと口走ってしまった。おそらくその前に彼女が、靴を見るのが好きだと―彼女は『シューラーデン(靴屋の店)』と言うべきところを間違って『シューマハー(靴屋の人)』と言って彼をうろたえさせたが、あえて訂正はしなかった―言っていたのが頭に残っていたからかもしれない。だが、にわかに思いついたにしてはなかなか悪くないアイデアだった。靴が出来上がるまでの間には、もっと親しく知り合えるはず。もっとも、もし彼女の気が変わってしまったらどうにもならないが、たぶん、きっと、そんなことはない。それにいざとなれば、家の近くで待ち伏せすることも辞さない。永遠とも思える彷徨の末に、やっと、運命を紡ぐ者が気まぐれに与えたチャンス・・・決して逃してはならない。それだけは分かってる。
 
 
 

夕日の恩恵を受けない裏通りは、既に薄暗くなりかけていて、人っ子一人いない。時々見かける野良犬や野良猫も、今は気配がなかった。たぶん、時間帯が違うんだろう・・・もしかしたら例のバカ男がまたうろついているかもしれないとも思ったが、影も形も見えなかった。もちろん彼女もいない。ここに―泥池の中の白鳥のように―座り込んで、じっと俺を見上げていた・・・

ああ、くそっ。思い出すだけで―何度思い出しても―体が震える。期待と確信で心臓がバクバクし、強い喜びで、大波に呑まれたように息が詰まる。きびすを返して店に戻りながらも、頭の中ではその姿が勝手に再生されていた。

ほんのりと高潮した象牙色の頬、すらりと伸びた白い首筋、エキゾチックな鮮やかな青のブラウスに包まれた華奢な肩、そして官能的なウェーブを描いてそれらに乱れかかる漆黒の髪―まるでその頬を、髪を、愛撫して乱したような幻想に捕らわれ、つい呼吸が荒くなる。艶やかなピンクの唇は、以前とある町の城壁の外で見かけたキルシェの花を思わせ―昼間だというのに門が閉ざされた奇妙な町だったが、なお奇妙なことには、その時にはその異常さに気づかなかった―誘うように僅かに開かれていた。その、ふんわりと甘い味をまざまざと自分の唇に感じ、全身がぞくぞくする。そして何より、まっすぐに彼を見つめる瞳の・・・

夜明け前の蒼。

はっとして、ささくれた裏口の扉に手を伸ばしたまま凍りついた。

なんてこった。『彼女』だ・・・!

衝撃で足から力が抜け、崩れ落ちてしまわなかったのが不思議なくらいだ。

昔から幾度となく見た不思議な夢・・・夜明けの光が差し込む前、まだ昏い蒼色に沈む空に、銀のかけらを撒いたように点々と散らばる星・・・遥か天の高みから響いてくる、清らかな音色・・・

その夢を見るたび、切なさに胸を締めつけられた。郷愁―というのが近いだろうか?現実の故郷を思う時とはまた違う、もっと奥底に根差した、根源的な感情・・・懐かしくて、かけがえなくて、愛しくて・・・痛いほどに恋しくて・・・鷲掴みにされた心が、その神秘的な淵に溺れ、どこまでも沈んでいく―己が還るべき場所へと。その深い色合いに包まれるだけで限りない幸福感と安らぎを覚える・・・それなのに、あと少し、もうちょっとというところで完全に重なり合うことができない、そのもどかしさ・・・明確に何かを見るわけではないが、にもかわらずその夢のイメージは、それがもたらす感情も含めて、あまりにも強く心に焼き付いていた。

彼女は、あの切なく美しい夢、そのもの・・・

震える手でどうにか扉を開け、よろよろと進み入る。

ずっとあの『場所』を探していたのだ。いつかどこかで本当にあの光景に巡り逢えるんじゃないかと、そんな考えをどうしても頭から振り払えなくて。正気の沙汰ではないと思いつつ、暇ができるたびに手当たり次第あちこちの町や村をうろつき回った。けれど、当たり前のように、そんな場所はどこにも無くて・・・バカげた考えはすっぱり捨てようと何度も思い、それでもやっぱりあきらめ切れなかった・・・そうじゃなくて、あれは、『彼女』だったんだ。

後ろ手に閉めた扉に、ドン、ともたれ掛かる。

これが運命でなくて何だ!

ただの一目惚れじゃない。なぜなら俺は、間違いなくあいつを『知っている』から。俺の心と体に耐え難いほどの熱い渇望を呼び起こし、それを癒すことのできる、ただ一人の女。ずっと捜し求め続けてきた、正しい場所に帰ってきたと感じさせてくれる、ただ一人の女・・・

二度と手放すものか。絶対に。

ぎり、と奥歯がしなり、顎が痛む。

俺のだ!誰にも渡さねぇ!

執念がチャンスを引き寄せたのか、それとも、時がきた、ということなのか。
だが、そんなことも、もう、どうでもいい。
店と繋がった作業場に急ぎながら、自然と足に力が籠もった。

あいつのことが知りたい。何もかも。
今までどこにいたんだ?何をしてた?俺のことをどう思う?

ちくしょう、唐突に、そんなこと訊けるはずもない。だが・・・

お前と一緒に居たい。
お前を守りたい。
お前の全ては俺のものだ、レーネ!!


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis