Tiefblau als früher Tagesanbruch 8



 

誰にも渡さない・・・とは決意したものの、どうすれば彼女を奪い取れるのか、皆目見当がつかなかった。これまで他の男の女にちょっかいを出すようなことは軽蔑してきたし、そもそも女の気を惹こうと努力したことがない。・・・まあ、それなりに女とつきあった経験が無いとは言わないが、いつも、その場限りとは言わないまでもせいぜい数週間程度の関係で、時々会って楽しく過ごすだけの気軽なつきあいだった。真剣に誰かの心を得ようとしたことは一度も無い。

それに実のところ、そんな努力が必要になると考えたこともなかった。なぜかは分からないが、結ばれるべき運命の女に出逢ったら、彼女はその瞬間に自分を愛してくれると―永遠に彼だけを愛してくれると、そう、何の根拠も無く思い込んでいたのだ。こういう状況は全く想定していなかった。・・・掻っ攫う手始めとしては、たぶん、まず二人の間になにがしかの好意を育てなきゃならないんだろう。だがいったい、どんな態度で接すればいいのか―どんな言葉を語ればいいのか?

ままならないことに、思考が壁にぶち当たって動けなくなっている一方で、肉体の方は暴走を始めていた。恋をしている若い男がたいていそうであるように、彼もまた夜ごと甘い妄想に耽りながら眠り、朝は朝でひどく硬くなったまま目覚めた。最初の日の夜は何年ぶりかで夢精を経験し、さすがに恥ずかしく感じたが、その後は一応、シーツは濡らさずに済んでいる。ただしそれはベッドに入る前にバスルームでちゃんと「処理」している結果であって、欲望が落ち着いたわけでは全くない。毎朝のように―というか覚えている限りは毎朝―淫らな夢から目覚めては、腕の中に彼女が居ないことに違和感を覚える。ただどういうわけか、夢の中で脱がせる服は妙に時代がかっているのだが、いわゆる自分の内面に潜在するセクシャル・ファンタジーの一種だろうと思い―それに、どっちにしろ服を着てない場面の方が圧倒的に長くて強烈なので―たいして気に留めてはいなかった。それよりも問題なのは、それが『夢』でしか有り得ないという事実であり、毎日顔を合わせていながら、愛を交わすどころか、愛を告げることさえできないという『現実』だった。

そうしてこの2週間というもの、ひたすら黙々と、地道に彼女の靴を作り続け―いや、確かに、間近に奏でられる彼女の声にたびたび聴き惚れたり、たまに作業上の必要があって見つめる彼女の足に密かに血を沸き立たせたりはしたが―何一つ、少なくとも彼の望んだような意味では進展の無いまま、焦がれる気持ちばかりが募った。手も足も出ない己の不甲斐なさに歯噛みし、彼女の気持ちの在り処を想像しては一喜一憂した。
 
 
 

ただ一度だけ、町で偶然に彼女を見かけたが、声をかけることはできなかった。一つにはもちろん、何と声をかければいいのか分からなかったからであり、もう一つには彼女が、おそらくは大学の友達と一緒だったから―自分が、あまりにもその集団とは掛け離れているような気がしたからだ。大学に行けなかったことは別に気にしてはいない。田舎の学校で少しぐらい成績が良かったからといって、必ずしも高等教育を受けるべきというものでもないし、何より今では靴屋を天職だと思っている。それに、仕事のおかげで妹達に卒業パーティのドレスも買ってやれたし、この調子でいけば、弟はまっすぐ大学に進ませてやれるだろう。その方がよほど嬉しい。だから気後れするようなことは全く無いが、それでもやはり彼らとは世界が違うという気がした。

初秋の明るい日差しの中、幅5m程の通りの向こう側で、ウィンドウを覗きながら屈託無くお喋りしている彼女の笑顔は、まぶしいほどに美しかった。楽しそうなその様子を眺めているだけで、幸せな気分だった。物陰から黙って覗き見しているなんて変態じみているとは思ったが、目を離せなかった。通りのにぎわい越しに聞こえる切れ切れの声からだけでは、何を話しているのかまでは分からない。それでも、そのかすかな響きをずっと聴いていたいと思った。ただ、連れの男の一人が馴れ馴れしく彼女に腕を回そうとした時だけは思わず体が動きかけたが、彼女が優雅な動きでさりげなくそれを避けたので、こっそり満足感に浸った。

ふん。そうだとも。あいつを腕に抱いていいのは俺だけだ。

その時ふと、彼女らのいる場所から数m先で買い物をしていた親子連れが何気なく目に入り、次の瞬間息を呑んだ。

まずい!

店主と話しながら品物を選ぶ母親の傍で遊んでいた3-4歳くらいの女の子が、出し抜けに道路に向かってとことこと駆け出した。普段はあまり車通りの多くない道なのだが、この時に限って、少し先の交差点から車が入ってきていた。間に合わないと思いつつ彼が走り出したのと、母親が気づいて金切り声を上げたのと、彼女が―あの10cm近くはありそうなピンヒールで―道路に飛び出したのが、ほぼ同時だった。

あのバカ!

だが彼女は、その許しがたい靴で、鳥が飛ぶように石畳を駆け抜け、幼子を抱き上げて身を翻した。その後ろを、たいして速度を落としもせずに車が走り過ぎる。彼はその車に石でもぶつけてやりたい気持ちだったが、実際にはただじっと歩道に立ち尽くし、走り寄って来た母親と友達に囲まれる彼女を見つめていた。何事かあったのかと訝しげな目を向ける人々の中、何度もお礼を言う母親に微笑み、きょとんとした表情で母親に抱かれた子供に手を振って立ち去る姿を睨み据えながら、決意を新たにした。

こんな女に絶対ハイヒールは履かせねぇ。

苦しいまでに胸を掻き乱す驚嘆、苛立ち、愛しさ・・・矛盾した感情が体の中で混沌と渦巻き、初めて経験する心もとない感覚にたじろいだ。彼女を誇らしく感じてはいる。けれどもまた、彼女を何ものにも代え難く思っていることを改めて認識すると同時に、心の深層に在る闇の中から、凄まじい恐怖が立ち上ってきた。

こいつを失ったら、俺はどうなる?

いきなりみぞおちを殴られたように息が詰まった。頭の中で何かが一瞬稲妻のように閃き、あっという間に消えた。視界が陰り、ぐらりと世界が反転しかけるのを、踏ん張ってこらえる。強いて肺に空気を取り込みながら、意識を集中して、夜明け前の空を脳裏に思い描いた。

・・・大丈夫だ。きっと待っててくれる。絶対に大丈夫だ・・・

心の中で何度か繰り返し、やっと呼吸が落ち着いた。と、自分が通行の邪魔になっていることに気づき、慌てて歩き出す。

なんだったんだ、今のは?

唐突な混乱も、それに対する自分の突飛な反応も、理屈では説明がつけられないものだった。しかし、彼は深層心理学に興味があるわけではなかったし、おまけにそのことを考えようとしただけでまたしても鼓動が乱れ始め、不吉な感覚に捕らわれそうになったので、頭を振って疑問を追い払った。

俺のことは問題じゃない。問題なのは・・・

そう、問題なのは、いかにして彼女の心を掴むかだ。あいつにとって唯一人の、特別な男になりたい。一刻も早く、完全に、自分だけのものにしたい。だが、そのすべが分からない。

いったいどうすればお前は俺に気づいてくれる?俺を、俺だけを、一番に、愛してくれる?
 
 
 
 
 

「やっぱ、とりあえずは花だろ」
「花。か・・・」

休憩室の椅子を前後逆にして反対向きに座ったアウグスティンが、背もたれに肘を載せ、椅子の後ろ脚だけに寄りかかってゆらゆらと揺れながら、大きな緑の目をくるりと回した。

「なに、ザックス、花も贈ったことねーの?つきあい長いのに」

つきあいが長い?

「花だな、それから?とりあえずってことはまだ他にも何かあるんだろ。もっとこう・・・ぐっとアピールできるようなものが?」
「そうだなあ、相手の欲しい物とか好きな物が分かりゃ、それが一番だけどな。ま、とにかく重要なのは、タイミングだから。物は何でもいいんだよ、愛さえ籠もってりゃ」
「宝石でも、金の延べ棒でも」

テーブルの端に腰掛けてコーヒーをすすっていたフリッツが横から口を出し、アウグスティンはさっと脚を伸ばしてフリッツの脚を蹴ろうとしたが、フリッツはひょいと片脚を上げてよけた。アウグスティンはバランスを崩しかけ、慌てて椅子の背に掴まって両足を踏ん張った。そんな二人を横目に、ザックスは考えに没頭していた。

・・・愛・・・それだけはある。それだけは、溢れるほど・・・ただ、それだけしか無い・・・

「何でもいいんだな?」

拳をテーブルに載せて半分身を乗り出し、辛抱強く尋ねた。アウグスティンが、ソバカスの散った小さな鼻を自信ありげにぴくぴくさせた。

「まーな。けど、強く印象づけるならやっぱ、身に着けるものだろ」
「身に着けるもの?」
「そ。ちょっと気の利いたアクセサリーみたいな」

フリッツがにやにや笑いながら茶々を入れる。

「指輪か?」
「指輪は意味深過ぎるだろ。その気が有るんなら別だけどな」

大有りだ。ということは、やっぱり指輪か。

と考えた途端に、彼女の銀の指輪を思い出し、憮然とした。

「まさか、そんなつもりじゃねーだろ?俺らまだ、そんな落ち着くような歳でもねえし」

黙ったままのザックスに、アウグスティンはちょっと肩をすくめて続けた。

「ま、きれいなペンダントとか、ブローチとか。でなかったら、服とか鞄とか・・・」

靴。靴も『身に着けるもの』だ。
実は、今作っている靴が出来上がったら、彼女に贈り物として渡そうと思っている。そうして、その時、俺の気持ちを・・・

「靴はダメだぞ」

フリッツがあっさり言った。一瞬たじろいだザックスよりも先に、アウグスティンが訊き返した。

「何でだよ?俺ら靴屋なんだし、いいじゃんか?」

フリッツはアウグスティンに向かって首を振りながら、立てた人差し指も一緒に振った。

「靴屋だからだよ。お手軽に済ませたと思われちまうだろ」

そうなのか?心を籠めて作ったものなら、想いは届くんじゃないか?
そう、きっと分かってくれるはずだ・・・レーネなら・・・

「でもいいよなザックスは、彼女がいて。あー、俺も彼女欲しー」

・・・『彼女』?まだ『彼女』と言えるほどの間柄では・・・

アウグスティンが手を頭の後ろで組んで、背後の壁にもたれかかる。フリッツがマグカップに口をつけながらニヤリと笑い、脇に投げ出されたアウグスティンの脚を爪先でつついた。

「お前は態度が軽過ぎんだよ。女は、俺やザックスみたいな寡黙なタイプに惹かれるのさ」
「あーそうですか。そうだよなー、ザックスなんて、彼女いるくせに、レーネまでザックスが大好きだしよ」

あいつが?!俺を?!

・・・もしそうなら・・・いや、アウグスティンの勘違いってこともあるし・・・いや、そもそも好きって言っても、そういう意味じゃねぇだろうし・・・ていうか、『彼女がいるくせに』ってどういう意味だ?

「人妻なのにな。ザックスって実は女たらし・・・」
「いや、違うだろ」

どきっ、と心臓が鳴った。もしかしてフリッツは知っているのか?俺がずっと、そうではないかと半ば期待し、けれども確認できなかったことを?

「違うって、何が?ザックスは女たらしじゃないって?」
「じゃなくて、レーネ。彼女、結婚してないだろ」
「え?だって、結婚指輪してるじゃないか?」

フリッツが肩をすくめた。

「あれは結婚指輪じゃないな、左手だし。それに女が結婚してるかどうかは雰囲気で分かる」
「あー、はいはい、大した自信だよ」
「まあ、一種の持って生まれた才能ってヤツだね」
「お、じゃあ賭けるか?」
「いやあ、お前にこれ以上おごらせるのは気の毒だし」
「決まりだ!今度こそお前のおごりで飲ませてもらうぜ!」


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis