誘惑 〜Clair de lune〜
 
その夜は少し涼しい風が吹いていました。崖沿いの山道の途中に口を開いている洞窟に入り込み、いつもどおり二つ折りにした毛布の上に上着を被って横になろうとしたあひるに、ふぁきあは薄手の毛織布を差し出しました。

「今夜は肌寒いからこれを掛けてろ」
「ふぁきあは?」

座ったまま、受け取った布を広げて肩に羽織りながらあひるは尋ねました。

「俺はいい」
「だめっ。一緒に入れるよ、ほら」
「バカ、やめろ!おいっ」

あひるに背を向けたところで手をひっぱられ、ふぁきあはバランスを崩して片膝をつきました。すかさずあひるは羽織った布を広げてふぁきあを包むように背中に抱きつき、ふぁきあはその場に座り込む形になりました。ふぁきあは焦ってあひるの腕をほどこうとしましたが、あひるはお構いなしでした。

「昔よく、るうちゃんと二人で一緒に寝たなぁ。二人で寝るとあったかいんだよね」

(俺はプリンセス・クレールの代わりか・・・)

「・・・湯たんぽよりはマシか・・・」

なぜか少しがっかりしてふぁきあは呟きました。

「何?」
「なんでもない」

あひるはふぁきあを見上げましたが、ふぁきあは顔を逸らしてしまいました。けれど、もう、あひるを引き剥がそうとはしていませんでした。

「ふぁきあって独り言多い・・・そっか、ふぁきあってなんとなく懐かしい感じって思ってたけど、るうちゃんに似てるんだ」
「はあ?」

あまりに唐突な言葉に、ふぁきあはついあひるに視線を戻していました。

「ええとね、見かけじゃなくて、雰囲気って言うかなんて言うか・・・」

こいつはまた何を言い出すんだ、とふぁきあの顔に書いてあるのを見て、あひるは説明しました。

「素っ気無いけど優しいところとか、何でも一人で考えて、一人で決めちゃうところとか、ほんとはさみしがりやなところとか」
「何だそれは」

自分がそんな風に見られているのかと思うと恥ずかしい気がして、ふぁきあはわざと不機嫌な口調で言い、再びぷいと顔を背けました。

「うーん、何ってわけじゃないけど・・・あっ、でもるうちゃんは動物の他にもいろいろ好きなものがあるよ。あたしのことも好きって言ってくれたし。そう言えばるうちゃんはお月様が好きで、ほら、るうちゃんて黒髪で色白だから、お月様の精みたいって、よく・・・」

何かを思い出したように突然あひるの声が途切れ、ふぁきあは不思議に思って首を廻らせました。

「あひる?」

あひるは、溢れてきた涙を隠そうと俯き、ふぁきあの肩に顔を埋めました。けれど込み上げる嗚咽は止まらず、ふぁきあの肩に震えが伝わりました。

「どうした?」

ふぁきあは肩越しに手を伸ばし、あひるの頭をそっと撫でました。途端にあひるは堰が切れたように泣き出しました。

「るうちゃんの髪、きれいだったのに、あたしのために・・・あたしはなんにもしてあげられなかったのに・・・るうちゃん・・・」

あひるが何を思い出したのかは分かりませんでしたが、るうを大切に思っているということは分かりました。早くに母親を亡くし、父親も留守がちだったであろうあひるにとって、るうこそがいつも傍にいた「家族」であったのだとふぁきあは思い至りました。

(平気そうにしてたのに・・・やはり寂しかったのか)

ふぁきあは思わず言っていました。

「俺が・・・いてやるから・・・プリンセス・クレールの代わりに、お前の傍に・・・」

ふぁきあの背中を抱き締めて泣き続けるあひるに、ふぁきあはあやすように優しく触れました。
 
 
 

どのくらいそうしていたのか、ふと気づくと、あひるは泣き疲れたらしく、ふぁきあの肩口で静かな寝息をたてていました。ふぁきあは片手であひるの体を支えながらゆっくりと体をずらし、あひるを自分の胸に凭せ掛けるように抱き直して、体を安定させました。ふぁきあの肩に掛かっていた布が滑り落ちましたが、感じる暖かさは変わりませんでした。

ふぁきあはあひるの瞼にかかった髪を指先でそっとどけ、目尻に残っていた涙を拭ってやりました。あひるはふぁきあの腕の中で、安心しきって眠っていました。ふいに熱い何かが込み上げて腕に力が入り、ふぁきあは、このままずっとあひるを腕の中で守っていたいと思っている自分に気がつきました。王子の命令で嫌々来たはずの護衛が、もうすぐ終わってしまうと思うと―そしてあひるを手放さなければならないと思うと、堪らない気がするのでした。

ふぁきあはあひるの顔を見ているのが苦しくなり、毛布の上にそっとあひるを横たえると、立ち上がって外に出ました。星の少ない寂しい夜空に月だけが際立っており、それが却って不気味な雰囲気を漂わせていました。冷静さを取り戻そうと、ひんやりとした空気を深く吸い込んだ時、突然、懐に入れていたあひるのペンダントが熱く脈打ち、背後から声が響きました。

「あひるを自分だけのものにしたいかね?」
「誰だ!」

鋭く叫んで振り向くと、真上から照らす月の強い光で濃い影を作っている木の下に、マントを着た老人の姿が見えた、ような気がしました。

「お前はあひるを愛しているんじゃないのかい?」
「!・・・」

ふぁきあは答えず、黙ってその影を睨みつけました。

「変えられぬ運命にも、少しくらいは抗ってみなくちゃつまらん。このままそのペンダントを返さず、あひるを攫って逃げるっていうのはどうだい?いずれ捕まって連れ戻されてしまうにしても、それくらいのことはしないと」
「黙れ!!」

ふぁきあの鋭い口調にも老人は動じた様子はなく、ぶつぶつと呟きました。

「そうすれば王子を困らせることができるのに・・・信頼していた騎士に裏切られ、お話は不信と憎悪を孕んで悲劇へと・・・」
「貴様、何を言って・・・」
「それとも王子を亡き者にするかね」
「なんだと!」

右手を剣の柄に掛けてその木陰に駆け寄りましたが、確かにそこから感じていた怪しげな気配は既に消えていました。そしてまた背後から声がしました。

「このままでは永遠に引き裂かれてしまうよ。あひると離れたくないんだろう?さぁどうする?」
「な・・・」

振り返ったふぁきあの目に、今度こそはっきりと、月明かりの下に立つ道化姿の老人が映りました。が、次の瞬間その姿は虚空に入り込むように掻き消え、ふぁきあは呆然と立ち尽くしました。


 
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