Tiefblau als früher Tagesanbruch 7



 

人懐こく目を輝かせたアウグスティンに話の腰を折られたが、レーネはかすかに笑みを浮かべて首を振った。

「ええ、ちょっと足を挫いちゃって、その後なんとなく・・・」

実際には親に止められたのだが、彼女もそれ以上続けたいとは主張しなかったのだから、あながち嘘ではない。

「もったいないなあ。レーネならきっときれいなバレリーナになってただろうに」

それはない。当時―今もだが―バレリーナの職業的地位は高いとは言えず、娘が人前で踊ることなど、両親は絶対許さなかっただろう。そもそもが、バレエを見て夢中になった幼い娘の気まぐれを満足させるために、教師を招んでくれていただけなのだ。

「ありがとう。でもきっとそういう運命じゃなかったのね。それで、ともかくその時、先生が話してくれたの。『基本のできていない者に、高度な技術も、崇高な精神も身につけることはできません』って。その時はまだ小さかったから、よく意味が分からなかったんだけど。結局、練習もやめちゃったし。でも・・・」

黙って聞いてくれているアウグスティンとフリッツを交互に見ながら話し続けた。

「その後、何度かその言葉を思い出すことがあったの。他の、色んな事をやってる時に。他の習い事、スポーツとか、勉強とか、それだけじゃなくて普段の生活でも、何かを成し遂げようとする時には何でもそうなんだ、って思った。だから、たぶんきっと、靴を作る時も同じなんじゃないかな、って思ったんだけど・・・違う?」
「違わないね。同じだよ」

フリッツがにやっと笑ってくれたので、ほっとした。アウグスティンが少し気恥ずかしそうに、人差し指で低い鼻の頭を掻いた。

「うん、まあ、俺も分かっちゃいるんだけどね。頭ごなしに怒られたりすると、反感が先に立っちゃってさ。けどなんか、レーネにそう言われると、素直に聞いちゃうんだよなあ」
「惚れた弱みか?」
「うるせー、おまえだってそうだろ」
「まーね」
「あら、そうだったの?」

彼らがふざけているのは分かっていたので、にこやかに笑いながら応じた。

「そうだよ、俺らみんなレーネのファンさ」
「親方もザックスも含めてね」

途端にかあっと顔が熱くなった。

「そ、そう?それは嬉しい・・・」
「レーネは口が上手いから」

あっけらかんと言ったアウグスティンの顔を思わずまじまじと見返した。

「口が上手い?」

私、しゃべりすぎてる?もしかしてザックスにもうるさがられてるかも?

「そういう意味じゃなくてさ」

フリッツが含み笑いして言った。

「人と話をして、やる気にさせるのが上手い、ってこと。俺らの仕事を褒めてくれる人なんてそうはいないし、俺らの話をちゃんと聴いてくれる人となると、もっといないからね。親方に怒鳴られるのだって俺らにとっちゃ宝だけど、レーネが、それにザックスもだな、ちゃんと理解して評価してくれると、全然やる気が違ってくるんだよ」
「そうだよなあ。レーネって聴き上手だよね。話させ上手っていうかさ」
「ああ、あの寡黙なザックスがあんなに喋るの、今まで見た事なかったもんな」
「え?そうなの?」

一生懸命話しかけても、ああ、とか、いや、とか以外にはほとんど喋ってくれないように思ってたんだけど。何だか垣根を作られてしまったようで、むしろ出逢った最初の日の方が、自然に、色んなことを話してくれた気がする。もちろん、いつも仕事中に話しかけちゃってるせいもあるかもしれないけど・・・

「まあ、無口ってほどじゃないけど、自分のことはあんまりしゃべらないヤツだったから」
「そうそう。レーネは他のお客さんにもウケがいいし。良い靴屋のおかみさんになれるよ」
「えっ・・・あ、ありがとう」

彼女がどぎまぎしているのに二人は気がついただろうけれど、ただ褒められて照れているだけだと思ってくれたようだ。

「うんうん、だからさ、今度の祭りは俺達と行かない?それとももう誰かと約束した?」
「ええっと・・・お祭り?」

話題の変化について行けず、頬を染めたまま首をかしげてアウグスティンに訊き返した。

「うん。あれ、知らない?この町の秋祭りのこと」

そういえば大学の男の子達がしきりに何かに誘ってたような・・・ろくに話も聞かずにやんわり断っちゃったけど。

ぼんやりしているレーネに、フリッツが大げさに目を剥く。

「この町にいて秋祭りのことを知らないなんて、常識知らずにもほどがあるぞ」

そんなこと言われても、私、3週間前に来たばかりだし。

「収穫祭みたいなもんだけど、その年のビールの飲み始めを祝う祭りでもあるんだ。春に作って樽で寝かせておいたビールを開けて飲むんだよ」
「大勢の人が集まって、昔の人の格好をして歌ったり踊ったり、すごくにぎやかだよ」
「へぇ・・・楽しそう」

ザックスと行けたら、素敵だろうな・・・

手を取り合って踊るところを想像して、どきどきした。ここの昔の衣装で、きれいに飾り付けた広場で・・・

え、あれ?今思い浮かべたのは、私が知ってるこの地方の民族衣装じゃなかったし、季節も違ってた。それにどうしてその光景が『懐かしい』ような気がするの?

「うん、この町じゃ一年で最大のイベントだね。クリスマスよりにぎわうかもしれないな」
「それがもうすぐなんだ。来週の日曜日、パレードと樽開けの儀式があって、そのあとバンド演奏があるからさ、どう?もし他の人、その、御主人とか、大学の友達とかと一緒に行きたい、っていうんじゃなかったら」

一瞬、ぼうっとしていたせいで聞き間違えたのかと思った。

「御主人?って?」
「レーネのだんなさん。もしかしたら、祭りに呼んだりするかな、って」
「私は結婚してないけど・・・」
「ほらな!」

フリッツが拳の背でアウグスティンの胸を突き、得意げに言った。アウグスティンは少し咳き込みながら胸を押さえて身を引き、突かれた場所をさすりつつ声を上げた。

「ええ?!そうなの?!」
「俺の勝ちだな」
「わかったよ、今夜のビールは俺のおごり」

フリッツが腕組みしてふふんと鼻で笑い、アウグスティンがフリッツの横腹を拳で軽く突き返す。レーネは顔をしかめて見せた。

「いったい何?」

二人の顔がレーネに向き直った。

「あー、えーとね」

アウグスティンが椅子の背にもたれて頭の後ろを掻く。

「こないだちょっと話題になったんだよ。レーネって結婚してるのかなって。俺はさ、薬指にそんな指輪してるから、てっきりそうだろうって思ってたんだ。ほら、そっちの手につける人もいるから」

その時になってやっと自分の左手にあるものに気がついた。

「ああ、ううん、これは・・・」

その古めかしい銀の指輪は、赤ん坊の時からいつも肌身離さずつけていたお守りだった。彼女自身は覚えているはずもないけれど、まだ生まれて間もない頃、両親も知らないうちにいつの間にか掌に握っていたらしい。その、神秘的な力を感じさせる美しい指輪に見覚えのある人は誰もいなかったが、誰かが内緒で贈ってくれたのだろうということで―おまけに取り上げようとすると彼女が泣き止まなかったので―両親はそれに絹のリボンを通し、腕につけておいてくれたという話だった。もう少し大きくなってからは、銀の鎖をつけて首から提げていた。本当に何かの力があるのかどうかは分からないけれども、これをつけていれば不思議と安心できた。さらに成長し、指輪が抜け落ちないくらいになってからは、いつも左手の薬指に―右手にするのはなぜか気が進まなかったし、他の指ではぴったり合わなかったので―はめておくようになった。実際、さりげなく左手を振って見せるだけで、わずらわしい誘いをかけられる回数がぐんと減ったのだから、充分お守りになっていたと言えるだろう。

「これは結婚指輪じゃないの」

微笑んでそっと指輪を撫でる。アウグスティンが再び身を乗り出した。

「よし、じゃあ、それはそれとして、どう?日曜日は店閉めるし、その日は修行も休めると思うからさ。俺達みんなで。そうだ、ザックスも誘わなきゃな!」

体いっぱいに湧き上がった期待感はフリッツの一言で消えた。

「ザックスは恋人と行くだろ」
「ああ!例の彼女!やっと拝めるのかな」
「たぶんそうなんじゃないか?こないだ、女には何を贈ればいいのかとか訊いてたし」

フリッツがニヤリとし、アウグスティンがくすくす笑うのを、ただ呆然と見ていた。

「けっこうマジみたいだったよな。あれ、たぶん、きっと、結婚を申し込むつもりだぞ」
「もうずいぶん長いからなあ。ザックスもじきに親方試験を受けるだろうし、そろそろそういうことも考えるんだろ。そうとなりゃ、いつまでも秘密主義でもいられないさ」
「・・・長い・・・?」

わずかにかすれ、震えてはいたが、どうにか声が出た。

「あれっ、この話、したことなかったっけ?」

アウグスティンが目をきょろっとさせ、フリッツが肩をすくめた。

「俺が入った時からずっとそうだったから、たぶんその前からだと思うけど、ザックスって休みのたびにどっか行っちまうんだよ。きっと実家に帰ってるんだろうと思ってたんだけどね」
「そうそう、俺もそう思ってた。ザックスって、ああ見えてけっこう女にモテるんだけど、ああこれは言ったっけ、特に誰かとつきあってるって雰囲気も無かったし。そしたら、何ヶ月か前にザックスの留守中に妹が訪ねてきてさ。それがまたザックスに似てなくて、可愛いのなんのって!」
「もうすぐ結婚するって言ってただろ。あきらめろ」
「でも双子の妹もいるって言ってたじゃん」
「・・・結婚する・・・」

何を言おうとしているのかも分からないままに口を開きかけたところで、入り口の扉がカランと鳴った。

「あ、おかみさん、おかえりなさい!」
「ふう、やれやれ。今年はいつまでも暑いねえ。留守中、何かあった・・・あら、レーネ、いらっしゃい!」
「こんにちは」

強張った笑みを浮かべるのがやっとだったが、幸いフリッツが仕事の話を始めてくれた。

「おかみさん、シュトルツィングさんの御注文ですけど、予定を早めて、今週中に仕上げてくれってことでした。あと、何ヶ所か変えてほしいって話だったんで、御要望を伺って、親方と相談の上でできる限り御希望に沿うように対応しますってお伝えしときました。詳しい内容はそこの紙に」
「ああ、ご苦労さま。たぶんあの人もそろそろ戻ってくる頃だと・・・レーネ?帰っちゃうのかい?ザックスももうじき帰ってくるよ?」

そう思うと一刻も早く出て行きたかったが、なんとか足を止めて振り返った。

「ええ、でも、もう帰らないと・・・ちょっと・・・用があるので」
「そうなのかい?それじゃしょうがないね。また明日」
「・・・よい夕べを」
「じゃあね、レーネ!」
「またな」

笑顔で店の奥に手を振り、笑顔でおかみさんにうなずいて、カラランと軽やかにドアを閉めた途端、涙がこぼれた。


 

 続き Fortsetzung

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